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モヤモヤと自我

本を読んでいると自分が理解できない事もあります。あくまで私の主観的な思いだけど、今日はどうしてもモヤモヤしてしまってしまって...。

たぶん私が誤解して、理解しきれていない部分もあるから、そういう事じゃないよって教えてくれる人がいたら良いのになぁと思います。


突然湧いた強い怒りのような拒絶反応

本を読んでいて「悟り」について書いてありました。「悟り」とは「分かること」。人間には「分かりたい」という強い欲求がある。たしかに、だからこそ人は生きている意味とか求めるんだろうなと思います。自分が何者か分かりたい。ここに存在している意味を分かりたい。私もそういう所があります。それに、それを求めることこそが生きている意味に繋がるんじゃないかなとも思っています。

「悟り」を得た人は世界の見方が変わる。全ては同一みたいな。そういうところにどうしても拒絶反応がある。得た人とそうじゃない人、区別されているような。悟った、なんて、さもあなたとは感じている世界が違います、って言われているような。全ては同一って思えている人から覚えるこの区別感なんなのかな。私は何に怒っているのか...。

自分がない、自分を忘れたような感覚。そんな樹木みたいな生き方全然楽しそうじゃない。穏やかで淡々として、心は乱れないかもしれないけれど。藻掻きながらでも、燃えるように熱く生きていたいと思う。

なんだか泣きそうだ。

自分のなかで上手く落とし込めない。受け入れられない。

でもこれがいまの等身大のわたしだ。

分からない、って、心が叫んでいる。


人からの言葉に勝手に縛られていた自分

いままで心が感じることを、理性で押さえ込んできました。いまだって、まずは受け入れるとか自分なりに理解しようと歩み寄る姿勢も大切なんじゃないのって頭の隅で思っている。

人から「優しいね」と言われることが多かったです。次第にそういう「優しい自分であらねば」って考えが出てきて、何かに否定的になることを許さなくなってしまっていたのかもしれません。もしくはそうする事で自分も否定されないようにしたかった。その両方かもしれない。心をころして、誰かに求められるような理想的な自分になりたかった。そんな誰かなんていないのに。

誰に対しても優しくありたいと思う一方で、本当の私は全然優しくなんてない。それが苦しかった。

傷付くことを恐れず一歩踏み出す

でも、まずは「それで良いじゃん」って自分の素直な気持ちを認めたいです。優しくなれない自分。分からなくて、もやもやしている自分。「私は違うと思う」って反対の意見を言うこと。そして、そうやって自分の考えを示すことで、誰かを不快にさせてしまったり、自分を否定される場合もあることを受け入れたい。

他のものを聞き入れず、偏った考えにならないようにはしたいけれど、まずは自分の感覚を優先して尊重する。そうやって、少しづつ自分なりの価値観や考えを作り上げていきたいです。

私は自分を守りすぎていたのかもしれません。自我を取り戻したり、意思表示すら、この歳になって出来るようにしていこうなんて今更な気もします。情けなさすらあります。

でも今日が1番若い日です。どんなに後悔したって過去には戻れないし、遅くても今日から始めることしかできない。いまが全てです。

まずは自分の素直な気持ちを否定せずに受け入れて、自我を取り戻して、目を逸らさずに自分なりの人生をちゃんと生きていきたい。

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