キメラのいた系譜 第二部 2

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 小学校が爆破されて、世の中が多少どころではなく騒がしくなっていたとしても、ついにキタハルと言葉を交わせるようになった彼にとっては全くどうでもよいことだった。せいぜい話の種になる程度のものだった。初めて言葉を交わして以降彼は、相変わらずどのタイミングでどのように声を掛けるかについては前日から心の用意をしている必要があったが、しかし回数を重ねるごとに、前日の彼が予め覚悟しておく、彼女との会話時間は次第に長くなっていった。ただし、前日にこれだけの会話時間と決めたら、当日にはたとえ何があっても、彼はどうにかして必ずその時間内に彼女との話を終わらせた。前日の夜の寝る前に、「最近は少し体の調子が悪いから、明日は短めに五分間にしよう」と心に決めたら、当日の彼女との会話は必ずきっかり五分間で終わらせていた。決して大袈裟な話ではなく、これは彼の命に関わることだった。予め覚悟していた時間を超えて彼女と話すことは、彼の心臓にとっては耐えられることではなかったのだ。それでも会話時間は日々伸びていった。まるで日々鍛錬をして、彼女との会話に対する耐久力を鍛えているかのような感覚だったが、しかし実際そう考えれば、その鍛錬の効果は着実に現れているということに他ならなかった。このことは今後の彼の人生において、「地道な積み重ねは必ず実を結ぶ」という在り来りな信条を抱えさせる要因の一つにもなった。あまりにも地道で機械的な積み重ねだったが、しかしある木曜日を境に、ついに部活終わりに更衣室の前で待ち合わせをして、帰りに駅まで一緒に歩いて行くようにまでなった。彼は普段自転車で駅まで向かい、彼女はバスを使っていたから、一緒に帰るとき、彼は二十分ほど自分の自転車を引いて歩く羽目になった。二人の気分によっては一緒にバスに乗ったり、自転車の二人乗りをしたりということもあったが、やはり駅まではゆっくりと時間をかけて、二人で歩くことがほとんどだった。一緒に駅まで歩いた初日、彼は自らの満ち足りた状況に頭がくらくらするのを抑えきれなかったが、それでも何とか、やはり前日から用意していた、とある漫画本についての話をキタハルと続けていた。一人の著名な漫画家が最近連載を描いていない、しかしああいうものは結局、おそらく作者にとっても、何かが頭に浮かび上がるのをひたすら待ち続けるしかないのだろうから、自分たち読者もただそれを待ち続けるしかない、というような話をしているときに、キタハルが出し抜けにこう言った。
「私ね、いよいよ滅ぶっていう終末の頃に、この国に最後まで残っているものって、アニメと漫画と、米作りの技術だと思うの」
 それを聞いたとき、彼は心から「なるほど」と思ってしまった。彼女のその言葉に一切の反論の余地はないように思われた。だからこそ、その後に何を言うべきなのか、彼にはすぐには分からなかった。しばらく考えて、ようやく彼は言った。
「例えばだけど、小説は残らないかな?」
 残らないでしょ、とキタハルは笑いながら言った。
「日本の小説は、別に日本にいなくても書けるでしょ――でも、日本のアニメと日本の漫画と日本の米は、日本にいないと作れないもん」
 キタハルと部活終わりに駅まで歩く時間は、彼にとっては激しい緊張をもたらすと同時に、やはり信じ難いほどの喜びの時間でもあった。いつからか彼は、キタハルのためなら自分の命を捨てても構わないと考えるようになっていた。彼は、自分が今この瞬間世界で最も幸福な男子であるというはっきりとした自信をその胸に抱きながら、全身に染みついたプールの塩素の臭いを、自身ではそれと気付かないまま体中から発散させ、ほとんど毎日、夕暮れの中を彼女と並んで歩いていた。彼女が帰りに乗る電車は、彼の乗る電車とは逆方向のものだった。いつも駅の改札で彼女と別れたが、その後は緊張状態から解放されて、ただ漠然とした幸福感だけが胸の内に広がっていた。暗くなって家に着いてからもその感覚は続いていた。ある金曜日の夜、いつも通りシャワーを浴び、夕食の時間になって食卓に向かうと、父親が普段より一層暗い表情をして、まるで亡霊のように席に座っていた。
 小学校の爆破事件を受けて司令として特別対策室に戻った後も父親は、先の戦争の時とは違い、毎日同じ時間に家に帰っていた。新緑色の小さな蛙の置物は毎日家に持ち帰っていた。寝る直前には相変わらず、その置物と向き合いながら、午前二時まで小説を書き続けていた。夕食は必ず家族と共にしていたが、やはりそれは、どこか贖罪を求めてそうしているように見えた。その日の夕食の席に着いていた父親は普段より一層、表情に暗い影を浮かべていた。その表情に不吉な予感を拭えず、彼は妙に緊張しながら父親の斜め向かいに座った。母親が彼の向かいに座り、いつも通りの沈黙の夕食が始まった。時折沈黙を破って母親が、「今日の部活はどうだったの?」とか、「中間テストはいつから始まるの?」と聞いてきた、彼はそれに答え続けたが、父親はやはり暗い顔をしながら何も話さずに、黙って白米を咀嚼し続けているようだった。「もうすぐ始まる気がするけど、詳しくは覚えてないよ」と彼が答えた、そのときだった。かちり、と茶碗の上に箸をそろえて置く音がした。視線を落として自分の置いた箸をじっと見つめながら父親が、ぼそっと呟いた。
「女に気をつけろよ」
 父親のその言葉に彼はもう怒りもしなかった、それどころか憐れみを抱くほどだった。以前より予言者めいた様子でぼそぼそと何かを呟き、しかもその呟きの内容が度々現実に起こっていたことに関しては多少不気味に思うところもあったが、それでも彼は、そんな父親を決して嫌ってはいなかった。それどころか、決して男らしいわけではなかったが、その寡黙な様子にはどこか憧れも抱いているほどだった。しかし、今回の予言に関しては的外れもいいところだった。彼は、キタハルとの交流については何も問題を感じてはいなかった。全てが彼の思う通りに進んでいて、まさに一切の汚れのない、清い関係を順調に深めている最中だった。「その予言は外れだよ、父さん」と彼は諭すように言った。
「父さんが心配するようなことは何もないよ。俺の方は全部予定通りに進んでいるから。それよりも父さんは、テロ事件の方を心配したら?」
「小学校の爆破以来、テロ事件は起こっていない」
父親は珍しく、少し苛立った様子を見せながら答えた。
「それよりもお前の方だ。お前は何もわかっていないな――予定通りに進んでいる方が、お前にとってはかえって危険なんだよ」
 彼が言い返そうとしたところで以前と同じ様に母親が鋭く、「もうやめなさい」と言った。父子の会話は終了した。
 翌日には、父親の不吉な警告など一切頭に残っていなかった。この日は土曜日で学校の授業はなく、朝の九時から午前中いっぱいが部活動の時間だった。学校へ向かう朝の電車に乗っているうちから、彼は部活終わりの時間が待ちきれなかった。日々の鍛錬の積み重ねのおかげか、このときにはもう、彼がキタハルとの会話に耐久できる時間は最長で三時間を超えていた。そのことと直接の関係は無いはずが、なぜか彼は泳ぎの調子もここ最近好調だった。泳いでいる最中彼はよく、自分の体の中で、何か自分とは違う強靭な生き物が力を発揮しているような幻を感じた。耳の奥で自分のものとは違うリズムを刻んで、鼓動が二重になって聞こえることがままあった。しかし彼は気にしなかった。日々良くなっていくタイムに、彼はどこかそれを宿命的なことと思いながら喜びを感じていた。強靭な生き物の幻や二重の鼓動も、全ては自分の運勢と肉体が覚醒していく段階で現れる、何か特別な兆しに違いないと勝手に信じ切っていた。この日の朝からの練習でも、彼は百メートルの自由形で、普段であれば調子が良くてもせいぜい一分を切るか切らないかのタイムであるはずが、このときはベストタイムの五十七秒で泳いでしまった。水泳部の顧問の教師は強面でがっしりとした、肌も真っ黒に焼けた大男で、滅多なことで部員を褒めることはなかったが、このときはさすがに目を丸くして驚いた。上出来だな、と低い声で唸るように言った。
「その調子で伸びれば、今年中にもいいところまで行けるぞ」
 自分の体に潜む未知なる力を確かに感じながら、プールに浸かっていた彼はその言葉に頷いた。競泳だけではない、全てにおいてその通りだと彼は思った。練習を終えてプールから上がる頃には、この力さえあれば自分の運命すらも好きに操れるのではないかということを思い付き、恐ろしさのあまり小さく震えた。礼を終えると、彼は真っ先にキタハルに「お疲れ」と話しかけた。彼に気付くとキタハルは、輝くような笑顔で答えた。もはやトランプカードの表を見ながら手札を揃えるような感覚で自分の運命を操っているように思えた、更衣室に行くまでの途中で、キタハルから「この後に皆でショッピングモールに行こうと思ってるんだけど、どう?」と聞かれたときも、その展開を予想していたわけでは決してなかったはずが、彼からしてみればまるで必然的な誘いだった。部活の同期全員が参加する遊びであったとしても、そのショッピングモール探索が、自分と彼女との関係を進展させる何らかのきっかけになることは間違いないと彼は直感していた。彼の精神は今や、救いようのない全能感によって侵されてしまっていた。昨夜に父親から受けたあのもっともな警告をここで思い出せるはずもなく彼は、「もちろん、行くよ」とすぐに返事をしまった。
 部活の同期は彼を含め男子五人、女子四人だったが、ショッピングモールへ向かう途中の、他の乗客もいるごたごたとしたバスの中で、彼はキタハルとしか話をしなかった。周囲からしてみれば既に、彼が無自覚のうちに、キタハルに関する何らかの致命的な病を患ってしまっていることは明らかだったが、しかしそれをあえて本人に指摘する者はいなかった。熱に浮かされたようにしてキタハルと話す彼のことを面白がるか、あるいはただ憐れむような表情で見つめていた。ショッピングモールの最寄りの停車場に着いてバスを降りたとき、彼はようやくキタハルと離れた。キタハルはその顔にからかうような笑みを浮かべながら軽やかな足取りで彼から離れていき、女子部員の三人のところへ合流した。彼としては、たとえしばしの間でもキタハルから離れる時間が惜しかったが、決してそんな思いは表情に出さなかった。しかし、彼の親しい仲間には何かが伝わった。土曜日のショッピングモールの中、行き交う家族連れやカップルに紛れ、部活の仲間たちと共に小間物屋を回っているとき、彼の仲間が心配そうに声を掛けた。
「お前、キタハルとくっつき過ぎじゃないか? あれは普通の女じゃないって、どんなに馬鹿な男だってわかるはずだろ?」
「なんだよ、お前まで!」
 彼は声を荒げて言い返した。
「お前も俺の父さんみたいな、くだらない予言者を目指すのか?」
 そのときだった、どこかでパラパラパラ、と花火が軽く弾けるような音がモール中に鳴り響いた。その場の誰もが、子供向けのショーか何かが始まったのかと思った。しかし音が鳴ってすぐに、父親と母親に連れられて近くを歩いていた、小学二年生くらいの丸い顔をした少年が両親に向かって叫んだ。
「ショーじゃないよ、本物の自動小銃の音だよ!」
 両親が子供を宥めようとしたとき、まだ遠くからではあったが、誰しもの身に迫るような、背筋の凍るような女の叫び声が聞こえてきた。そこにいた者たちは言いようのない不安と驚きの入り混じった顔を見合わせた。さっきの子連れの家族は、父親が妻と子供の手を引っ張って、モールの出口へと足早に向かっていった。それに続いて、恐怖というよりはどちらかというと、自分には身に余る祭り騒ぎから逃げるときの、どこか恥じ入ったような表情を浮かべながら、若い大学生ほどの男女のカップルが出口を目指して歩き出した。再びパラパラパラ、と音がした。前よりも少し音が近づいているようだった。水泳部の一人が不安げに「逃げよう」と言った。反対する者はいなかった。ショッピングモールの通路は、店から一斉に客が出てきたせいで今までにないほどに混み入っていた。その全員が一つの出口に向かって足早に歩き、豪雨の後の川のような大きな流れを作っていた。彼も含め、水泳部の面々はその流れに乗って出口へ向かっていた。途中でまた女性の悲痛な叫び声がし、ついに甲高いサイレンの音がモール中に鳴り響きだした。「緊急事態です、緊急事態です、緊急事態です――」さらに不安を煽る無機質な自動音声のアナウンスが、天井の所々にある、さっきまで間抜けなBGMを垂れ流していただけのスピーカーから大音量で流れだした。誰か一人が走り出し、そうするともう止まらなかった。客たちに店員たちも入り混じり、通路を行く人々の流れは全てを破壊するような激流に変わっていた。三度目の自動小銃の音に加え、重なり合うような何人かの男の野太い怒号が彼の走るずっと後ろの方から聞こえてきた。「やばいよ、テロだよこれ!」
彼の隣を走る水泳部の同期が叫んだ。
「新人類だよ! こないだの小学校爆破の続きだよ!」
 今やモールの通路は祭りのような騒ぎになっていた。出口を目指し、人々は轟々と地響きを立てながら流れていった。店先から、店と店との間の狭い隙間から、枝分かれしていた別の通路から次々と客と店員がその通路に合流してきて、出口へと走る流れはどんどんと凶暴に加速していった。やがて先の方に外の光が見えてきた。まるで全開にした蛇口のように、そこから人々が凄まじい勢いで放出されているようだった。狭い出口から一気に溢れ出た人々は扇状に広がって、後ろがつかえないように走り続けるよう指示され、外の道路を埋め尽くしそこでさらなる混乱を生んでいた。彼が我に返ったときにはモールから既に百メートルほど離れた車道の真ん中で、騒ぎ立てる他の客たちと紛れながら、部活の同期たちと共に肩で息をしていた。
「まったく、なんてこった」
 彼は息を弾ませながら言った。
「練習終わりの体のきつい時に、まさかこんなに走らされるとはね」
「みんな無事だよな?」と彼の同期の一人が言った。すると女子部員の一人が胡瓜のように青ざめた顔をして、「キタハルがいない」と言った。それを聞いたとき彼は、一瞬頭が真っ白になり、次に心臓を絞られるような胸の苦しみを感じた。喉を絞り出すようにして呟いた。
「どこかではぐれたのか」
「一緒に逃げていたはずけど――」
 女子部員がポケットからスマートフォンを取り出すと、ぎょっとするような指の動きでボタンをプッシュし、耳に当てた。すぐに「あっ、今どこ!?」と声を上げた。どうやらキタハルが電話に出たようだったが、周りの騒音がうるさいのか、もしくはキタハルがあまりに小声で喋っているのか、スマートフォンを当てていない方の耳を塞いで、ほとんど怒鳴るようにして喋っていた。
「――嘘でしょ、外に出られないって――」
 それが耳に入るか入らないかのうちに彼は走り出していた。死に物狂いで人をかき分けて、もと来た道を走って戻っていた。同じぐらいの年齢の男子高校生を突き飛ばし、赤ん坊を抱えていた母親をなりふり構わず押しのけてしまった。「信じられない!」と叫ぶ声が後ろから聞こえたが、彼にはその言葉の意味を理解する余裕すらなかった。走りながら自分の脇腹に誰かの肘をまともにぶつけ、驚くほどの鋭い痛みと共に一瞬呼吸が出来なくなった。それでも彼は走り続けた。泣いている小さい男の子を跳ね飛ばし、どこか諦めたような表情を浮かべている老婆を勢いでひっくり返した。真昼の強すぎる日差しが頭上から照りつけていた。「くそっ!」顔中を汗だらけにしながら、怒りに表情を歪ませて彼は走った。
「こんな天気じゃ、光合成をする奴らはますますつけ上がるばかりじゃないか!」
 数々の怒号を背中に浴びながらやっとモールの出入り口付近にまで辿り着いたが、そこにはもう人が一人も居なかった、ガラスの自動扉の脇を固める、自動小銃を構えた二人のテロリスト以外は。彼らは二人ともおよそ戦闘には向きそうにない、黒色の半袖半ズボンという非常にラフな格好をしていた。ヘルメットや目出し帽を被っているわけでもない、顔面も剥き出しで、まるで国に仕える正式な兵士のような面持ちで銃を構え、モールの出入り口を見張っていた。駆け寄ってきた彼をじっと睨み、ぴたりと銃口を向けていた。自動扉の右側で銃を構えていた一人が、「来るな! 殺されたいか!」と叫んだ。
「中にまだ人が居るはずだ!」と彼は叫び返した。
「お前らの目的は知らないが、中に人が居て欲しくないというのなら、まだその中に居るはずの、俺の大事な彼女を引き渡してくれ」
 それを聞き、テロリスト二人は頬を歪めて笑った。
「お前の彼女が逃げ遅れたのなら、もう既に中で捕まっているはずだ。今ごろ携帯も取り上げられて、人質になっているはずだよ」
「なら俺も人質にしてくれ!」
 彼は泣きそうになりながら叫んだ。
「彼女の身に何かあったら、俺はもうこの先、どうしたって生きていけないんだ!」
 恥ずかしげもなくそう叫ぶと彼は、銃を向けられているにもかかわらず自動扉に向かってゆっくりと歩き出した。二人のテロリストは驚いて、歩み寄る彼の足元に十発の弾を撃ち込んだ。弾は激しい音を立てながら地面のアスファルトをぼろぼろにしたが、しかし彼は立ち止まらなかった。彼はもはや本当に涙を流していた。
「本当に撃つぞ!」
 テロリストの一人がもう一度叫んだ。実は、彼らも実際に人を撃つのは初めてのことだった。歩み寄ってくる彼の胸にしっかりと狙いを定め、二人同時に引き金を引いた。例のごとくパラパラパラと音を立て、銃口から火が吹いた。全弾が見事に彼の胸に食い込んだが、彼はなかなか倒れなかった。悲痛な表情を浮かべながら不死身のごとく歩み寄り続ける彼を、テロリスト二人は顔を引き攣らせながら撃ち続けた。それはきっかり三十秒間続いた。彼の胸はやがて蜂の巣のようになり、五十七発の銃弾を食らった後、ついに悲しげな表情はそのままで、彼はゆっくりと地面にくず折れた。赤い血は、不思議とトマトジュースの入ったコップを一杯ひっくり返した程度しか流れ出なかった。
 テロリスト二人は銃を下ろし、しばらく呆然とその場に突っ立っていた。「殺しちまったな」とテロリストの一人が呟いた。もう一人が震える手で、ポケットからトランシーバーを取り出すと、この場を指揮していたリーダー役に現状を報告した。一人の男子高校生を殺してしまった、と報告するとリーダー役は、「それでいい」とノイズの混じる声で静かに言った。
「首を切って、体だけをこっちに持ってこい。首はそこに置いて、外にいる奴らへの見せしめに、体の方は中に居る人質への見せしめに使う」
 リーダー役の、残酷極まりないという以上にあまりに奇想天外なその指示を聞いて、テロリスト二人は再び呆然としてしまった。ついさっきに生まれて初めて人を銃で撃ち殺したばかりだというのに――ましてやその死体から首を切り離すなど、自分達には到底できるはずはない、彼らは最初にそう思った。しかし、もはや現状に抗う力は彼らには残されていなかった、恐怖よりも諦めが勝ってしまって、腰に収めていた小さなナイフを取り出した。二人はそろって一度大きなため息を吐くと、それから、虚ろな目をうっすらと開けたままの男子高校生の首に、ぐっとその刃を押し当てた。柔らかい肉の中に刃が沈み込んでいき、太い血管の切れる、ぷつん、という感覚をナイフの柄越しに感じた。それでも赤い血は流れなかった。代わりにどろりとした、緑がかった透明の粘液のようなものが傷口から溢れ出てきた。まるで死体はすでに腐り始めているかのようだった。実際、モール内に居たテロリストの仲間の一人が、首切断のために大きなのこぎりをモール内のホームセンターから盗み出し、助っ人としてやってきたが、のこぎりは不要だった。死体はすでに骨まで柔らかくなってしまっていた。二人が腰に下げていた小さいナイフだけで、頑丈だったはずの首の骨もあっさりと砕けてしまったのだ。ついに切断を終えると、悲しげな表情の首は自動扉の前に据えられた。のこぎりを持ってきた男はスイカの腐ったような死臭に顔を歪めながら、首を無くした死体を担ぎ、仲間たちの見張る、モール内の人質の所へと向かった。首の切り口からは相変わらず、緑がかった透明な粘液が垂れ続けていた。どう見ても血とは異なるそれに一度でも触れてしまったら、まるで呪いのようにその臭いが一生自分の肌に染みついてしまうような気がして、男は死体を運びながら、その粘液で自分の体を汚さないように細心の注意を払わなければならなかった。生きる人間を運ぶとき以上に慎重になっていたかもしれないが、男はどうにか、テロリストの仲間たちが人質を囲っている、モール内の開けた広場のようなスペースまで死体を運んできた。死体を運んできた男は、「まったく気味が悪いぜ」と吐き捨てるように言った。
「生まれて初めて本物を見るが――首なしの死体ってのは、臭いにしろ血の色にしろ、こんな奇妙なものだったんだな」
「旧人類だからだろ」とリーダー役は返した。
「肉やら野菜やら米やらを食うから、死体もこんなに臭うんだ。俺たちみたいな、太陽の光と水だけで生きていけるような、清い肉体とは違うってことさ」
 目の前に仰向けの形で放り出された首なしの死体は、捕まっていた人質たちにとっては見せしめというよりも、十分過ぎるほどの非現実感を植え付けるものだった。それから目を背ける隙すら与えられなかった。人質たちの中には、先に女子部員と通話している最中にテロリストによってスマートフォンを奪われてしまった、キタハルもしっかりと含まれていた。首なしの死体はキタハルのちょうど目の前に放り出された。すでに腐り始め、青い果実の腐ったような悪臭を放っている、その死体の服装と体格を一目見て彼女は、それがあの彼の体だとすぐにわかった。彼のための涙は流れなかったが、しかし深い憐れみの思いがキタハルの胸に沸き起こった。その思いは口内にまで溢れかえって、まるで紅茶の香りのように鼻から抜けていく感じがした。
「可哀想に――」とキタハルは一人声に出していた。
「これも宿命だったのね」
「余計な口を叩くな」とテロリストの一人が鋭く注意した。
「人質としての立場をわきまえろ」
「人質、人質って言うけど――」と彼女は険しい顔をして噛み付いた。
「私たちは一体、何のための人質なわけ?」
「お前らが知る必要はない」とテロリストは落ち着いた様子で返した。
「ただ一つ明白なことは、お前らもあまり調子に乗ると、あの首なし死体みたいな姿になって、このモールから無言のまま運び出されることになるということだ――」
 テロリストが目の前の死体を指差しながらそう言った、そのときだった。誰も触れていないはずの首なしの死体が、もぞ、と動いた。キタハルを含め、数人がその動きに気付いた。異様な速度で腐っているように思えた死体が、ついにその形を崩し始めたのかとも思われた。しかしそうではなかった。仰向けに寝転んでいる死体の胸の辺りが、まるで内側から何かが突き破ろうとしているかのように鋭く上下していたのだ。
「こいつ、心臓が動いているぞ!」テロリストの一人が叫んだ。
「いいや、そんなはずはない、俺たち新人類だって、さすがに首を切り落とされれば死ぬんだから!」
 別のテロリストが死体に向かって自動小銃をぶっ放した。ホール内に火薬の弾ける音と重なって、人質の恐怖に短く叫ぶ声が響き渡った。計八十八発の銃弾を食らったはずが、死体は不思議とぐずぐずに崩れることはなく、まるで内側から何かによって支えられているかのように体の形を保っていた。次の瞬間、死体の胸が鋭く盛り上がったかと思うと、ついにその皮膚が突き破られた。一本の細長い、エイリアンのそれを思わせるような、肘の関節が二つある深緑色の腕が粘液にまみれながら、首なしの死体の胸を高々と突き破っていた。肉の裂ける不吉な音を立てて同じ腕がもう一本、死体の胸から飛び出してきた。それが出てきた死体の大きさからは考えられないような長さの腕が高々と掲げられるのを、テロリストも人質も為す術もなく、まるで神が現れたかのような心地でただ見上げていた。突然空を切るように振り下ろされ、二本の腕は地面に手を突いた。ぐっ、と力を込め、死体の中からその本体を引きずり出した。激臭を放ち、床に透明の粘液をぶちまけて引きずり出されたそれは、折り畳んでいた緑色の体を展開していった。折り畳んでいた脚を延ばし、それはゆっくりと立ち上がった。立ち上がりながら体全体が膨張していくようだった、細かった腕と脚が「みちみち」と不快な音をたてて太くなっていき、おぞましく巨大な化け物がそこに誕生した。激臭を放つ透明な粘液が体の節々から垂れていた、それはてらてらと濡れて光る、緑色の巨大なエイリアンだった。化け物が首を上げると、後頭部の鋭く伸びた異形の頭が顕わになった。化け物の顔には目も鼻も耳も付いていなかった。ただ口は大きく、縁には鰐のそれのような牙がびっしりと並んでいた。
「お前は何だ?」
 さきほど死体に向かって何十発もの弾丸をぶっ放したテロリストの男が恐る恐る、銃を構えたまま緑色の巨大な化け物に声をかけた。
「口は利けるのか?」
 化け物の腕が素早く動いた。男に見えたのは緑色の残像だけだった。鋭い爪を備えた手に頭を鷲掴みにされ、そのまま男の頭はぐしゃりと握りつぶされた。化け物の手から溢れた血と脳の欠片がぱっと辺りに散った。化け物が口を開き、ガラスを割るような叫び声を上げた。顔を恐怖に歪めながら、テロリストたちは化け物に向かって一斉に自動小銃を撃ち込んだ。化け物は、頭を抱えて地面に縮こまる人質たちを一跳びで飛び越え、回転翼のように長い腕を振り回した。やはり男たちに見えたのは緑色の残像だけだった。それに触れた瞬間に首は飛ばされ、または上半身だけがどこかに吹っ飛んでいた。男たちは怒りに叫びながら銃を撃ちまくっていた。石ころのようになって縮こまっている人質たちの上には生臭い血の雨と、肉片の霙が降り注いでいた。そこに居たテロリストたちはあっという間に十一人が殺され、残りの四人が顔中を仲間の血で汚し、自分の涙でそれを洗い流しながら必死に銃を撃ち続けていた。もう弾が尽きるのは分かっていた。化け物は百発以上の銃弾を食らいながらも暴れ回っていた。またテロリストの一人が化け物に蹴り飛ばされ、四肢がばらばらになりながら吹っ飛んでいった。残りの三人はついに無言のまま逃げ出した。恐怖に叫ぶ分の力も足にまわして必死に駆け出したが、無駄だった。地面を蹴ってドラゴンのように飛び上がった化け物は、着地をするときに二人を踏みつぶし、一番遠くまで逃げていた最後の一人には断末魔の叫び声を上げる隙も与えず、むんずと掴み上げると、そのまま腹を握りつぶした。自らを傷つける者を全て排除した化け物は、自らの粘液とテロリストの血にまみれながらその場に立ち尽くした。十五人分の男の死体は、さっきまで家族連れが行き交っていたモールの床を赤い血の海にしていた。辺りの空気は血を含んで、赤い粒子が舞っているようだった。どん、と重いものの落ちる音がして、全員で地面に伏せていた人質の一人がようやく顔を上げた。血の味のする空気に顔をしかめながら恐る恐る辺りを見回し、向こうに立ち尽くしている緑色の巨体を見つけ、目を見開いた。化け物の右腕が床に落ちていた。また、どん、という音をたてて、今度は左腕が落ちた。化け物は膝をついた。両腕を無くした肩の位置からは緑がかった透明の粘液がどろどろと溢れ出していた。化け物の全身が崩れ始めた。メロン味のシロップのかかったかき氷のような様で全身が溶けだしていた。ずしん、という重い音を立てて横たわり、ついに化け物は力尽きた。溶けた化け物の体は緑色のどろどろとした液体となって、床に広がり、テロリストたちの血と混じり合った。次々と顔を上げた人質たちは、その様子を遠くから呆然と眺めていた。化け物の体が完全に溶けた跡には、アボカドの実が腐りきったあとの種のように、人肌色の何かが残っていた。それは素っ裸の人間だった。キタハルが誰よりも先に立ち上がった。テロリストの血や化け物の粘液が跳ね散るのも構わずに、いち早くその人間の元へ駆け寄った。十分ほど前にモールの出入り口で無残に撃ち殺されたはずの例の彼が、化け物の体が溶けた跡の、どろどろとした緑色の池の中心にまるで胎児のように体を丸めて、すやすやと安らかな寝息をたてながら眠っていた。

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