キメラのいた系譜 第三部 7
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水泳部の活動がお預けとなっていた、絶望的に長い秋冬を超え、中学二年生となった彼は再び抗いがたい幸福を感じていた。ゴールデンウイーク明けに、久々に集まった水泳部員たちによって学校の屋外プールの掃除が行われたが、数か月ぶりに同期や先輩たちとまともに顔を合わせ、自らの胸に溢れた幸福感がまさかと思うほどに凄まじく、自分でも一人で目を見開いてしまうほどに驚いていた。また夏が終われば、再びそれを失うことになると思うと恐怖で全身が震えてしまった。プール掃除は二日間かけて行われ、その間も都内では小規模の爆破テロが一件だけ起きていた。とある市役所の婦人トイレで爆弾が発見されたのだが、警察部隊による時限装置の解除が間に合わず、まだ真新しかった便器が五つとも全て粉々になってしまったという事件だった。しかし、もはやそういう事件を気にするものは一人もいなかった。二か月後に地下鉄内で毒ガスが撒かれる以前までの話だが、時折起こる小規模の爆破事件や、田舎での銃撃戦は、都市において日々を生きる人間たちの間にはあっという間に馴染んでしまった、それらはテロ活動というよりも、悪質ないたずら程度のものと思われるようにすらなっていた。下校時の寄り道は自粛するように呼び掛けられたが、校内での部活動に関しては今まで通りの活動が許されていた。彼はまるで生まれ変わったかのような気分だった。水泳部には後輩が男女合わせて四人加わり、同学年の男子も新たに一人加わった。奇跡としか言いようがなかったが、彼はその誰とも気が合った。普段のクラスでは孤立していることが信じられないほどに、部室では仲間たちと共によくはしゃいでいた。主に高等部の先輩たちの手により、数々の雑誌や漫画本、特殊なダンベル、ポルノ写真、風が吹けば少女の叫び声のような音を鳴らす、水色の風鈴などが持ち込まれた。冬の間にすっかり孤独に慣れてしまい、胸に何かを感じる機会もほとんど無くなっていたために、春を迎えて仲間たちと笑い合うことは、彼にとっては空きっ腹にご馳走を与えられたようなものだった。しかも素晴らしいことに、そのご馳走はどんなにかっ込んでも胃腸の負担にはならないように思われた。強いて懸念があるとすれば、やはり、再び訪れるだろう空腹を恐れなければならないということだった。その恐怖を忘れるためにも、彼はひたすら泳ぎ続けた。キメラとしての身体能力を覚醒させつつあった彼は、面白いほどにタイムを縮めていった。どんなに重い水をかいても腕や背中の筋肉はじんわりと温かくなるだけで、疲労は一切感じなかった。そのじんわりとくる温かさとはつまり、負担をかけた筋肉が凄まじい勢いで回復、増強している証拠なのだと彼は理解していた。日を浴びている限り彼の体は常に栄養源に接続されていた、結果として、彼に身体的な限界は存在しなかったのだ。
彼は市内の競泳大会をあっさりと突破し、次は県大会に出場することとなった。市内大会では、同じ種目を泳いだ五十四人の中で四番目のタイムを叩きだした。この頃にはすでに、毎日こつこつと練習に取り組む彼のひたむきさと、それに伴う異常なまでの実力は先輩たちや顧問の教師にも認められていた。彼はそこで調子に乗るわけでもなく、それからも真面目に泳ぎ続けたことがさらなる評価に繋がったのだが、しかし彼にとっては、あくまで泳ぐことは恐怖を忘れるための唯一にしてとても有効な手段であって、逆に泳がないという選択肢があり得なかっただけだった。
彼にとっては信じ難い幸運が続いていたが、やはりそれを失う恐怖は常に付きまとっていた。あるとき、充足していた彼の腹の底を恐ろしい予感が過ぎった。その予感とはつまり、本来であればこの幸福は、少なくとも夏が終わるまでは続くはずだったが、これだけ高濃度な幸福が一気に夏前までに訪れてしまったからには、その分この素晴らしい期間の終わりも速まってしまうのではないかという、誰からしても至極真っ当と思えるようなものだった。
次の大会を一週間後に控えた七月のある日、彼は普段通り始業の十分前に登校した。ふと教室がいつもより騒がしいことに気が付いた。何かあったに違いなかったが、クラスには親しく話せる人間はいなかったために、彼は一人黙って自分の席に座っていた。担任教師が教室に入ってきて朝のホームルームが開始されたが、そこでは普段と変わった様子は何もなかった。一時間目になって、趣味をトライアスロンとする、健康的に日焼けした禿げ頭の英語教師が教室に入ってきたときに、その教師が元気よく放った一言でようやく全てが明らかになった。
「あいつらが、また動き出したな」
新人類によるテロ事件が起こったということだった。彼はそれを聞いたとき、どうせまた、どこか寂しい街のアパートのごみ箱が閉店時間中に爆発したのだろうと思ったが、どうやら今回は事情が違うらしかった。毒ガスが通勤ラッシュ時の地下鉄内で撒かれたらしいとのことだった。厳密な死者数はまだはっきりとはしないが、少なくとも現状では千三百人が負傷しているらしい、この学校とは反対の方角へ向かう電車だったために、ここの生徒の犠牲者はいないはずだとのことだった。しかし、彼がその日の授業を終えて部活動のためにプールへ向かうと、普段であればすでに教官室に居るはずの顧問の教師がそこにいなかった。水泳部に所属する、高等部の先輩の一人が毒ガス事件に巻き込まれて死亡していた。その先輩は、高等部の男子部員の中でもエース級の実力を持つ選手だったが、同性愛者であることを公言していて、そのことを周りの部員たちもみな快く受け入れていた。この日、その先輩は学校をさぼり、午前中から他校の彼氏との映画デートに向かうために学校とは逆方向の電車に乗っていたのだが、その道中でテロ事件に遭遇してしまった。電車に乗っている最中、同じ車両の向こう側から何やら騒いでいる人声が聞こえてきて、訝しく思ったときにはもうすでに遅かった。腐った葡萄を思わせる独特な香りの空気に全身を包まれ、気が付いたときには息が出来なくなり、彼氏のことを思う間もなくあっという間に死んでしまった。
結局、その日の部活に顧問の教師は現れなかった。マネージャー宛の電子メールで練習メニューが送られてきただけだった。部員たちは淡々と練習をこなしたが、同性愛者のエースを失った喪失感は計り知れなかった。その日のプールはまるで、中世から近世への移り変わりの時期に伝説の大海賊を失ってしまった、侘しいカリブ海のような雰囲気を呈していた。夕方、彼はすっかり肩を落として自宅へ帰ったが、そこでもまだ衝撃は終わらなかった。顔をくしゃくしゃにし、両目を真っ赤にした母親から、彼の小学生時代のクラスメイトの一人もまた、毒ガス事件に巻き込まれ、現在意識不明の重体らしいとのことだった。このまま周りの人間が次々と死んでいってしまうのかもしれないと考えた彼は、恐怖とも違う、何とも言えない不思議な気分に襲われた。三日後にはやはり、そのかつてのクラスメイトも死んでしまった。同性愛者の先輩の遺族らは、大会が近い水泳部員たちのことを考慮し、葬儀は親族だけで行うとしていた。かつてのクラスメイトの方は大体的な通夜を行うらしかった。連絡を受けた彼は午前中の部活に参加した後、一旦家に帰り、制服の真っ黒な学ランを正しく着て通夜に向かった。
通夜は恐ろしく混み合っていた。場所は駅前のビルの葬儀場だったが、まずそこに辿り着くまでに、夜の闇に溶けるような黒々とした喪服の長い列が、駅の出口から線路を跨ぐ歩道橋をこえて、まるで執念深い蟻の隊列のように続いていた。彼もそこに加わり少しずつ列を進んでいったが、葬儀場に辿り着くまでに四十分もかかってしまった。夏のむせ返るような蒸し暑さの中、誰もが喪服の下の全身を汗まみれにしていたが、礼儀を考えて、黒い上着を脱ごうとするものは一人もいなかった。列の試練を超えてようやく葬儀場に辿り着いたが、そこもまた黒々とした人だかりで溢れかえり、息苦しいことには変わりなかった。彼は孤独な人間らしく一人でそこまで来ていたが、他の何人かの同窓生たちは事前に待ち合わせをして来ているようだった。人混みに紛れて広間の隅の方で固まっているいくつかの見知った顔を見掛けたが、話しかけようとは思わなかった。せいぜい彼の中であった期待としては、あのブランコの事故があって以来仲違いしてしまった、例の元友人と再会できるかもしれないということぐらいだった。卒業式後の別れ際には、「もう二度と出会わないことを願う」と言われたが、別に彼の方はそう願っていたわけではなかった。機会があれば顔を合わせることぐらいはあっても構わないだろうと考えていたが、この真っ黒な人混みの中ではそれも難しいかもしれないなと感じていた。通夜が行われていたのはビルの三階だったが、焼香の列は一階の階段から始まっていた。再び三十分ほどかけて列を進みようやく遺影の前まで辿り着いたが、そこに写っていた顔は、彼の知るかつてのクラスメイトとは全くの別人のように思われた。あまりに会葬者が多かったために、焼香は回数ではなく、一人三秒以内という時間制限が設けられて進行していた。彼も慌ただしい焼香を終えたが、混雑を避けるためにすぐ葬儀場を後にせざるを得なかった。人波にもまれて階段を降りている途中、彼は思わず声を上げそうになった。例の、元友人らしき後ろ姿を見つけたのだ。人間大のバルーン人形を思わせる黒い喪服の人々を押しのけ、彼は急ぎ階段を降りていった。一階の広間に降りたところで一瞬見失ってしまったが、ただ予感に従って歩いていると、まるで運命を感じさせるために神がそう仕組んだかのような形で再び見つけることができた。元友人はかつてのクラスメイトの一人と広間の隅で話し込んでいた、彼はその横顔を見つけた。今彼の立っている角度からは、元友人は悲しげな顔をしているようにも笑っているようにも見えた。人混みの中で近づこうと足掻いていると、それを感じ取ったのか、元友人が彼の方を振り返った。元友人は笑ってはいなく、悲しげな顔をしていた。彼に気付いた元友人はその顔のまま、幽霊のようにするすると人混みの中を通り抜けて彼の所まで近づいていった。相手を目の前にして、彼は元友人が小学校の卒業時よりかなり身長が伸びていることに気付き、僅かな恐怖を覚えた。背が伸びていた元友人を恐れたのではなく、自分の身長が大して伸びていないのではないかということに対する恐怖だった。それでもまだ彼の方が僅かに背は高かった。目の前まで来た元友人はただ一言、こう言った。
「俺の母さんも死んだよ」
それを聞いたとき彼は、元友人の母親もまた、地下鉄テロ事件に巻き込まれたのだと勘違いした。もっとも、そう思うのが自然なはずだった。元友人はそのまま背を向けて去って行ってしまった。自宅に帰ったあと彼は両親に、「元友人の母親も事件に巻き込まれて死んだらしい」と報告した。しかし両親、特に父親は、それがキタハルのことだとは気付かなかった。一日の終わりにその日の朝の新聞を眺めながら、興味なさげに「そうか」と呟いただけだった。彼は、元友人の母親の葬儀にも参加するつもりでいた。たとえ「元」友人ではあっても、母親ほどの大きな存在を失ったときには、ちゃんと相手を気遣ってやった方が人間として真っ当だろうと考えていた。実際、元友人は葬儀に参加してほしくてわざわざ直接、自らの母親の死を伝えてくれたのだろうとも考えた。そのうちに葬儀の日程の連絡が来るだろうと思い、しばらく待っていたが、一向に連絡は来なかった。ある日の新聞に、地下鉄テロ事件の犠牲者の名前がつらつらと細かい字で掲載されていた。彼はそれを注意深く見ていった。しかし、元友人と同じ苗字の名前は一つも見当たらなかった。この時の新聞は前世紀までのモラル崩壊時代のそれとは違い、被害者の実名を掲載するにもいちいちその親族の同意をきっちりと確認するようになっていた。元友人の母親の名前も、そういう都合で新聞等に掲載されなかったのだろうと彼は考えた。彼はそれからも葬儀日程の連絡を待ち続けたが、やはり連絡は来なかった。おかしいな――いや、しかし永遠に連絡が来ないはずはない、葬儀の準備に手間取っているということかもしれないが、もうしばらく待っていれば、そのうち連絡が来るはずだと彼は信じていた。彼は、ちょっとしたことで疎遠になってしまった恋人からの久々の連絡を待っている、いじらしいカップルの片割れのような心情で葬儀日程の連絡を待ち続けた。乙女のように気持ちが悶々としてしまい、大会が近いにもかかわらず部活の練習にも身が入らなくなってしまった。部活の同期や先輩後輩、顧問の教師も心配したが、案の定、彼は関東大会への出場を逃してしまった。すっかり落ち込んでしまい、どうにも調子が戻らなかったが、それでも泳がないことには仕方がない、というよりも、今の自分にできることはただ泳ぐことだけだということを思い出して、何とか泳ぎを持ち直した。自分から元友人に連絡してみようなどとは露ほども思わなかった、もかしたら、自分でも得体の知れない意地によって、そういう体裁を保とうとする無意識の力が働いているのかもしれなかった。学校も部活も休みの、ある日の昼食後、彼は自室のベッドに寝転がって昼寝をしていたが、そんな時でも彼は、しっかりと両手に携帯電話を握りしめたままだった。浅い眠りの淵を心地よく彷徨っていると、自分の右手に突然、野性的な生き物の暴れる動きを思わせる強い振動を感じて、彼は文字通りベッドから飛び上がった。慌てて携帯電話の通話ボタンを押し、耳に押し当て、「はい、――です」と自分の名前を言おうとしたが、緊張して「はい」の先で口ごもってしまった。
「あんた、そんなおかしな名前だったっけか」
電話口からそう言う声が聞こえた。彼は思わず落胆した。元友人からの電話ではないかと期待していたが、実際の相手は父方の祖母だった。「そっちに贈り物を送ったよ」と祖母は言った。祖母は夫を亡くしてからというものの、生活における何か大事な一部分を失ったような気がしてならなかったが、やはり同時に、かけがえのない自由を取り戻してもいた。祖母はついに地域の婦人会の活動を飛び出して、周りの人間はそれを聞いてもほとんど冗談としか思わなかったが、たった一人で海外を巡るようにもなっていた。もうとっくに有効期限の切れている、半世紀以上前に取得したビンテージもののパスポートしか持っていなかったが、周りの誰も知らないうちに、いつの間にか新しいものを作っていたのだ。孫に電話をしたこの時も、つい昨日までは海外にいた。幻の鳥と言われているケツァールの姿を自らの手で写真に収めるために中米のコスタリカに渡っていたのだが、三日間かけて様々な国立公園を巡り、四日目にしてようやくとある農家の私有地でその幻の鳥の羽ばたく姿を目にした時に、ふと自分の孫に関する重大な案件を思い出してしまった。緑色の鮮やかな翼をカメラのファインダーに収め、ピントが合っているのかも曖昧なまま慌ててシャッターを押すと、祖母はそのまま空港へすっ飛んでいってしまった、その飛行機は満席であったにもかかわらず、金にものを言わせて、休暇を終えて帰るつもりだった中年男の大学教授を無理やり席から追い出し、当日のチケットを買い取って急ぎ帰国した。祖母が思い出したのは、自分の夫が死に際に何とか書き切った、原稿用紙千六百枚ほどの小説についてだった。「あんたが誰よりも最初に読まなきゃいけないらしいのよ」と電話口で祖母が言った。
「誰よりも特別な力を持つあんたが、最初に読むものだって――いつか渡そうと思っていたんだけど、すっかり忘れていたよ。まぁ明日の午前中には届くと思うから、時間のあるときでいいから読んでみなさい」
しかし、そう言われても彼は微塵の興味もそそられなかった。同じ死者でも、今の彼が関心を持っているのは自分の祖父ではなく、元友人の母親の方だった。その後も葬儀の連絡を待ったが、いくら待っても連絡は来なかった。連絡の来ないままさらに二週間が経った頃には、さすがにもう諦めようと思い始めていた。しかし、彼はすでに自分が何を諦めるべきなのかも忘れつつあった。しみじみとしながらこの時の彼の感じたことは、死者や、遺族に対する何よりの弔いは、結局のところ全てを忘れてやることなのかもしれないということだった。
部活帰りの夕方、彼は空いた電車の席に座っていると、向かいに座っていたワイシャツの禿げ頭の男が突然、胸を抱えて苦しみだした。冷房を効かせた快適な車両内ではあったが、真向かいでじっとりと汗を浮かべている禿げ頭を眺めながら、彼は、もしかしたらこの前の地下鉄毒ガス事件の時も、乗客たちはまさにこうやって苦しんだのかもしれないと考えた。他の乗客の何人かも、苦しんでいる禿げ頭に気付きだした。心配そうに視線をやっていたが、話しかけようとするものはいなかった。向かいに座っていた彼は少し気の毒に思えてきて、席から僅かに腰を浮かし、苦しむ男に向かって呼び掛けた。
「あと二分くらいで、次の駅に着きますよ」
それを聞いた男は冷や汗だらけの顔を上げたが、何も言わず、ただ彼に向かってすまなそうに微笑んだ。そしてまたゆっくりと顔を伏せて苦しみだした。電車の音でよくわからなかったが、もしかしたら男は呻き声をあげているのかもしれなかった。全く根拠はなかったが、呻き声をあげているのとあげていないのとでは、その症状の重さに大きな差異があるように思われた。彼はますます気になって向かいからよく耳を澄ましてみたが、聞こえてきたのは遠くからの声だった。振り返ると、車両の向こう端の方でも同じようにワイシャツ姿の男が、こちらははっきりと呻き声をあげて苦しんでいた。気が付けば、隣に座っていたスーツ姿の若いOLが座席に横になりながら身悶えていた。向こうのドアの横に立っている、おそらく彼よりも年上の男子高校生が、いじっていたスマートフォンをごん、という大きな音を立てて床に落とし、悲嘆にくれた顔をしながら自分の喉を掻きむしっていた。向こうの方に座っていた、茶色くゆったりとしたスカートをはいた老婆は目をきつく瞑って、顔中を汗だらけにしながら苦しげに口をぱくぱくとさせていた。そこで彼はようやく、車両の全体に腐った葡萄を思わせる香りの、けばけばしい紫色の怪しい空気が充満していることに気が付いた――自分もテロの被害者として新聞に名を連ねることになるのか――いや、もしかしたら元友人の母親のように名を連ねないことになるのかもしれないが、果たして自分の場合はどちらの方がより望ましいだろうかということを、彼は、苦しみに襲われるまでの僅かな一瞬の間で何とか自分なりに結論付けようとしていた。しかし、一向に苦しみはやってこなかった。この世の終わりを思わせるオレンジ色の夕日が車両内に差し込む中、周りの他の乗客の何人かはすでに床に倒れ込み、細かく痙攣しながら、目を瞠るほど鮮やかな赤い血を吐き出してすらいた。いくら待っても何の症状も起きない彼は、周りの人間とのあまりの状況の違いに、かえって不安に襲われてしまった。そこで彼は、自分がただの人間ではない、キメラと呼ばれる特殊な人種であることを思い出した。それとほとんど同時に、彼の中でまたもう一つ別のことが思い出された。自分でも理由はよくわからなかったが、彼は車両内に突っ立ちながら感動のあまり一人で目を見開いていた。その頭の中を一瞬の閃光が駆け巡るような感覚に襲われたとき、奇跡的にも、ちょうど電車が駅に到着した。ドアが開くと同時に彼は電車を飛び出した。駅のホームを走って突っ切っているときに後ろから誰かが呼びかけてきたが、彼の耳には入らなかった。駅の階段を駆け下り、目にも留まらぬ速さで改札口を突き抜けると、バス停でバスを待つのももどかしく一キロ先の家に向かって走り出した。バスで十五分ほどかかる道を、バスの走らない近道を使ったこともあってか、夕暮れ時になっても未だ地面から立ち上ってくる夏の午前中の熱気に晒され汗だくになりながら、彼は八分ほどで全てを走り抜いてしまった。息を切らして家に帰り着くと、そのまま勢いよく靴を脱ぎ捨てて急ぎ自室へ駆け込んだ。母親が驚いていたが、彼は一切気にしなかった。水着とタオルの入ったカバンを放り捨て、彼はプリントを積み重ねた机の上を漁り始めた。制服の下まで全身汗だらけになりながら必死にがさがさとやっていると、ついに目的のものを見つけた。二週間ほど前に祖母が送ってきたが、そのときの彼は全く興味をそそられなかった、結局これまでに一度も目を通すこともなく机の上に放り出していた、祖父が書き残したという原稿用紙千六百八十七枚の小説だった。彼は床に座り込み、夢中になって読み始めた。「髪の毛は頭頂の辺りからすっかり禿げ上がってしまった」という冒頭から始まり、いつの間にか一人の男の人生が始まっていた。それが祖父のことだと分かり、自分や、自分の父親のような呪われし体質の人間がどういうきっかけで生まれたのかを知った。自分の父親が緑色の尿を初めて出したのは中学二年生のときで、高校二年生の頃には、あの陰湿極まりない戦争で貴重な戦力として活躍していたことを知った。キタハルという恐ろしい女子の存在を知った。腹の底からこみ上げてくる興奮を抑えきれず、読み飛ばしていくうちにやがて自分の事が書かれているページを見つけた。今まさにこれを読んでいる自分の箇所を見つけようとしてさらに思い切って読み飛ばし、誤って少し先の未来の記述を読んでしまった。彼は未来でちゃんと元友人の母親の葬儀に参加していたが、その後に元友人と命をかけた決闘を行っていた。戦争は戦争としての体をすっかり失っていた。全ての元凶とも言えるあの哀れな大叔父は、四か月後の生まれ変わりで人の形をした純粋な植物となり、ついに人間としての生涯を終える、とのことが記されていた。
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