キメラのいた系譜 第三部 8(最終話)
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あの、テロ組織最高司令官となった彼は、自らの妻キタハルが自ら命を絶った理由を知れなかったのと同じく、また彼女がいつ死んだのかも知らなかった。一回目の地下鉄毒ガス事件のもたらした結果にショックを受けた彼は、部下からの連絡を一切無視してしばらく家族のいる自宅に引きこもっていたが、ある夜に妻と同じベッドに入って眠り、翌朝目覚めてみると、彼の妻は、既に傍らで静かな永遠の眠りについていた。彼女自身が以前より服用していた睡眠薬で、その前夜にはなぜか適量を遥かに超えた量を飲んだことにより、毒物として作用したものによる死だった。その死に顔が、夜にベッドに入ったときの穏やかな表情のままだったために、彼ははじめ妻が死んでいるとは思わなかった。彼が目覚めた頃はまだ体も温かく、冷房を効かせた寝室で寝かせていても死体らしく冷え切るのにはそれからさらに三時間ほどかかったが、結局、それまで死んでいるとは気付かなかった。
彼は今までに、もし妻を失ったとしたら自分はどのよう感じるのだろう、ということについて、全く考えたことがなかったわけではなかった。自分が妻を愛しているかということについてはあまり自信がなかったが、もし失ったときには、やはり激しい悲しみに襲われるのだろうと漠然と考えていた。実際に失ってみて、予想していたよりも悲しみが少ないことに彼は自分でも驚いた。予想をはるかに超えていたものは悲しみではなく、喪失感の方だった。
彼はあらゆる気力を失くしてしまった。新人類であったためにもともと食事はあまり摂らなかったが、水を飲むことすら面倒と感じるようになってしまった。少なくとも今は息子のために生き続けなければならないと感じていたが、それならば、息子のために今すぐ死ぬこともまた道理にかなうのかもしれないと考えるようになった。いずれにしろ、テロ活動を指揮する気にはもうなれなかった。部下たちには、家族は決して巻き込みたくないから家には絶対に訪ねてくるなと厳しく言いつけていた。しかし、組織の状況も切羽詰まっていた。地下鉄に毒ガスを撒いたことでいよいよ政府に本腰を入れさせてしまった。二十六年前と同じようにテロ特別対策室が設置されたが、その長を務める適任者がなかなか見つからなかった。結局その任に就いた役人は、経験豊富な切れ者だったが、まるで氷が人の形を成したかのような男だった。「容赦は要らない」とその男は言った。
「テロリストどもは皆殺しにしろ」
対テロ戦闘部隊には早速、最初の戦争の頃から使われているあの呪いの銃弾が導入された。もともと過去二回の戦争のときと比べれば今回のテロ組織の規模はどうしても小さく、そして何よりも、戦士たちの集まりとしては著しく勢いに欠けているように思われた。組織の拠点は次々と制圧され、そこにあった武器や資金も部隊の手によって容赦なく押収されていった。埃の被った機関銃、銃弾、「新人類」のロゴをあしらった防弾ヘルメット、ガス欠間近のジープ、戦争開始時期を延期してまで調達したあの大量のプラスチック爆弾すらも、結局ほとんど日の目を見ることもなしに押収されてしまった。ついに限界を迎えたと悟ったテロ組織の幹部たちは、命令を無視して最高司令官の彼の家を密かに訪ねた。戸口に立つ、泥にまみれたぼろぼろな姿の部下たちを一目見て、彼は静かにため息をついた。部下たちが何かを言う前に、彼は言った。
「もう全て終わりだ」
しかし部下たちは、それだけでは諦めなかった。憤りに声を震わせながら部下の一人が、「当然分かっているとは思いますが、これはあなた一人の戦争じゃないんですよ」と訴えるようにして言った。
「次々と武器が奪われているんです。あと使えるのは、毒ガスの残りくらいですよ――このままじゃあ戦いようがないんです」
「だから、戦わなきゃいいんだよ」と彼は呆れたように言った。「誰と戦ったって、どうせもう何かが変わるわけでもないんだから」
「仲間が死んでいるんですよ、今この瞬間にも!」
司令官の態度に耐えかねた様子で、別の部下がそう叫んだ。
「新人類としての理想を胸に、今も大勢の仲間たちが戦っているんです!」
「なら、そんな理想など捨てることだ」
彼は冷たく吐き捨てた。
「それはただの呪いだよ」
そう言って、彼は部下たちの鼻先で玄関の扉を閉じてしまった。そんな彼の後ろ姿を、当時中学二年生だった彼の息子はじっと壁の陰に隠れて見つめていた。キタハルの遺志を引き継ごうとしていたのはその息子だけだった。息子は何とか父親を元気づけ、元通りにテロ組織の最高司令官へと復帰させられないかと考えていた。あれこれと手を尽くしたが、結局息子という立場でしかない自分がどんなに努力をしても無駄だと分かったために、途中で諦めてしまった。完全に父親を見限るしかなかった。息子はキメラとしての特殊な力に目覚めたときから、戦士としての自分の運命を受け入れるよう教えられていた。「他にも運命の選択肢はあるように見えるかもしれないけれど」とよく母親は言っていた。
「でも、それらは全部偽物よ」
息子は父親よりも母親の方を愛していた。しかし、この家族の場合は父親も母親のように息子のことを愛していたために、本当のところはどういうことなのか、息子自身にも分からなかった。夫は妻を亡くし、悲しみよりも喪失感に囚われていたが、息子は逆だった。悲しみは大きく、むしろ喪失感の方が小さかった。愛する母親が死んでしまったということは、頭ではちゃんと理解していたが、彼の傍では確かに母親は生きていたのだ。時々目の前にはっきりと現れ、幻ではなく事実として生きていた。肉体が死ぬ以前との違いがあるとすれば、会話をするのに使うのが肉体の口と耳ではなく、心の口と耳であることぐらいだった。ある日の夕方、母親の声に導かれ、息子は家から出掛けていった。父親には「本屋に行ってくる」と言っていた。バスに乗って駅まで行き、そこから外の景色も眺めず電車に乗り続け、五駅目で降りた。多くの人が出ていく南口からではなく、北口から駅を出て、さらにしばらく歩いた。ひと気のない住宅街で周りには誰もいなかった。夕日はオレンジ色のはずだったが、景色は全体的に灰色がかっているようだった。道が狭くなり、住宅の壁もひびが入っているものが目立ち始めた。茶色い雨樋が屋根からぶら下がっていて、それに目を引きつけられてしまった。突然後ろから「おい」と声を掛けられ、彼は驚くこともなく振り返った。黒い服を着た二人の若い男が立っていた。片方の男が、「こんなところに立ち入るもんじゃないよ」と興味のなさそうに言った。少年は自分よりも背の高い二人の顔をしっかりと見つめ、はっきりとした口調で言った。
「父からの伝言です」
男二人の動きが止まった。少年は淡々と続けた。
「残りの毒ガスも全て使って、もう一度電車を攻撃しろ――と」
以降、司令官の息子は、組織内で冗談半分に「天使」というコードネームで呼ばれるようになった。あれほど家族を巻き込みたくないと言い張っていた司令官がついに、自らの子供を伝令役に任命したとのことで組織はほんの僅かだけ活気づいた。今更毒ガス攻撃を仕掛けたところで、その後に何も打つ手がないことには変わりなかった。しかし、「天使」を通して語られる幻の司令官の姿は、決して今後の戦いを諦めているようではなかった。「たとえ素手でも戦いましょう」と司令官の息子は言った。
「それが我々の宿命です――と父は言っています」
当の司令官である父親本人は、組織が新たに毒ガス攻撃を仕掛けようとしていることを全く知らなかった。実際は全て息子が指揮していたのだ。そのことに気が付いたものは一人もいなかった。例の全ての元凶の男、もう一人の少年の大叔父にあたるあの男でさえ、司令官がついにやる気を手に入れて、積極的に活動を指揮するようになったのだと勘違いした。「今更、もう遅い気がするが」と元凶の男は、あくまで期待を込めて言った。
「それでも、これからどう戦うかは見物だな」
実際の司令は、家の中でもほとんど腑抜けに近いような状態になってしまっていた。日当たりの良い居間の窓辺に座って、ろくに水も飲まずに、一日中外の動かない景色をじっと眺めるだけになってしまった。夜、寝る前の風呂には必ず入っていたが、風呂から上がって寝室に閉じこもり、ベッドに入った後も眠りに就けることはなかった。そして毎回数時間後に絶望的な夜明けを迎えていた。息子はそんな父親を下手に構うわけでもなく、ただそっとしておいた。まるで父親と息子の役割が入れ替わってしまったかのようだった。この家族では以前より父親が母親のように息子を愛していたりしたが、いよいよ親子関係すらも入れ替わり、よりいっそう複雑な有様になってしまった。
そんなこんなでタイミングとしてはかなり遅くなったが、何とかキタハルの葬儀が行われることになった。葬儀の計画をしたのもやはり実質は息子だった。葬儀は八月の、むせ返るように暑い夏の日に行われた。地下鉄毒ガス事件に巻き込まれた小学校の同窓生の葬儀が行われたところとは別の、駅よりさらに歩いた所にある小さな葬儀場を予約していた。家族葬を計画し、テロリストの仲間たちには参列を控えてもらったが、ここで手違いが生じてしまった。息子の計画した電車毒ガス攻撃は葬儀の一週間前に見事成功していた。死者は三十六人、負傷者は千四百人にも及んでいたが、その攻撃に残り少なかった毒ガスも全て使い果たし、いよいよ組織の武力はゼロに等しくなってしまった。せいぜいあるものといえば、新人類としての、無尽蔵の体力を誇る戦士の肉体と、家庭の台所で用いるナイフや包丁、人を殴打したり、もしくは自分の頭に被ったりして、攻撃や頭の防護にも使えると思われる鍋やフライパンくらいだった。人によってはもう少しましなもの、前世紀の学生運動のときに用いられていたような、原始的な火炎瓶なども用意できたかもしれないが、いずれにしろ以前までのような誇り高きテロ攻撃は不可能と思われた。それでも息子は諦めなかった。「たとえ素手でも戦うんです」と息子は力強く言った。
「全国から仲間を集めて、街の中心でやつらに戦いを挑むんですよ」
その戦いの日と、母親の葬儀の日が重なってしまったのだ。完全に息子のスケジューリング・ミスだったが、このミスがある種の演出的効果をもたらすこととなった。午前中に葬儀が開始されたが、依頼されてやって来た僧侶と、数人の親族が全員目を瞑って静かに真っ白い棺を囲っているときに突然、泥だらけの汚い服を着、皆一様に険しい表情をした屈強な男たちがぞろぞろと部屋に立ち入ってきた。棺を囲っている親族たちの、さらにその周りを、むさくるしい男たちがぐるりと囲った。僧侶と親族たちは皆、あまりに突然の出来事に恐怖で体を震わせたが、僧侶は頭に冷や汗をかきながらも読経を続けた。得体の知れない男たちに囲まれながら、親族たちは三十分間の読経を何とか耐え続けた。親族たちが焼香を済ませるとついに男たちが動き出した。親族たちの息を呑む中、輪の中の一人がずんずんと進み出てきて、手早く一回焼香をした。それにまた別の男が続いた。その後も全部で二十五人の男たちが続き、僧侶と親族たちはその間、固唾を飲んで成り行きを見守っていた。全ての男たちが焼香を終えると、最初に焼香をした、おそらく代表者らしい男が一人進み出てきて、強い意志を持った戦士らしい表情を見せ、部屋全体に響くような低い声でこう言った。
「それでは、戦いに行ってきます」
そうしてそのまま来たときと同じ様にぞろぞろ出て行った。部屋は張りつめていた糸が緩んだような安堵の空気に包まれた。僧侶は真珠のように光っていた頭の汗をごしごしと拭い、説教を始めた。何やらいつの間にか窓の外が騒がしくなっていて、お祭りでも始まったのだろうかと親族たちは訝しげに考えていた。
葬儀場を出た男たちはそのまま街中の仲間たちと合流した。事前には、「男たちはもちろん、女子供もともかく全員集合だ」としか告知していなかったために、本人らも詳しいことは把握していなかったが、そこに集まったのはせいぜい三百人ほどのように思われた。三百人はそれぞれが武器というよりは、まるで民衆の一揆を物語化したお遊戯で用いられる小道具のような雰囲気の持ち寄り物をひしと握りしめ、街中の大通りで盛大な行進を開始した。騒々しい雄叫びが街の建物に反響してあちこちに響き渡り、通りをただ歩いていた人々はぎょっとして足を止めた。目を丸くした人々の見つめる先で、行進は大きな交差点を整理する計十四個の信号を全て無視し、広々とした車道の中心を堂々と進んでいった。走行していた車は已む無く端の方へ退けられた。通りの向こうの方からは、黒々とした別の集団が静かにやって来ていた。警察の機動隊だったが、彼らももはや銃は持っていなかった。テロリストというよりはただの違法デモ隊に成り下がった集団を相手にするには、プラスチック製の透明な盾と、木製の棍棒だけで全て事足りるはずだった。
僧侶の物悲しげな説教が終わると息子は一人部屋を出て、薄暗いロビーのソファに腰を下ろした。受付には目を伏せた若い女が一人だけいたが、それ以外には他に誰もいなかった。外の喧騒に耳をそばたてながら、息子は、自分でも現状を情けなく思っているのか、それとも誇らしく思っているのかかが判断できなかった。どうしようもない不安に駆られ、心の口を使って母親に語りかけてみたが、返ってきたのは脈絡のない文句だった。
「ほら、お友達が来たわよ」
息子は顔を上げた。ちょうど玄関ロビーから一人の、同じくらいの年頃の少年が入ってきていた。違う学校の制服を着、部活帰りを思わせるごつごつした黒いリュックを背負っていた。息子はじっと相手を見つめ、相手もじっと見つめ返してきた。小学生時代、互いに最も親しかったと言える元友人、同じキメラのあの少年だった。
祖父の小説を読んだ一週間後、彼は部活帰りに普段とは違う駅で降りたが、別に何か確信があったわけでもなかった。こちらからわざわざ予言通りに動いてやろうなどという意志もさらさらなかったが、やはり彼の中にあったのは、もし元友人の母親の葬儀がどこかで執り行われているのであれば、ぜひそれに顔を出してやりたいという、あくまでも純粋な思いやりの気持ちだった。駅に着いたときにはすでに大規模なデモが始まっていて、目的の葬儀場に行くまでには大きく迂回しなければならなかった。途中、古本屋の店先から店主と思われる眼鏡をかけた年寄りが心配げな顔を出してきて、「すぐ家に帰ったほうがいいよ」と忠告してきた。
「悪いことは言わない、あいつらと関わったら面倒だよ」
「大丈夫ですよ」と彼は笑った。
「本当に戦う気のある人は、もうそんなにいないはずですから」
葬儀場に着き、ソファに力無く座り込む元友人の姿を見たとき、彼は自分の中でどっと憐れみの感情が湧きたつのを感じ、慌ててそれを抑えようとした。平然とした調子を装いながら、「久しぶり」と声を掛けた。
「焼香をあげに来たよ」
元友人はソファから立ち上がり彼を鋭く睨みつけた。「馬鹿を言うな」と静かに言った。
「俺とお前は、今やそれぞれの陣営の最高戦力なんだぞ」
「俺は戦争なんてしないよ」と彼は落ち着いて返した。
「お前も、もう戦いなんて馬鹿なことしなくていいんだよ」
それを聞いた元友人は薄く笑いながら、「そういうわけにはいかないんだ」と言った。
「自分で始めた戦いを途中で止めるのは、死ぬよりもつらいんだよ」
そう言いながら、元友人はじりじりと彼の方へと近付いていった。右の拳を握りしめながら、それをゆっくりと鋼のような質感の緑色に変色させていった。
「二人きりで会えば、こうなることは分かっていただろう?」
彼は近づいて来る元友人の右手をちらと見、今更ながらに慌てだした。「そんなつもりはないんだよ」と必死に弁解するように言った。
「何でもかんでも、小説の予言通りにしなくちゃいけないわけじゃないだろう?」
「小説なんて知らないが」と元友人は言った。
「全ては予め決まっているんだ。それだけだよ」
元友人の右腕が素早く動いた。まだ充分な距離があったはずだが、その腕は驚くほどに伸び、しかも鋭かった。緑色の残像が一瞬で空間を切り裂き、ぽかんと口を開けて突っ立つ彼の心臓を貫いた。
「馬鹿め」
元友人が吐き捨てるように言った。体から乱暴に腕が引き抜かれ、彼は勢いよく前に倒れ込んだ。冷たく心地良い床にうつ伏せになりながら、彼は胸というよりは腹の辺りにじんわりと広がっていく痛みに呻いた。
「ちょっと待ってくれ――」
視界は不思議とはっきりしていた。「ああ、これは死なないな」と彼は直感した。頭は起こせなかったが、玄関から外へ逃げ出していく元友人の足元がしっかりと見えた。受付の辺りでは実はさっきから悲鳴が上がっていたが、彼はそれにもちゃんと気付いていた。「大丈夫ですよ」と彼は呻きながら言った。
「僕はキメラなんです。今、ようやく本当の意味で実感できました」
そう言いながら彼はすでに立ち上がっていた。赤い血は流れていたが、それよりも緑がかった透明の粘液の方が多く出ているようだった。恐る恐る覗いて見ると胸の穴もすでに塞がりつつあり、彼は、何かどうしようもないものを見てしまったかのような気分に襲われた。彼は背負っていたリュックごと体を貫かれていて、辺りには水着などの部活道具が散乱していた。彼はロビーのソファにリュックを置いた。元友人の腕に貫かれ、大きな穴の空いている、愛用だったリュックの哀れな姿を見て言いようのない悲しみに襲われた。救急車のサイレンが聞こえてきた。彼は元友人を追いかけて外へ飛び出した。元友人の駆け出していく方向はしっかりと見ていたし、事前に読んでいた小説の力もあったし、何よりも元友人の考えは手に取るようにわかっていた。人混みに紛れようとデモ隊の方へ向かっているはずだった。夏の太陽が天頂にあった。息を吸えば肺が燃えるように熱くなったが、光合成のできる人間としての力は漲っていた。全速力で走り続け、遠くにデモ隊と警察の機動隊が衝突している凄まじい人だかりが見えてきた。ちょうどその中に入り込もうとしている幻のような少年の姿も何とか捉え、彼はさらに急いで追いかけた。デモ隊と機動隊のもみ合う人混みに入り込んでも彼はひたすら走り続けた。辺り一面には戦士たちの怒号や叫び声が溢れかえっていたが、彼の目指す前方辺りからはそれとは質の異なる悲鳴が聞こえていた。先を行く元友人が、戦士も機動隊員も、女も子供も構わずに撥ね飛ばしながら突き進んでいるのが分かった。それは追いかける彼も同じだったのだ。自分よりも背丈の高いデモ隊員と機動隊員が前方でもみ合っていたが、彼はそれを二人まとめて吹っ飛ばしてしまった。包丁を掲げて金切り声を上げながら機動隊員に掴みかかろうとする若い女をひっくり返し、いきなり脇から出てきた、母親を探し泣いて彷徨っている小さい男の子をできるだけ安全そうな遠くまで投げ飛ばした。人混みが僅かに切れたところで、ちょうど元友人がこちらを振り返っているのが見えた。彼がここまで追いかけているのに気付き、目を丸くして驚いていた。そして慌てた様子で走り出した。デモ隊が少し疎らになっている場所に出て行った。そこでは車が通常の時速五十キロで走行していたが、元友人と彼は気にせず飛び出していった。一台の赤いスクーターが元友人に突っ込んでいったが、元友人の方がスクーターを吹っ飛ばしてそのまま走り続けていった。追いかけながらそれを後ろから見ていた彼は、小学生の頃の事故を思い出していた。「おい!」と前を走る元友人に向かって呼び掛けた。
「もうブランコは怖くないのか?」
それを聞いて元友人は立ち止まった。そしてゆっくりと振り返ったが、その顔は恐ろしいほどに悲しげだった。怒りは微塵もないように見えた。「黙れ!」とそのままの表情で叫んだ。
「今度こそ、お前を殺してやる!」
駆け寄ってくる彼に向かって正面から掴みかかってきた。二人は互いに拳を掲げて正面衝突した。先にマウントを取ったのは追いかけてきた彼の方だった。元友人の喪服の襟首を掴み、右腕で力強く顔を殴りつけた。ぱっと血が飛んだ。彼は自分の右腕が緑色に染まっているのに気が付いた。元友人も負けじと彼の腹を蹴り上げた。またぱっと血が舞った。彼と元友人は殴り合い、蹴り合ったが、辺りはそのうち血よりも緑がかった粘液で汚れていった。わらわらと見物人が群がりつつあった。その円の中心で彼らは泥臭い戦いを続けた。元友人が再び彼の胸を貫こうという姿勢を見せたが、次の瞬間には、彼がそれをギリギリのところでかわした。元友人は軽蔑の笑みを浮かべながら、「お前には俺を殺す度胸もないんだ!」と叫んだ。
「俺みたいに、人の胸に腕を突き立てることも出来ないんだ!」
それを聞いた一瞬、彼の中で激しい怒りが爆発した。ずっと元友人を殴るために握っていた拳の指に、実は牙のような鋭い爪が生えているのに気が付いた。殴るのと同じ勢いに任せ、彼はその爪を元友人の胸に突き立てた。相手は悲痛な呻き声を上げたが、彼は手を休めなかった。地面に倒れ込んだ元友人に馬乗りになり、彼は両手の爪を使って相手の胸と腹を突き刺しまくった。元友人も爪を立てて応戦した、馬乗りになって激しく突き刺してくる彼の腕を抑えようとした。彼は、その元友人の両肩を爪で貫いた。元友人はさらなる呻き声を上げ、抵抗する力を失ったようだった。しかし、夏の日は頭上から燦燦と照っていた。彼がどんなに相手の胸や腹をぐちゃぐちゃにしても、その傷は煙を上げながら急速に癒えていった。貫かれた両肩の傷もいつの間にか癒えて、抵抗が再開されていた。周りにいた見物人はそのあまりにグロテスクな展開にすっかり気分を落とし、いそいそと逃げ出してしまった。元友人は相手の勢いに圧倒されながらも、暗い瞳を輝かせて笑い始めた。この戦いは終わらないぞ。馬乗りになりながら彼はますます怒りにかられた。頭の中でどす黒い化け物が抑えようもなくぐるぐると渦巻いていたが、やがてそれが想像もしなかった、光り輝くような思い付きをぽんと投げてよこした。彼は左手で相手を殴り続けながら右手をズボンのポケットに突っ込んだ。中にあった小さな小銭入れをポケットの中で引き裂き、小銭の肌触りとは違う、父親からもらったお守りの弾丸を掴み取った。それをそのまま元友人の、肉の開かれた胸の中に突っ込んだ。その瞬間、元友人はさっきまでの、圧倒されながらも余裕すら感じられる笑みをすっかり失い、ぽかんと呆けたように口を開けた。千年分の拷問の苦しみが一瞬にしてやってきて、そういう顔しかできなかったのだ。元友人はぱったりと力を失い、抵抗していた腕もだらりと地面に落ちた。あまりに急な展開だったので、彼はすっかり仰天してしまった。弾丸がそこまで強い作用を持つとは知らなかった。本当に殺してしまうわけにはいかないと、慌てて元友人の胸から弾丸を摘出しようとした。思いっ切り奥の方に突っ込んでしまったせいで、どこにあるのか分からなくなってしまっていた。両手を胸の中に突っ込み弾丸を探した。脂肪と肉をどかして、ぬるぬるとした粘液のまとう骨を押し広げ、あらゆる内臓をひっくり返したが、見つからなかった。暑さと動揺から恐ろしいほどの量の汗が顔面から噴き出していた。滝のような勢いの汗が元友人の開かれた胸の中に落ちていったが、彼はそれを気にすることも出来なかった。彼は必死になってぐちゃぐちゃと引っ掻きまわし続けたが、そのせいでますます弾丸の在処は分からなくなってしまった。辺りは血と粘液の池と化し、それが凄まじい臭いを放っていた。制服がその両方の液体と汗を吸い込み、まるでもう一枚肉を纏っているかのような気分になった。気が付けば、元友人の体内は原型が分からないほどにミックスされ、ボウルの中でトマトの水煮を押し潰したかのような、凄まじい有り様になっていた。異臭を放つ赤色のスープの中でぐずぐずに崩れた肉片が浮かんでいるのを見て、彼は絶望的な気分になった。泣きそうになるのを何とか堪えて立ち上がり、そこから逃げるようにして駆け出した。周りの人々も皆どこかへ逃げ去っていた。そのまま駅へ到着し、改札口を突っ切って電車に乗った。ぼろぼろに汚れた姿のまま、ぶるぶると体を震わせながら車両のドアの脇に突っ立っていたが、彼に近寄ろうとするものは一人もいなかった。普段通りの駅で降りて、そこからバスに乗った。若い男の運転手はぎょっとした様子だったが、この時間の乗客は少なく、運賃さえ支払えば乗客として受け入れてくれた。ただし汚れがつくからと座席に座ることは許されなかった。自宅そばのバス停で降りそのまま家に帰り着くと、彼は自室に駆け込み、明かりも点けないでそこに閉じこもった。部屋への階段を駆け上がる凄まじい足音を聞いて驚いた母親が、「どうしたの?」と部屋の外から呼びかけたが、彼は何も答えなかった。床に膝を抱えて座り込みながら、未だにぶるぶると体を震わせていた。夕食の時間になっても部屋から出る気にはならなかった。仕事から帰ってきた父親も呼び掛けてきたが、それも彼は無視した。相変わらず暗闇の中で体は震えていたが、自分がなぜそこまで意地になって部屋から出ようとしないのかについては、実ははっきりとは分かっていなかった。かつての友人を殺害した恐怖によって全身が支配されているのかとも思ったが、やがて彼は、もっと漠然とした感覚によって支配されていった。このままではいけないと思い、気を紛らわすために祖父の書いた小説の続きを読み出した。そこには、以前電車で撒かれた、旧人類にのみ効果のある毒ガスを政府の機関が採取、研究し、今度は逆に新人類にのみ効果のある毒ガスを開発しようとしていること、しかもその毒ガスは単なる抑止力ではなく、冷徹なテロ対策室室長の、あの氷のような男によって、実際に全国各地で大気中に散布しようというところまで計画されていることが記されていた。それを知ったせいで、彼の体の震えはますます強くなってしまった。死の恐怖が重なった。小説には、「新人類にのみ効果のある毒ガス」と記されていたが、それが自分や自分の父親のような、ただの新人類とも少し違う特殊な人種に対しても効果があるのかどうかについては、はっきりと記されていなかったからである。それを理由として据えて、彼はより強い意志を持って部屋に閉じこもった。時間を経てその意志は強くなっていき、同時に体の震えも強くなっていくように感じられた。彼の体の振動は地震じみていて、真下の一階の天井すらもぶるぶると震えるほどだった。事態の異常性をようやく察知した両親が、閉じ切られた扉の外から彼に向かってとりあえず部屋を出るように、そして、何か悩みがあるのなら遠慮せず話してみるようにと説得を始めた。あまりにしつこかったために、彼は思わず「いい加減にしてくれ!」と叫んでしまった。すると父親は、「なら出てくるんだ!」と力強く叫び返した。
「ただ閉じこもるだけならいいが――そこまで強く体を震わせるんじゃあ、そのうち家が崩れるぞ!」
それから父親との叫び合い、怒鳴り合いが続いた。母親は心配げな顔つきで全てを見守っていた。やがて父親と息子との怒鳴り合いは、親子の生涯の思い出として後々にも家族の記憶に残ると思われるほどの、激しい口喧嘩へと形を変えていった。両者は決して譲らなかった。「このままじゃあ、お前は一生腰抜けだ!」と父親が怒鳴った。
「何を言われたって、この部屋からは一歩も外に出ないぞ!」
彼は精一杯怒鳴り返した。
「この世が本当の意味で平和になるまで、絶対にここから出るものか!」
(おわり)
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