キメラのいた系譜 第二部 1
体の内側に緑色の化け物を寄生させているが故に、彼は、果たして自分を夫として受け入れてくれるような女性がこの世に存在するものなのか、さらには、仮にそういう女性がいたとしても、その女性との間に生まれてくる子供というのは、何か自分のそういう特異な体質を受け継いでしまったような、異常を持った形で生まれてくるのではないかという不安を常に抱えていた。しかし、彼は二十六歳のとき見事にそれらの不安を乗り越えてみせた。
そもそも彼が自分の身体の異変に気が付いたのは、都内の中学校に通い、部活動として競泳に打ち込んでいた十四歳の頃のことだった。その日、彼は普段のルーティーンとして、授業を終えたあとの部活動へと向かう前に校舎二階の男子トイレへと入っていった。カバンを背負いながら便器の前に立って用を足していると、どこからか懐かしいような、夏の頃に田舎の草原に立ったときのような、草が日に焼ける匂いが漂ってきた。確かにこの時期は夏だった。しかしそれにしても、こんな都会のコンクリートジャングルに位置する学校校舎のトイレの中で、そんな田舎らしい、本当の田舎を知らずとも本能的に懐かしい感覚を呼び起こされるような匂いが窓の外から入り込んでくるはずはなかった。まさか、と彼自身も思ったが、その匂いは確かに、彼の性器から噴出している尿から漂っていたのだ。放物線を描いて便器に勢いよく当たって弾ける自分の尿を見て、彼は目を丸くした。それはまるでほうれん草ジュースのような、鮮やかな深緑色をしていたのだ。この衝撃的な症状を、しかし彼は、その日の部活の練習を終えた後の更衣室で、部活仲間に笑い話っぽく相談することしかできなかった。実際、仲間たちはほとんどが驚きつつも笑うだけだったが、同期の内のたった一人だけが、彼の心の不安を察して真面目に相談に乗ってくれた。心配そうに彼を見つめながら、その同期は言った。
「早めに病院に行った方がいいんじゃないか? もし腎臓の異常だったら、命に関わるかもしんないしさ」
「やっぱり、腎臓の異常ってことなのかな」
「いや、分かんないけど。とりあえず病院行けって。明日にでもさ」
そうだそうだ、と周りも笑いながら言った。仲間の何人かが、真面目に心配して、というよりもおそらくは純粋な好奇心から、スマートフォンを取り出して、緑色の尿について調べ出した。「バクテリアか――あるいは、薬の副作用か――」
夕方に家に帰り着くと、普段通りに母親が台所で夕食の準備をしていたが、しかし彼は帰宅してからもしばらく、自分の尿の異常については話し出すことが出来なかった。夕食の前にシャワーを浴びて汗とプールの塩素を体から洗い落とすと、自室に籠ってスマートフォンを使い、緑色の尿について不毛な検索を続けた。「ごはん、出来たよ!」と遠くから叫ぶ声を受けてのろのろと居間へと向かう頃には、自分が気味の悪い感染症に罹ってしまったことを確信し、今までの人生で最大の絶望に囚われ、うなだれていた。気が付かないうちに父親も帰宅していた。既に風呂にも入った様子の、部屋着に着替えた父親が食卓に着いていた。自分でも理由は定かではなかったが、父親の前ではますます相談しにくかった。結局夕食を終え、それからしばらく後に父親がトイレへ立った隙をつき、まるでそれを受けて思い出したかのようなふうを装って、ようやく彼は母親に相談した。息子の尿について聞いたとき、母親はまず「えっ!」と大声を上げて驚き、それから「いつ?」と厳しい表情をして聞いてきた。
「今日の放課後だよ」
「今日が初めて?」
「うん」
「――そう」
母親は周りにまで不安を振り撒くような、深く思いつめたような表情をして俯いた。
「――あんた、そういうことはもっと早く教えなさいよ」
今思い出したんだよ、と彼は用意しておいた言い訳をぼそぼそと呟いた。やがて父親が居間に戻ってきた。母親が不安げな顔を上げ、「緑色のおしっこが出たんだって」と言った。父親は、それを聞いても一切驚かないようだった。ゆっくりと彼の方へ振り返り、「そうか、今日だったか」と静かに言った。それはまるで、既に予想されていた事態が起こったかのような物言いだった。夫のその様子を受けて妻も、全てを察してしまったかのように深いため息を吐いた。緑色の尿を排出した当人の、彼だけが置いてきぼりだった。不安げに彼は聞いた。
「どういうわけか、知ってるの?」
すると父親は、少し驚いたように言った。
「知ってるも何も、このことはお前の声に教えてもらったんだがな」
彼は父親のその言葉の意味を理解できなかったが、つまりは、彼の父親は未だに、以前に庁舎の仕事場の机の上に置いてあった、あの、新緑色の小さな蛙の置物が息子の声で未来のことを語りかけてくるのに、真剣に耳を傾けていたということだった。あの蛙の置物は、今は家の、父親の書斎の机に置かれていた。予言はほとんどが当たった、特に身の危険に関する予言は百発百中で当たっていたが、特に重要に思えないような事柄の予言については極まれに外れたり、既に事が起こった後にそれを言い当てたりすることもあった。いずれにしろ父親は、蛙の置物が自分の息子の声で語りかけてくる内容を、主に小説を書くときのネタとして利用していただけだったので、大してその真偽を気にすることはなかった。そのときも父親は、ちょうど前夜に、今執筆している小説において、一人の少年が中学校のトイレで緑色の尿を出した場面を書き上げたところだった。父親は息子に向かって小さくうなずき、「何も心配ないさ」と言った。
「病院に行く必要も無いだろう。感染症でもない。その尿の色は、お前が特別であるが故のものだ」
彼の父親はそれ以上何も語らなかった。黙って居間のソファに座り、点きっぱなしになっていたテレビの夜の報道番組をじっと見つめだした。実は、十四歳になっても息子の彼は未だ、自分の体の事情について――具体的には、自分の体には「融合」という形で、異形であった双子の弟の体が丸ごと取り込まれているという事情について、一切を知らされていなかった。この日、彼が学校のトイレで排出した緑色の尿は明らかにその事情と関連があったはずが、しかしこのときも結局、彼は自分の体の内側に眠る秘密について一切を知らされずじまいだった。その後も緑色の尿は四か月に一回ほどの頻度で、彼の性器から便器に放出された。その度に彼は言いようのない不安に襲われ、やはり何かの事情を知っているらしい両親にはそれを相談せずにはいられなかったが、毎回、病院に行くことは禁じられた。彼が自分の体の、生まれた直後からの秘密について知ったのは、あまりに衝撃的だった、高校二年生の頃の出来事がきっかけだった。
彼が十六歳にして、「この女子が自分の運命の人かもしれない」と度々思わされた、美しい女子生徒が彼の通う高校へ編入してきたのは、二年生の春のことだった。その女子はキタハルと呼ばれていた。キタハルが編入したのは彼とは違うクラスだったが、しかし彼女のあらゆる噂はクラス内に留まらず、限界を知らずに広がっていく蜘蛛の巣のような形で、学年全体にまで及ぶものだった。キタハルの肌は稀に見る白さだった。それはある種の陶器のような、青みがかった白さを持っていた。スカートからすらりと伸びる脚は柔らかい曲線を描きつつも、どこか人間が立ち入ることは許されないような深海に生息する、聖なる生き物の尾ひれを男子たちに想像させた。実際、彼女の美しい顔立ちと長い黒髪は誰も見たことのない人魚のそれのようだった。彼女の顔の頬にすらも、一切の人間じみた赤みがかかる隙は無かった。キタハルがすらりと立っている位置の周りは、たとえそれがどこであろうとも青白く光っているように見えるほどで、そこまで肌が青白いのにもかかわらず病的に見えないのは、実は彼女が人間ではないからではないか、という噂が流れた。
「人間じゃなかったら何なんだよ」
「天使だよ、天使」
「いやいや新人類だろ、あの、光合成するやつ」
別に、光合成をする新人類の女の肌は白く美しいという話が、今までにどこかで信じられていたわけでもないはずだった、誰が何と何を結び付けてそういうことになったのか、全ては噂の持つ性質らしくうやむやになってしまったが、結局は、キタハルの持つ美しさは新人類について、一種の幻想を生み出してしまうほどのものだったということだ。同時に、「彼女の母親は三十一歳らしい」という噂もまた、新人類に対する根拠のない幻想を促した。「ほら、やっぱり新人類の女は、ヤンママが多いんだよ」。キタハルが高校二年生の十六、七歳で、このとき母親が三十一歳ということは、キタハルの母親は当時十四、五歳で彼女を生んだということになるが、まぁ現実にはあり得なくはないのだろうか?――それにしても三十一という具体的な数字は一体どこから出てきたものなのか、その具体性はあるいは、本人がそう明言したということを示すのかもしれない――しかしキタハルは、学年内でテロリストどもの身内などという一面的なレッテルを貼られたとしても、それを攻撃的に笑い飛ばすだけだった。
「仮に私が新人類だとして、あんたたちはどうするの? 旧人類の恨みを代表して、私を殺してみたりするわけ?」
周囲を青白く凍えさせるような美しさに反し、キタハルは決して高嶺の花にはならなかった。話しかけられれば誰とも気さくに話したし、はっきりとものを言った。ただ必ずしも多くの友人を持っていたわけではなく、授業合間の休み時間には机の席に着いたまま誰とも話さずに、ぼぅと窓の外のグラウンドを眺めていることも多かったが、昼食の時間には決まってクラスメイトの女子五人と談笑しながら、一緒に弁当を食べていた。男子の友人はいないようだった。彼女が天使であるにしろ新人類であるにしろ、男子達はどうしてもキタハルのことをどこか恐れていた。今までに校内で十三人の女子を抱いたと言われている猛者、顔の目鼻は異様に小さいが、しかし高身長で、体格は申し分ないやり手の男子ですら、キタハルには話しかけもしなかった。
「あれは無理だ」
本質を見抜く賢者の瞳をしながら、その男子は言った。
「あれは正真正銘の聖処女だ。きっと将来は、処女のまま妊娠するに違いない」
猛者がしみじみとそう言うのを聞いていたときも彼は、前の火曜日に自分の性器から発射された緑色の尿のせいで、自らの体に関する密かな不安に駆られていた。そんな彼が、天使か新人類か、はたまた聖処女か、いずれにしろ男子からは遠い存在であったキタハルがあるいは、自分とは近しい存在になるかもしれないという、どちらかといえば予感に近いような夢想を抱き出したのも全ては、キタハルが水泳部のマネージャーになったのがきっかけだった。
彼は中学の時と同様、高校でも水泳部に所属していた。部室棟の屋上にあるプールには屋根も暖房器具もなく、そこで秋冬に泳ぐことは命の危険が伴う非現実的な行為であるとされていた。それを疑って実際にその時期に屋外プールで泳いだものは、永遠に回復する見込みがないと思われるほどに重い鼻風邪を患うこととなった。十月に入ると、部員の中の選ばれた数名の選手だけが、近所にあった他校の屋内プールの一レーンだけを借りてそこで練習を続けていた。それ以外の大多数の部員は五月中旬の――まだその時期でも屋外で泳ぐには十分に寒かったが――プール開きを迎えるまで、テニスのラケットを気まぐれに振り回してみたり、グラウンドで気が狂ったようにボールを追いかけてみたり、遠い目をしながらただ道端を歩いて日々が過ぎるのを大人しく待っていたりした。実質、一年の内でこの学校での水泳部の活動が陽に始まるのは、五月の中旬からと言っても過言ではなかった。緑色の尿を出しつつも彼は、実は冬の他校のプールで泳がせてもらえる数名の選手に含まれていたが、しかしその彼にとっても、自分が明確に自校の水泳部であると実感できるのは、度々屋上の強い風が吹きつける、青空と、真っ白い塊のような雲が恐ろしいほど近くにまで迫り、夏は容赦なく日が照りつけて、プールサイドの床が肉を焼くときの鉄板のように熱くなる、馴染みの仲間たちと一緒になって屈辱的なまでに肌を黒く焼きながら、あのプールで泳いでいる間に限られていた。ゴールデンウイークを終えてしばらく、遂にその年も屋上のプールが開けられた。プール底に半年ほどかけて溜まった大量の腐った枯葉と泥がもたらす、凄まじい悪臭と、そこを踏めば足裏にいつまでも残るようなぬめりを完全に取り除くには、全部で二十四万リットルの水を使って、部員総出でそこをブラシで擦り続けなければならなかった。二日間をかけてようやく、色落ちしつつある水色にコースのラインの引かれた底と壁の、昨年のままのプールの姿が甦った。背中にそれを受ければまだこの季節では気を失うほどに冷たい、重々しい水道水がプールにどばどばと注がれた。三日後にはそのプールで練習が開始されたのだが、初日の練習のとき、泳いでいる部員たちがふと気が付くと、プールサイドに、以前より水泳部に所属していた女子のマネージャーの他にもう一人、見慣れない、恐ろしいほどに美しい女子がさも自然なふうに立っていた。それがキタハルだったのだ。半袖半ズボンのジャージを着て、細く青白い脚を日に晒していた。無表情にストップウォッチを見つめながら、選手のタイムを読み上げていた。女子の選手の何人かがプールの中から親しげに声を掛けると、キタハルは笑顔で返した。しかしそれだけだった。さっきまで久々に自校のプールで泳いでいることに心の湧き立っていた彼の周り、主に男子の間では、気が付くと、さわさわと動揺の波紋のようなものがプールの中で広がっていた。しかし、泳ぎの合間に互いの動揺について囁き合うような余裕はなかった。自分の腕の掻く水の重みをひしひしと感じながら、息も絶え絶え練習は続いていた。ついに選手たちがその美しい少女について互いの認識を確認し合う時間が取れたのは、メインの練習を終えた後、もう日がかなり傾いて、灰色がかったオレンジ色の空の光が薄暗く反射しているプールに身を漂わせるようにして軽く泳ぐ、クールダウンをしている頃だった。しかし、何かを確認し合ったところで、あの噂の転校生であるキタハルがマネージャーとして水泳部に入部したらしい、ということ以上は何もわからなかった。キタハルの周りはやはり女子部員が壁のように囲っていて、きゃあきゃあと楽しそうにおしゃべりをしていた。やがて男子もプールから上がり、その日の練習は終わった。顧問とプールに礼をし、ぞろぞろと選手たちが更衣室へ戻って行くとき、たまたま彼はその並びの最後尾にいた。
「お疲れ様」
突然そう声を掛けられ、彼は激しく驚いてしまった。声を掛けてきたのはキタハルだった。男子更衣室と女子更衣室とに別れるところで、別れ際にそう言われたのだ。自分がたまたま男子の中で最後までそこに居たから、在り来りな挨拶をされたに過ぎないはずだと冷静に考えながら、しかし彼は、胸の内でおぞましいほどに感情が渦巻くのを抑えられなかった。それは恐怖の感情だった。彼は決して女性恐怖症などではないはずだった。キタハルが男子から妙に恐れられていたのは確かだが、それでも一言声を掛けられた程度で縮み上がるほどのものでもないはずだった。自分でも不思議なことに、また情けないと思いながら、しかしその腹の底までごうごうと響いて渦巻くような、得体の知れない恐怖は紛れもない本物と認めざるを得なかった。夕暮れの中、先輩二人と同期一人と共に自転車で駅まで向かう帰り道でも彼は、誰の話も聞かずに、ただ機械的にペダルをこぎながら一人で真剣に考え込んでしまうほどだった。駅に着いて電車に乗っているときも、家に帰ってシャワーを浴び、その後の夕食を食べているときにもそれは続いていた。家族三人の食卓の席で父親は相変わらず寂しげな表情をして、時折じっと息子の顔を眺めていた。父親がそっと呟いた。
「女に気をつけろよ」
彼は茶碗と箸を持ったままぎくりとした。以前より、誰も知らないはずのことを妙に言い当てるような気味の悪いところのある父親ではあったが、このときは、まさに自分の心の奥底を無遠慮に覗き見られたような気がして、彼はほとんど怒ったように言い返してしまった。
「なんだよ、また蛙の置物が何か予言したのかよ!」
父親が口を開く前に、母親が「いい加減にして」と鋭く言った。
「蛙の置物が幻の中で何と言おうが、それが私たちの現実の生活をかき乱すようなことは決してあってはならないのよ」
父親は静かに、しかしはっきりと音を立てて、ゆっくりと鼻から息を吐いた。そして、「わかってないな」と呟いた。「全ては予め決まっているんだ。それだけだよ」
ベッドに入って寝る時間になっても、彼はまだ悶々としていた。このまま眠れない一夜を過ごすのかと思うと絶望的な気分になったが、こういうときは、恥ずかしい罪の意識を感じながら、ひたすら自慰行為に耽るのがよいということを、水泳部の同期が科学的根拠を示しながらやけに真面目な表情で話していたのを思い出した。彼はベッドに入って、半分自棄になりながらそれを実行した。自らの内なる恐怖と対峙するつもりで、この日の部活中に見た、キタハルの顕わな、青白く柔らかい曲線を描く細い脚を思い浮かべたが、頭の中で全てが完結した後、馬鹿馬鹿しくもありがたいことに、実際、彼の体は抗いようのない眠気の大波に包まれようとしていた。そのまま彼は眠りについた。翌朝に目覚める頃にはあっさりと昨夜までの恐怖を乗り越えていた。彼の中で恐怖の代わりに新たに芽生えていたものは、危険な香りのする好奇心だった。朝食を食べている最中や学校へ向かう最中、授業中や休み時間のときでも彼は、ぼんやりと自分の前方辺りに視線を漂わせながら、キタハルのことを考えるようになってしまった。キタハルに会いたい、顔を合わせてちゃんとした会話をしてみたいという欲求が無いわけではなかった。彼女は隣のクラスにいるのだから会いたいと思えばすぐに会えるはずだったが、しかし実際に会ってしまえば再び先日の恐怖が腹の底から湧き上がってきてしまうような予感があって、彼は足を動かさなかった。彼女と顔を合わせるのには覚悟が必要ということなのかもしれなかった。彼は午前の時間をいっぱいに使って、部活の終わったとき、昨日と同じタイミングで、再びキタハルと顔を合わせ「お疲れ様」と声を掛けられることを覚悟した。しかし、一度その覚悟が決まってしまえば、それはもう待ちきれない期待と変わりがなかった。早く放課後になって部活の時間が始まらないかと彼は、授業中でも大人しく席に座っているふりをしながら、胸の内の妙なそわそわとした感覚を抑えられずに、それが肩から腕にかけての不自然な緊張として表出していた。遂に放課後になったとき、彼は誰よりも真っ先に部室棟にすっ飛んでいった。制服を脱ぎ捨て水着に着替え、プールサイドに出て汗みずくになりながら体のストレッチと筋力トレーニングを一人で開始した。キタハルが半袖半ズボンの、あの青白い肌の顕わなジャージ姿で現れるのを今か今かと待ち続けた。このときの彼は冷静さを失っていて、先に一人で練習を始めてしまえば、その分待ち望んだ時間が早く訪れるかもしれない、などと半ば本気で考えていた。女子の部員たちと共にキタハルがプールサイドに現れたとき彼は、心臓が喉元辺りにまで跳ね上がって、息が詰まったようになってしまった。まともに顔を見ることも出来ずに、彼女の細い腕と脚の、青みがかった肌の眩しさが残像として視界に残っただけだった。やがて他の部員も集まり、いつも通りの時間に練習が開始されたが、しかし、早めにプールサイドに来て準備をしていたことは、結果として彼には良い効果をもたらした。普段より入念にストレッチと筋トレを行ったために、この日の泳ぎは調子が良かった。そのうえ、泳ぐときに使う筋肉への負荷としても最適な練習内容となった。ただそれらも、彼にとっては副次的な結果に過ぎなかった。泳いでいる最中には、気の迷いから生じる精神性のものではなく、身を追い詰めて泳ぐことから生じる肉体的な呼吸の苦しさと、筋肉の痛みのおかげで気が紛れ、キタハルからも自然と意識を逸らすことができた。つかの間の安寧を感じていたが、しかし遂に待ち望んでいた時間が訪れたとき、彼の全身の緊張は最高潮となっていた。練習後の挨拶を終えて更衣室へ戻るとき、彼は昨日と同じように並びの最後尾についた。しかし、なかなか期待していた声は掛からなかった。事前に覚悟をしていなかったからには自分から声を掛けることなども当然出来るわけもなく、何も起こらないままに更衣室へ踏み込む直前には、彼の脚は情けないほどに震えていた。
「お疲れ様」
もはや諦めかけていたが、更衣室へ入るギリギリのところで、遂に待ち望んでいた通りの声をかけられた。彼はあまりの喜びにめまいを感じたほどだった。慌てて声のした方へ振り返った。あまりに急な動きだったために、キタハルも驚いて彼の方を見つめていた。二人の目線があった。硬い表情のままに彼は、用意していた言葉を口走った。
「お疲れ様。マネージャー、やるんだね」
うん、と彼女は答えた。
「私、前の高校でも水泳部のマネージャーだったの」
「あ、そうなんだ」
「そう、だからこっちでも続けようかなって」
「へぇ……」
彼女は、「じゃあ、これからもよろしく」と笑顔を見せながら言うと、そのまま女子更衣室へ歩き出した。この日はもうこれで十分のはずだった。しかしここで、父親譲りの、あのおかしな状況で発揮される愚かな蛮勇が、彼の生涯において初めて発動してしまった。彼は、自分のその言葉が空虚になった己の頭の中に妙に響き渡るのを感じながら、歩き去っていくキタハルに向かって声を張り上げた。
「君に興味があるんだ! もう少し話をしたいんだけど――」
キタハルは驚いた様子で振り返った。大きな両目を見開いて、しかし青白い両頬にはこれっぽっちも赤みが掛かっていなかった。二人は再び見つめ合った。彼は自分の背中にじっとりと塩っぽい汗が流れるのを感じた。そのままの顔色で、やがて可笑しそうに笑いながら彼女は言った。
「私なんかに興味を持っている場合じゃないと思うけど。世の中はそれどころじゃないよ?」
じゃあね、と言って、笑顔のまま彼女は去っていった。
そのときの彼には、彼女が何のことを言っていたのか全く分からなかったが、しかし家に帰ってスマートフォン上のネットニュースを見たときに、全てがわかった。都内の私立の小学校で爆破事件があったらしかった。
その小学校には事前に、「今度の水曜日、生徒達が全員下校した後の午後六時に、校舎を爆破する」と手紙の予告が来ていた。送り主は「根」と記されていた。「根」と聞いて、それが十年ほど前に都内での小戦争を引き起こした、テログループの組織名だと思い出したのは教員の中でも二、三人だけだった。虚しいことに、戦争当時にもそれほどに、その「根」という組織名は世の中に浸透していなかった。手紙が届いたのは月曜日だったが、その日から学校は休校となり、校庭も校舎も完全に閉鎖された。立ち入るのが許されたのは大量の警察官と、それらを案内するための数名の教師だけだった。警察官らによって、月曜日の夜から火曜日は一日中、全ての教室の黒板の裏から、蛇口やトイレの上下水道の配管の中に至るまで、校庭においてはグラウンドの土のあちこちを宝探しのような様で裏返し、学校で飼育しているうさぎ用の小屋の屋根裏に至るまで調べられたが、ついに爆弾は一つも見つけることが出来なかった。結局三十人の警官らが、きっちり等しい間隔を空けながら学校の敷地の周りをぐるりと囲って目を光らせつつ、生徒も登校してこない静かな水曜日を迎えた。日が暮れ始めた午後六時ぴったりに、校舎一階のとある教室の、床の木目の隙間から一筋の煙がゆらゆらと立ち上り始めた。その煙はゆっくりと天井まで昇っていったが、窓から漏れる隙間風に乗せられて、教室からくねくねと蛇のように流れ出ていった。長大な蛇のような一筋の煙は廊下に漂い、やがてそこでとぐろを巻き始めた。白い煙がまるで雲のように天井を埋め尽くし、そこで一杯一杯になった煙は、生き物じみた足取りで階段を上り始めた。同じように二階も煙によって占領され、三階も同様にそうなった。校舎内を見回りしていた警官らは、辺りが火薬の匂いのする白い靄に包まれていることにようやく気付き、靴もまともに履かないほどに慌てて、昇降口から散り散りにグラウンドへ駆け出していった。夕暮れの中、巨大な影を落とす校舎を警官らは為す術も無く見つめていた。校舎の全ての窓枠の隙間から、それぞれ二、三筋の細い煙がやはり長い白蛇の幽霊のように漏れ出ていた。校舎の北棟、南棟、体育館に至るまで煙がいっぱいに充満したと思われたとき、ついに建物内の空気が爆発した。低く凄まじい音が響いて、校舎と体育館の建物が内側からの風圧に耐え切れず、一瞬だけ風船のように膨張した。顔中の汗を瞬く間に蒸発させるような熱を持った爆風が警官らの制帽を吹っ飛ばし、次いで全てが砂のように細かく砕けてしまった校舎の窓ガラスが、呆然と立ち尽くす警官らの顔にぱらぱらとかかった。ごうごうと赤い炎に包まれながら校舎はみるみる真っ黒に焦げていき、オレンジ色の夕日が照り付ける中、やがて自身がグラウンドに映す巨大な影と同化していった。二分ほどで消防車がけたたましいサイレンを鳴らしながら駆け付けてきた。プールに溜まっていた四十六万リットルの水も全部使い切って火を消そうとしたが、全ては無駄のように思えた。炎が完全に消えた頃には日もすっかり落ちていた。グラウンドから巨大な照明器で照らされた校舎と体育館は、もはや夜の闇に浮かぶ黒い影そのものだった。辺りには鉄骨と木の焼けた焦げくさい臭いが残っていて、その臭いが完全に消えるのには丸々一週間かかった。結局警官の怪我人は一人もいなかったが、抑えきれない冒険心にたきつけられ、敷地のすぐ外まで様子を見に来ていた小学生男子三人の内の一人が、爆風の勢いですっ転び、右腕に五針縫う切り傷を負った。爆破を行った組織「根」の声明によれば、小学校の義務教育課程における社会科の時間では、十年前の都内での戦争のことを、自らは光合成が出来ると主張する新人類たちの邪悪なるテロ組織が不法に蜂起した結果起きた、陰湿な悲劇的事件として扱っているが、それは間違いであり、正しい歴史としては、自分たちはあくまで新人類としての正当な権利を勝ち取るために勇ましく立ち上がったのであって、そもそも不法な迫害を仕掛けてきたのは旧人類側が先であり、そういった事実を捻じ曲げた形で後世に伝えようとする学校は――そこで嘘を教え込まれる子供たちには直接罪はないにしても――まさしく制裁に値する、今回爆破した小学校は我々が選んだその代表、始めの見せしめである、ということだった。
爆発が実際に起き、今まで無用の長物と思われていた取り決めがついに発動した。今や何も起こらない仕事場や、自身の家庭の中にも影のような形ですっかり溶け込んでいたあの男が、テロ特別対策室の司令塔として再び返り咲いたのだ。先の戦争の謎めいた司令塔ぶりが伝説化され、当時の正式な役職名は「室長」であったはずが、いつの間にか周りからは「司令」と呼ばれるようになっていた、司令は十年ぶりに集められた特別対策室の面々を見て、誰一人の名前も思い出せなかったが、全員の顔に見覚えはあるような気がした。しかし実際はそんなはずはなかった。そのときの司令は、顔に見覚えのあると思った人間の内の何人かを、先の戦争の終わり間際に起きた、あの庁舎の爆破事件で既に死んでいるはずの職員と勘違いをしていた。爆破事件後に立て直された、庁舎の大部屋に集まった面々を見回し、悲しげな顔をしながら司令は言った。
「さぁ――もう一度、過去の亡霊と戦うとしよう」
司令の右手には例の、新緑色の小さな蛙の置物がしっかりと握られていた。
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