キメラのいた系譜 第三部 1
生まれた直後からその身に緑色の化け物を宿していた父親が、自分の体の特異性に気が付き始めたのは中学二年生の頃、放課後にトイレの便器の前に立って用を足しているときだったが、対してその息子が、自分の体の特異性に気が付いたのは、まだ小学四年生の頃だった。ある初夏の午後の昼休み、尿のすえた臭いの充満する男子トイレの便器の前に立ったときに、緑色の尿が出たのだ。自分の性器から勢いよく噴出している緑色の液体を見て、さすがに始めは驚いたが、しかしすぐに落ち着きを取り戻した。全てを出し切って、ぶるぶるっと体を震わせると、性器をズボンの中に仕舞って手を洗い、平然とした面持ちで教室へ戻っていった。彼は精通と勘違いしていた。全ては小学四年生の一学期に受けた、性知識の学習も要領として含んでいた保健の授業で、男性教師が真面目な表情で語っていた、決して間違いとも言い切れないある文句が原因だった。
「精液とはそのほとんどが白色だが、場合によっては黄色みがかったものや、透明のものもある。液体のときもあれば、まるでゼリーのような、ほとんど固体に近いときもあるんだ――精液の特徴は人それぞれ、また同じ人でも、その人の、その日の体調によって様々なんだよ」
黄色や透明の液体、それどころか固体のようなものまであるとすれば当然、緑色の精液だってあり得るだろうと、彼は極めて冷静に考えていた。この勘違いは、彼が本当の精通を経験する、小学五年生の春まで正されることはなかった。夜、自室のベッドの上で悶々としながら性器をぎんぎんに勃起させているときに、不意に奥の方から道を切り開いてやって来た、そしてそのまま背筋を貫いた圧倒的な快感を経験し、緑色の液体は精液ではなく、異常な種類の尿だと認めざるを得なくなった。ようやく不安になって、父親にこっそりと相談した。父親も始めはやはり驚いていたが、それからすぐに穏やかな、何かを懐かしむような表情になって、静かにこう言った。
「それはつまり、お前がちゃんと俺の息子だということだよ。何も心配はいらないさ」
父親は、自分の体に緑色の化け物が眠っていることや、かつての対テロ戦争においては自分が特別な戦力として利用されていたことなどを、息子には一切語っていなかった。そんな過去を感じさせるものは、息子の周りには何一つなかった。唯一手掛かりがあったとすれば、それは父親が黒い小さな巾着袋に入れて常に大事そうに持ち歩いていた、自身がかつての戦争で体に撃ち込まれたものだという灰色の弾丸だけだった。息子の彼は時々それを父親から見せてもらったが、何度見ても、彼にはやはりただの鉄の豆粒にしか見えなかった。中学に進学するころには、父親が何を思ったのか、その弾丸をお守りとして譲ってやると言い出した。彼は取り敢えず受け取ったが、もしもの時のためにいつもズボンのポケットに持ち歩いている、小さな小銭入れの中にその弾丸を裸のまま仕舞って以降、存在をすっかり忘れてしまった。
父親は商社で経理の仕事をしていた。毎朝決まった時間に起きると、妻がトースターで焼いた食パンを一枚だけ、牛乳でごくごくと胃に流し込み、スーツを着、使い古したビジネス鞄を持って淡々と出勤していった。仕事を終えて家に帰ってくるのは、だいたい妻と息子が夕食を食べ終えた直後だった。温め直した夕食を黙々と食べながら、付き合いで食卓の向かいに座っている妻に向かって時折、仕事の愚痴を言っていた。父親において何か変わっている点があるとすれば、人より独り言が多いように思われることぐらいだった。食事を終えた後や、風呂場、トイレの最中、新聞を読んでいるときなど、ぼそぼそと一人で何かを言っているのを息子の彼はよく耳に挟んでいた。
「――お前だったら、こんな奴らすぐに殺してしまうんだろうな」
父親の、ただひとりで呟くというよりも、まるで見えない誰かに問いかけているかのような種類の独り言に不審な思いを抑えきれなくなった彼はあるとき、母親に向かって思わず、「お父さんの独り言は、どうしてああ気味が悪いの?」と聞いていしまった。母親は優しげな表情をしながら、「気にすることはないわよ」と答えた。
「夢の中にいる、親友に向かって話しかけているのよ」
母親はそれ以上何も語らなかった。息子の彼は両親によって、これ以上はないというほどに大事にされながら育てられたが、しかし、何に関してもどこか自己完結的な感じがする両親に対しては、幼いながらに苛立つことがままあった。父親の独り言や、緑色の尿に対する曖昧な説明などはまさにそれだった。半分ふてくされたようになりながら、彼は自分でインターネットを駆使し、緑色の尿が、とあるバクテリアに感染している可能性を示す症状であることを突き止めた。彼はそれを両親に報告した。しかし、それを聞いた両親は驚いたり心配したりするどころか、声を上げて笑い出した。そのあまりに屈辱的な反応に彼はますますふてくされてしまった。息子のその様子を見た父親は、笑い過ぎて目から溢れた涙を拭いながら、「いやぁ、悪い悪い」と謝った。
「昔の俺とあんまりに同じでさ。つい面白くって――」
「何も面白くなんてないさ」彼は父親を睨みつけながら言った。
「病気の印なんだよ、これは!」
「何も心配はいらないわ」と母親も穏やかな笑顔で言った。
「生まれた直後の検査でも、あなたの体に異常は見つからなかったのよ。緑色のおしっこは、きっと名残のようなものね」
彼は、「その名残って一体何なの?」と聞いたが、二人は含んだように笑うだけだった。両親二人の間でしか伝わらない暗号なのだと直感し、彼はますます不機嫌になって言い返した。
「そもそも生まれた直後の検査なんて関係ないよ。結局は、バクテリアに感染した後の話なんだから」
それでも父親は、「大丈夫さ」と自信のある様子で言った。
「父さんと母さんを信じろ。母さんなんて、元々は大病院の看護師だったんだぞ」
当人にとっては信じ難いことに、緑色の尿の話はそれで終わりになってしまった。せめて病院でお医者さんに診てもらった方がいいんじゃないかと言っても、「かえって事態がややこしくなる」とか何とか訳の分からないことを言われ、止められてしまった。親が当てにならないとわかった彼はその翌日、藁にも縋る思いで、小学校の担任教師に自分の緑色の尿の症状について相談をした。しかし恐ろしいことに、そこにはすでに両親の手が回っていたのだ。
「お母さんから話は聞いているよ」
給食後の昼休みの時間、彼は担任教師を相手に一切のプライドを捨て、自分の緑色の尿について、その色の鮮やかさや、夏草を思わせる臭いなど全てを事細かに説明したが、担任教師は無頓着、ともいえるような様子でそう言っただけだった。はじめ彼は自分の耳を疑った。
「母が、何か言っていたんですか?」
「何か、というか――今君が言ったこと全てを、事前に教えてくれたよ。今日の朝に電話でね」
それを聞いて彼は愕然とした。自分の知らないところで何かが周到に仕組まれていくような不気味さを感じ、背中を冷たい汗が流れた。彼の脳裏には、二人の両親が子供の自分ではどう足掻いても手の及ばない壁の向こう側で、穏やかにほくそ笑んでいる様子までもが浮かんでいた。そんな彼の気も知らず担任教師は、「何も心配ないさ」と、昨日の両親と同じような台詞を言った。
「君も私も知るわけにはいかない、色々な事情があるんだよ」
もはや救いの道はないように思われた。結局彼は、トイレの小便器に向かい合う度に、自分の性器から発射される尿が何色なのか、まるでルーレットを気にするようにびくびくと構えるようになってしまった。隣の便器に友人が立っている場合などは尚更だった。もし緑色の尿を出しているなどと知られてしまったときには一体どんな騒ぎになってしまうか、想像するだけで気が重くなった。彼は学校のクラス内で、自分の特異なこの症状を、小学生相応の下品な笑い話として自ら進んで披露できるような、陽気者の立ち位置にはいなかった。むしろ真逆だった。彼はとても勉強が出来たし、真面目だった。友達がいないわけではなかったが、物静かで、ほとんど決まった数名の友人としか喋らなかった。何としても、自分が緑色の尿を排出していることは隠し通さなければならない――不幸中の幸いと言うべきか、緑色の尿が出るのは数ヶ月に一度だけだった。しかし、具体的なタイミングを予想出来たわけではなかったために、やはりトイレにいる間は常に気を張っていなければならなかった。どうにか半年ほど誤魔化し通すことが出来たが、ある時ついに、最も仲の良かった友人の一人が、学校の男子トイレで、隣で小便をしているときに何かに気付いたようだった。「ん?」と友人が隣で声を上げ、彼は一瞬ひやりとした。慌てて小便器に全身を押し付けるようにして、自分の尿が外から見えないよう、完全に便器を体で塞いだ。そしてすぐに平静を装い、「どうした?」と何気ないふうに聞いた。「いや、何か――」と言って、友人は首を傾げた。
「――いや、まぁいいや」
友人は何か言いたげだったが、結局飲み込んだらしかった。このときはどうにかそれで済んだ。彼とその友人は同じクラス内で一、二を争う秀才だった。二人とも勉強が、特に算数が得意で、休み時間や登下校の時間でも自然と一緒にいることが多かったが、勉強の話はほとんどしていなかった。登下校中によくおしゃべりしていた内容は、流行りのJPOP音楽についての情報か、その友人が一人ではまっていた、オタク文化の原点とも言うべき萌え絵が表紙にあしらわれたライトノベルを彼が批判し、友人が弁護する議論のようなものが主だった。給食の後の三十分間の昼休みの時間には、クラスの男子の集まりに参加してドッヂボールをしたり、または二人で体育倉庫からそれぞれバスケットボールを持ち出して、校庭の隅に置いてある、錆びたポールの先端に高々と取り付けられているバスケットゴールに向かってひたすらシュートを繰り返し、ゴールできた回数を競ったりしていた。二人とも学校とは別にそれぞれ塾へ通っていて、しかも別々の塾だったために、学校の外で遊ぶ機会は全くと言っていいほどなかった。小学五年生になると中学受験を来年に控え塾での勉強がどんどんと重くなっていった。週四日で塾に通い、塾のない日の放課後でもほとんど勉強に追われていた。塾では国語算数理科社会の四科目を教えられ、それぞれに塾の授業で用いるテキスト、宿題用のテキスト、応用問題用のテキスト三冊が配布されていた。塾のない日の家では授業に用いるテキストの予習部分を含め、全てのテキストに目を通し、決められた問題を解いておかなければならなかった。どうしてもやらなければならない小学校の宿題は、その合間の短い時間で終わらせるしかなかった。
「小学校の宿題は、休憩時間にやりましょう」
ある時、残酷極まりない文句を母親が言った。「私が小学生の頃は、それが普通だったわよ」
「僕には無理だよ」彼は打ちひしがれて言った。
「最近、頭がパンクしそうなんだよ」
「ここが踏ん張り時よ」と母親が恐ろしい笑顔で返した。
「ある時期が来れば、まるでたがが外れたみたいに、急に全部がすっきり分かるようになるから」
このときの彼の精神は正直、コップいっぱいに表面張力でどうにか水をこぼれさせまいとしているような、限界すれすれの状況だった。薄暗い自室の机に向き合って勉強をしているときに、無性に鉛筆をへし折りたくなったり、テキストを力いっぱいに引き裂きたくなったりした。どうしても解けない問題があったりすると、彼はますます追い詰められた。実際彼の、水色の算数テキストの表紙には、一度大きく破られた部分にセロハンテープで直した痕があった。今頃中学受験をしない同級生は学校の簡単な宿題を早々に終わらせ、居間でソファに寝そべってテレビでも見ているのだろうかと思うと気が狂いそうになり、テキストに手をかけ、思いっ切り表紙を引き裂いてしまったのだ。塾のクラスには彼以外にも、自宅での勉強中に彼と同じようなことを思い、その場の怒りに任せてテキストを引き裂こうとしたと告白する生徒が何人かいた。しかし、皆テキストに三センチほどの切れ目を入れた後、すっかり怖気づいて途中で止めてしまっていた。ちゃんと冊子から表紙を切り離した者は彼の他にはいなかった。それに関して彼は恥ずかしさと同時に、妙な誇らしさも感じていた。表紙を破りきるような大胆な振舞いも、家の中だけで留めるようにしていた。学校や塾では極めて落ち着きのある優等生として、まるで花畑を舞う蝶のように振舞い続けた。塾は別々だったが、同じく来年に中学受験を控えている例の友人も、精神にストレスを負っているような様子は微塵も見せなかった。確かに仲は良かったが、深刻な相談事をするような間柄とは違うように感じていた。受験勉強のストレスを友人に打ち明けるなど、できるはずもなかった。ましてや、同じ受験勉強に取り組んでいるはずの友人が、精神的に追い詰められているような様子は一切見せずにひょうひょうとしているのだから、自分だけが弱音を吐くわけにはいかないと感じていた。やはり彼にとっての精神ストレス解消の場は、学校の昼休みの時間と、下校時間だけだった。彼と友人の下校途中の道には小さな文房具店があった。彼らの住む町は、子供の遊び場といえば手狭な公園くらいしかない住宅街だった。この街にある特別なものといえばせいぜい、二十三年前はここが戦場であったことを示す小さな慰霊碑くらいだった。下校途中に寄り道をして楽しめる場所などたかが知れていたが、彼と彼の友人にとっては、その文房具店が憩いの場となっていた。思わずぞっとするような、けばけばしいピンク色の花の写真が表紙にプリントされているジャポニカ学習帳、むせかえるほどに樹の香りがたっているぴかぴかの鉛筆、全部で十六種ある、大きさや色の様々な消しゴム、小学生が書道の時間に使う墨汁や半紙――墨汁と半紙はどれも大きさや色に違いはないように思えたが、なぜか消しゴムよりもはるかに豊富な種類があった――それ以外にも、図工の時間に使う十二色の絵具や、黄色い容器の上からもまるで麻薬のような危険な臭いをはっきりと感じさせる木工用ボンド、妙に丸みを帯びた鋏などが、薄暗い店内に並んでいた。別に彼も友人も文房具に特別な関心があったわけではなかった。彼らが文房具店に寄る主な目的は、そこの店主である老人が放し飼いにしていて、よく店の前をうろついている黒猫を撫でつけるというものだった。彼らは、猫に対してもまた特別な興味があるわけではなかった。ただ、実際に動物を飼育したことはなかったが、自分が飼うのであれば犬よりも猫だろうという点において、二人の意見は一致していた。実際、彼と友人が文房具店に寄るようになったきっかけというのも、別に文房具や猫に関係があるわけではなかった。ゴールデンウイーク明けのある日、彼と友人と、もう一人のクラスメイトの計三人で下校している最中に、友人が突然、「腹が痛い」と言い出したのだ。
「トイレに行きたいってこと?」と彼が聞いた。
友人は腹を抱え、苦痛に表情を歪めながら呻くようにして、「ああ」と答えた。友人が呻きだしたその場所は、ちょうど学校と友人自宅の中間あたりだった。数分歩けば公園があったが、そこの公園には公衆トイレは無かった。
「公園で野グソだな」
一緒に帰っていたクラスメイトが、さも当然のことのようにそう言った。しかし、友人は顔中に冷や汗を浮かべながら、ぶるぶると首を横に振った。「いやだ」とはっきり断言した。
「文化的な生活を送ってきた人間としての誇りを、こんなところでむざむざと捨てるものか。四方を壁で囲まれたところでないと、俺は絶対に用を足さないぞ」
「まぁ漏らしたら文化的な生活どころじゃないけどな」と彼は思わず意地悪い笑顔を浮かべながら言った。
「野グソはしない」と友人は再び言った。「恥を忍んで、見知らぬ人の家のトイレを借りた方がましだ」
そこで友人が見つけたのが、あの文房具屋だったのだ。以前より目に入ってはいたが、あまりにも寂れた様子であるために、今までに一度も立ち寄ったことのないその小さな店へ、友人は駆けこんでいった。彼とクラスメイトも面白がって店の前までついて行った。様々な商品が雑多に並んでいる薄暗い店の奥で友人は、レジの前に座っている、そこの店主らしい痩せこけた白髪の老人に切羽詰まった様子で話しかけていた。老人が短く答えると、友人はさらに店奥の暗がりの方へまるで闇をかける鼠のように飛んでいった。その様子を見ていた彼とクラスメイトは声を上げて笑った。暗い店の奥から、老人がきらりと目を光らせて睨んできた。
「そんなにあいつを笑うのなら、もし今度お前らが腹いたになっても、俺はうちのトイレを貸してやらんぞ」
その言葉の内容よりも、話しかけられたこと自体に思わずぞっとし、彼とクラスメイトは笑うのを止めた。老人は目を瞑り、静かに頷いた。「その方が賢明だな」と言った。
「しばらくかかるだろうから、その猫と遊びでもしとれ」
店奥の暗闇の中から、極めてその老人と似た、緑色に明るく光る動物の両目が浮かび上がってきた。ゆっくりと近づいてきて、やがて黒猫の体が幽霊のようにぬっと現れた。彼とクラスメイトは、始めは恐る恐る手を伸ばしていたが、次第に慣れていった。地面に腹ばいで寝そべる猫の滑らかな黒い背中を撫でまわした。不思議と猫は死体のように冷たかった。懸命に背中を撫でて温めてやろうとしても、ますます猫の体は冷たくなっていくばかりだった。しかし猫の方は怠そうに横になりながら、呑気に、驚くほどゆっくりと瞬きをしていた。まさかとは思うが、このままどんどんと体が冷たくなっていって、自分たちの手の中で命を失われても困ると、彼とクラスメイトの二人は必死に黒猫の背中を撫で続けていた。ある種の義務感すら芽生えてきて、いつしか二人は自分たちに課された作業であるかのように撫でる動きを繰り返すようになった。
「何してるんだ?」
頭上から声を掛けられ、しゃがんでいた二人ははっとして顔を上げた。さっきまで苦痛に耐えて表情を歪めていた友人が、今はすっきりとした、どこか勝ち誇っているようにすら見える笑顔を浮かべて二人を見下ろしていた。友人は店奥の方に向き直り、暗闇の老人に頭を下げた。
「おトイレを貸してくださり、ありがとうございました」
「別にいいよ」と老人は答えた。
「これからも時折、その猫と遊んでやってくれ」
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