キメラのいた系譜 第三部 6
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ある一人の男がキタハルとの間に息子をもうけた、しかしその男は、いざ自分の息子が生まれるという時になっても、自分がなぜキタハルと結ばれることになったのかを全く理解できていなかった。彼女が自分を愛していないことは明らかだったし、また男の方も彼女を愛してはいなかった。彼女と結ばれて以降、男には常にそういった謎が付き纏っていて、それが解けることはついになかった。
「最後の戦場でお前に口づけをされたあの瞬間から、俺の人生は狂ってしまったんだ」
これが夫の口癖だった。それを聞いたキタハルは決まって薄笑いを浮かべながら、「私の伯父さんも、よく似たようなことを言っていたわ」と返した。
「もっとも伯父さんの場合は、口づけなんてロマンチックなものじゃなくて、金持ちが内ポケットに忍ばせていた、恐ろしい拳銃だったけどね」
夫は人生の中で、他にも多くの謎に付き纏われていた。その一つが、キタハルが妊娠しているときに、彼女の病室を訪ねてきた、白衣を着た不気味な若い男だった。あの日、すでにお腹が大きくなっていた自分の妻が、病室のベッドにどっしりと横たわりながら、「待っていたわ」と静かに言うのを聞いて、夫は不吉な予感に襲われた。
「そのうち、来ると思っていたの」
「誰だい?」と夫は不安になって聞いた。
「僕はただの医学者ですよ」
若い男は微笑みながら言った。
「奥さんの出産をサポートさせていただきます」
若い男はそう言うと、非常に鮮やかな手つきでキタハルの点滴に緑色の薬品を注入した。玄人の優雅な踊りを思わせる、流れるような動作だった。夫にはその薬品が何かを聞く隙すら与えられなかった。
「万能の栄養剤ですよ」
夫に聞かれる前に、若い男は言った。
「二十九年前にも類似の栄養剤が使われていたんですけどね。これは、それにさらなる改良を加えたものですよ」
一か月後に息子は無事生まれた。彼は、分からないことは多々あるが、ともかく目一杯自分の息子を可愛がろうと前向きに捉えようとした。まるで母親が二人いるようだった、というよりも、彼の方が母親らしいほどだった。食事の時も、その後の昼寝の時も片時も息子から目を離さず、赤ん坊の赤みがかった丸っこい顔を見つめ続けた。息子が初めて緑色の尿を出したのは、小学二年生の夏の頃だった。学校から不安げな表情で帰ってきた息子に何があったのかを問い詰めると、昼休みにトイレに行ったとき、夏草の薫りがする、緑色の野菜ジュースのようなおしっこが出たと言われた。彼は当人の息子以上に取り乱してしまった。緑色の尿が意味する体の状態を、インターネットを駆使して徹底的に調べ上げ、考えられる感染症を二十三種類突き止めた。自分の息子はそれらのうちのどれかに罹ってしまったに違いない、ともかくすぐに最新鋭の医療機器を備えた大病院に連れて行かなくてはと考えたが、なぜか初めからずっと落ち着いた様子だった妻に、「病院に行く必要なんてないわ」と止められてしまった。
「生まれる前からわかっていたことだもの」と妻は冷静な様子で言った。
「そんなわけないだろ!」と彼は叫んだ。
「二十三種類の感染症の中で、先天性のものは一つも無いぞ!」
「だから病気ではないの――緑色のおしっこは、あの子がこの国の命運を握る者であることを示す、絶対的な証なのよ」
彼は若い頃からテロ組織の一員だったが、同時に、先行きを心配する親戚の伝手で都内のねじ工場にも勤務していた。二十年前の敗戦によりテロ組織が実質崩壊して以降、彼は生活の軸を出来るだけまともな方向に正そうと努力してきた。どういうわけかどこぞの金持ち数人が、ほぼ壊滅状態のテロ組織を未だに支援していて、資金は有り余っていた。彼は一応現在も組織の幹部であるために、その気になれば自由にその金を使って楽な生活を送ることも出来たはずだったが、彼の根っからの真っ直ぐな性分がそれを許さなかった。偶々光合成が出来てしまった、そのことが周りの人間に知れて、そのせいで辛い目にも遭ってきた、テロ組織の一員になれば世の中を変えられると漠然と考え、目を覆いたくなるような状況にも放り込まれた、その中で、自らの命を守るためには他にどうしようもなく、ただひたすら手足を動かし続けた、気が付けば組織の幹部にまで昇り詰めていたが、今では、それらは全て若気の至りだったと認めざるを得なかった。そのたったの一言で、あれほどの過去を片づけてしまうことは自分でも憚られたが、そうすることが、自分のようにありふれた大人としては最も相応しいと考えるようになっていた。
息子が小学四年生になっても、彼はまだ母親のように息子のことを溺愛していた。男親である自分の利点としては、母親のように息子を愛しながら、同時に男としての力を要する遊びにも付き合えるという点があると考え、彼は暇さえあれば息子の腕相撲に付き合っていた。ある休日、息子が昼前に腕相撲を挑んできた。父親は、どうせ自分が勝つと思いながら、快く勝負を引き受けた。両人食卓に肘をついて手を握り合った。息子の手が不自然に冷たいのを一瞬不気味に思ったが、父親は勝負に集中することにした。
「開始の掛け声は、お前に譲るよ」
父親がそう言うと、息子はにやりと笑った。
「甘く見ちゃいけないよ」
「そっちこそ、父親を甘く見るなよ」
「よーい、どん!」と息子が叫んだ。次の瞬間、父親は背筋の凍る思いをした。まるで巨人に手を握りつぶされようとしているかのような感覚に襲われたのだ。思わず、今目の前にいるのは息子ではないと感じてしまった。痛みに叫ぶ間もなく腕に凄まじい力がかけられ、あまりのスピードに肩が外れるかと思われるほどの勢いで、手をテーブルに「びしゃん!」と叩きつけられた。
「あぁ!」
父親は思わず情けない声を出してしまった。こんな声を出したのは久しぶりだった。父親はベッドの中で果てる際にそういう声を出す癖があったが、こんな声を出したのは最後に妻を抱いた時以来だと一瞬考え、その後すぐに恐怖に襲われた。目の前の息子はにやりと笑ったままだった。「初めて父さんに勝てたよ」と息子は言った。
「最近、妙に力が湧いて来るんだ」
そう言う息子の腕をちらと見て、父親はさらなる恐怖に襲われた。息子の腕は人間のそれではなくなっていた。まるでエイリアンの腕のように緑色に染まり、鉄ワイヤーのような筋肉の筋が何本も浮き上がって見えた。硬そうな皮膚は金属のような光沢を放っていて、父親は、腕の形をした不気味な置物に手を握られているかのような印象を受けた。
「なんだよ、これ――」
父親は呆然となって呟いた。脳裏には二十二年前の戦争の、廃校での最後の戦闘で、緑色のおぞましい化け物が振り回していた、数々の仲間たちの腹を貫いていたあの血だらけの長い腕が浮かんでいた。しかし、息子は父親の手を放り出すと、得意げに自分の異形の腕を掲げた。
「全力を出そうとすると、こうなるんだ」
そう言っているうちに、息子の腕は元の子供らしい腕に「すぅ」と戻っていった。父親は自分の体が震え出すのを感じた。愛する息子が、何か得体の知れない力に侵食されようとしている――
「病気どころの話じゃないぞ」父親は震える声で言った。
「腕が変形するなんて――どうすればまともに治るんだ?」
「ただ時が来た、というだけよ」
母親――キタハルが、栄養補給というよりもあくまで一家団欒のきっかけとしての、昼食のチャーハンを盛った皿を持って食卓にやって来た。腕相撲の一部始終を見ていながら、キタハルは極めて冷静だった。それどころか、息子をじっと見つめながら、どこか満足そうな表情すら浮かべていた。
「時が来たって、どういうことだよ!」
父親がそう叫ぶと、キタハルは宥めるような調子で、「そのままの意味よ」と答えた。
「これがこの子の宿命なの――この国の行く末を左右する、貴重な力なのよ」
それから一瞬鋭い視線になって、こう言った。
「あなたもそろそろ、覚悟を決めなきゃね」
彼が実際にその覚悟を決めたのはそれから一年後のことだったが、それも自ら覚悟を決めたというよりも、周りに追い詰められて、仕方なくそうしたというだけのことだった。自分が組織の新たな司令官となって、愚かなテロ活動を先導していかなければならない、前回の戦争の途中から、二十五年間休まず勤め上げたねじ工場をついに辞めなければならないというところまで来たとき、彼は、自分のあまりの情けなさに思わず涙した。「こんな馬鹿馬鹿しい戦いのために、大切な仕事を辞めなきゃいけないのか」彼は呻いた。しかし、キタハルは、慰めるような表情を浮かべながらこう返しただけだった。
「馬鹿馬鹿しくても、これが私たちの宿命なのよ」
全てはある秋晴れの日に始まった。夕方、彼が仕事を終えてねじ工場から出ると、スーツ姿の若い男と、百歳ほどにも見える、金の柄の杖をついた腰の曲がった老人が、気味の悪い微笑みを浮かべながら待ち構えていた。老人は目がどこにあるのか分からないほど顔中しわくちゃで、髪の毛は全て柔らかそうな白髪だった。腰はほとんど直角に折れ曲がっていて、杖で何とか上体を支えているようだった。二十三年前に一度か二度ほど見掛けたことがあったかもしれないが、彼にはその老人の正体が何となくわかっていた。しかし、始めに話しかけてきたのは若い男の方だった。
「ねじ工場なんて、柄じゃないよ」
「どちら様ですか?」
微笑んでいる若い男に向かって、彼は失礼のないように聞いた。
「まぁどちら様にしろ、俺がどこで働こうがあなた方には関係ないはずですが」
「僕はあの時の医者ですよ」と若い男は言った。それを聞いても、彼にはまだ若い男が誰なのかは思い出せなかった。
「妊娠している奥さんの点滴に、緑色の栄養剤を入れた医者ですよ」
それを聞いても彼はまだ思い出せなかった。しかし、緑色という言葉は彼の中で引っかかった。彼は目の前の二人を睨んだ。老人の方は、彼の記憶が正しければ、テロ組織を支援している、未だしぶとく生き残っている得体の知れない金持ちの一人だった。二十三年前の戦争時、彼を含むテロ組織の幹部たちが銚子の廃校に潜んでいるときに、改造した日焼けマシーンを運んできたあの老人だった。
「あんたたちが、俺の息子に何かしたのか?」
彼は怒りを込めて叫んだ。
「あんた達のせいで、俺の息子の腕が変形するようになったのか?」
「お子さんはまだ十歳か」と、老人は彼の叫びを無視して言った。本当に無視しているのか、もしかしたら耳が遠くて聞こえていないのかもしれなかった。
「戦場へ出るには、いくらなんでもまだ幼過ぎるな」
「あと二、三年も待てば十分でしょう」と若い男が言った。
「それに十歳であれば、もうすでにキメラとしての力を発揮していてもおかしくはない年齢です」
それから若い男は彼の方を見て、「そうですよね?」と聞いた。
「何を馬鹿なことを言っているんだ!」
彼は顔を歪ませて怒鳴った。「子供を戦場に送るわけがない! そもそも、もう戦争なんて起こすものか!」
それを聞いた若い男は、まるで面白い冗談を耳にしたかのように声を上げて笑った。笑いながら隣にいる老人の肩をぽんぽんと叩き、そのせいで老人は危うく腰から地面に崩れかけた。若い男は、「すべてお見通しですよ」というような笑顔を浮かべながら、「そんなはずはないでしょう」と言った。
「あなたが戦いたくないはずはないんです。それが宿命なんですから」
「俺の宿命を、どうしてあんたが知っているんだ?」
「知ってるものは知っているんですよ。僕はそういう立場の人間なんです」
若い男はそう言って自信ありげな態度を崩さなかった。彼は男をじっと見つめた。もはや男に対しては怒りを通り越し、恐怖をも通り越して、憐れみの情すら抱きつつあった。どういうわけかは知らないが、こいつは全てを知ったつもりになっている、ならば自分の世界に閉じこもっていればいいものを、決定的な間違いを犯しているにもかかわらず外の世界に指図をしようとして、愚かな歴史を繰り返そうとしている、おそらくそのせいで、こいつは近い将来に自ら身を亡ぼすことになる――
「俺は、戦争はしないよ」
彼はあえて声を抑えて言った。そうした立ち振る舞いで、あらゆることに対する全ての思いを表現できればと考えていた。そう考えながら、まぁそんなに上手く伝わるわけはないかと諦めてもいたが、意外にも意志の強さは伝わったようだった。若い男は意外そうに目を見開き、驚いた。
「冗談でしょう?」
「冗談じゃないよ」
彼はもう一度、抑えた声で言った。「若い頃の俺は間違っていたんだ。もし過去に戻れるのなら、昔の自分をぶん殴ってやりたいよ」
それを聞いた若い男は一際目を丸くした。「まさか、心の底からそんなことを言う人が実在するとはね」と呟いた。それから、徐々に困惑の表情へと変わっていった。身を屈めて、隣にいる、杖を支えに立ちながら起きているのか眠っているのかも分からないような老人に向かって、何かを耳打ちした。それから彼に向き直って、困惑した表情のまま口を開いた。
「あまり乱暴なことを言うつもりはなかったのですが――」
その言葉を聞いた瞬間、彼は背筋を貫くような冷たい恐怖の予感に襲われた。動揺しているのを悟られまいとしたが、自分の顔がみるみる青ざめていくのを抑えることが出来なかった。次に若い男が言ったことは、やはり彼の予想した通りのものだった。
「お子さんの命は、我々が握っていますよ」
抗いようのない恐怖に打ちのめされながら、彼は顔の筋を強張らせて言った。「それをやったら許さないと言っても、無駄なんだろうな」
「当然です」と若い男は答えた。
「今すぐ我々に殺されるか、それとも戦場に出るか――まぁ戦場の方を選べば、あなたの指揮能力によっては生き延びることができるかもしれませんがね」
彼は正式に、組織の幹部に復帰することに同意した。三日後の夜には、都内で行われる活動家たちの地下集会に参加した。その集会が行われたのは、彼は知る由もないが、今は亡き前司令官サイトウも大学生の頃に参加した、三十年以上前の組織の集まりにも使用されていたあの酒場の地下広間とよく似た場所だった、琥珀色の液体の入ったグラスが配られていたし、頭上にはあの不思議な香りのする白い煙も漂っていたが、しかしそことは別の場所だった。前回の戦争が終わってから、彼はキタハルと共に争いを避けて静かに暮らそうと努力をし、組織とも自然と疎遠になっていたが、久しぶりに参加したその活動家たちの集まりで、彼は思った以上の熱い歓迎を受けた。集会には前回の戦争に共に参加した仲間たちや、若い新入りも含めて全部で四十人ほどが参加していたが、そのほとんど全員が彼のことを知っていた。状況を飲み込めないまま、彼は参加者たちの喜びと興奮の渦に巻き込まれていった。
「で、戦いはいつ始めるんですか」
彼にグラスを渡した一人の男が、はしゃいだ様子でそう聞いてきた。
「あなたは選ばれし子の父親だ。当然、全ての指揮はあなたがとるんですよね?」
「あなた方がそう期待するのなら、そうなるのでしょう」
彼はうんざりとした表情で言った。男は彼の様子には気付かず、それを聞いてますます喜びながら、「素晴らしい!」と叫んだ。
「ここにいる者たち以外にも、同志たちはまだ全国のあちこちに散らばって隠れながら、その時が来るのを待っています――で、戦争はいつ始めるんですか?」
「再来年あたりですかね」
彼は投げやりになって答えた。
「来年は、息子の中学受験があるんですよ」
集会は明け方まで続いた。地下広間から出てきたときには空が白み始めていて、道を歩いているときにちょうど昇り始めた、目の眩むような真っ白い朝日を浴びながら、全身に力が湧いてくる自分の体質を呪った。どうしても恨めしい気分が消えず、彼は隣を歩いていた男に聞いた。
「君は、何のために戦争をしたいんだい?」
男はしばらく、「何のためだっけな」と考え込んでいたが、突然、「はっ」と思い出したような表情を見せてこう答えた。
「我々新人類が、新人類らしく生きる為だよ」
彼はそのままねじ工場の職場に出勤したが、昨夜からグラスに入ったあの琥珀色の液体以外はほとんど何も口にせず、加えて一睡もしていないにもかかわらず、彼の体や意識は驚くほどしゃんとしていた。それは若い頃の感覚そのものだった。この齢になってそんな感覚を再び味わうとは思ってもみなかった彼は、仕事の作業を淡々とこなしながら、静かに驚くと同時に、どこか恥じ入るような感覚を拭いきれなかった。テロ活動に参加していた頃の愚かな自分をますます強く思い出し、たった一、二分の間に何度も過去を悔やみ、その度に目を閉じた。これが今後さらに習慣化していくことを思うと、彼の気持ちはいっそう落ち込んだ。現実はどうしようもなかった。結局、組織の地下集会は二年後の秋まで、つまりは本格的なテロ攻撃が開始されるまで続けられた。計画の上では二年後の夏から攻撃を始める予定だったのだが、テロ攻撃における花形の武器とも言えるプラスチック爆弾の、西ヨーロッパを経由したロシアからの調達がどうしても予定内に間に合わず、タイミングが先送りになってしまった。
しかしそれ以前に、彼の家ではある事件が発生していたのだ。彼がまだねじ工場に勤めていた、ある日の真昼時、ちょうど昼休憩をしているときだった。妻の作った弁当を食べ終えてペットボトルのぬるい緑茶を飲んでいると、ポケットの携帯電話が鳴った。当時彼の息子は小学五年生だったが、その息子が何やら学校で大怪我をしたらしいという、妻からの電話だった。彼はその日の仕事を全て放り出し、急いで病院へ向かった。周りの驚く視線を気にもせず、何十年ぶりかの全速力で病室に駆け込んだ。狭い病室のベッドに息子が目を開けて横になっていた、この世の終わりのような打ちひしがれた表情をしていた。傍の椅子にはキタハルが寄り添うように座っていた。彼が部屋に駆け込んできても、二人は一切動きを見せなかった。
「何があった!」と彼は叫んだ。
「ブランコよ」
息子が何も答えない代わりに、キタハルがそう答えた。それだけ聞いても彼にはよく理解できなかったが、詳細を聞いてから思わず愕然とした。怪我をした理由というのがあまりに馬鹿馬鹿しかったこともあったが、それ以上に、息子が怪我をして病院に運ばれた後も、クラスメイト達がドッヂボールを続行していたらしいということに彼は驚いた。
「そいつらは、少しでもお前を心配する素振りを見せなかったのか!」
彼が顔を真っ赤にして怒ると、息子は困惑した表情で、「そんなことないけど――」と弱々しく言った。
「あいつは、俺がキメラだってことを知ってたし――あの程度の事故なら、何も心配は要らないって思ったんじゃないかな」
息子がそう言うのを聞いて、彼はますます驚いた。
「お前がキメラだと知っている?」と彼は叫んだ。
「お前、自分の体について誰かに話したのか!」
「あいつもそうなんだ」と息子は慌てた様子で言った。
「あいつもキメラなんだよ。きっと僕らの仲間なんだ」
ここで彼は初めて息子の親友について知った。息子の話を聞きながら、彼は新たな恐怖の感覚に身を囚われていた。息子の傍に座りながら話を聞いていたキタハルは目を瞑り、そっと鼻から息を吐いた。「やっぱり、そうだったのね」と言った。
「苗字を聞いたときから、何となくそんな予感はしていたのよ」
「でも、あいつは戦闘向きじゃないよ」と息子が弁解するように言った。
「あいつを戦争には巻き込みたくないんだ――」
「だから俺たちには秘密にしていたのか」と父親が鋭く言った。
「そんな勝手が、許されるわけがないだろう」
口ではそう言いつつ、彼は内心興奮していた。もしその息子の親友を自分達の陣営に引き込むことが出来れば、息子の身代わりとして戦闘へ送り出すことが出来るかもしれないと考えたのだ。しかし、その息子の親友が、二十三年前の戦争でおぞましい活躍ぶりを示した、あの緑色の化け物の息子だということも見当がついていた。つまりはかつての敵を引き込むということで、上手くいく望みが薄いことも分かっていた。しかし、息子の戦場送りを阻止するためには、そう簡単に諦めるわけにはいかなかった。いずれにしろ息子には、これ以上その友人とは関わらないように言いつけた。息子は反発したが、彼は父親として、今までにないほどの厳しい態度をとって息子を黙らせた。息子はすっかり打ちひしがれてしまった、退院した後も、以前に比べて表情が格段に暗くなってしまった。両親は中学受験に影響が出ることを心配したが、むしろ成績は上がっていった。結果として息子は無事、第一志望の学校に進学することとなった。
彼は周囲の流れに身を置きながら、もはや自分には、数年後に戦争が起こることは阻止できないと諦めていた。だからせめて、仲間内に不審に思われない程度に戦闘を小規模に抑えるか、もしくは頃合いを見て、何とか政府側と和平を結ぶことは出来ないだろうかと考えていた。彼にとって、プラスチック爆弾の必要量の調達が難航したことは天の救いのように思われた。毎夜寝る前にはベッドに入りながら、「明日も武器が届きませんように」と祈らずにはいられなかったが、そういった毎日の祈りも結局は全て無駄に終わった。当初の予定ではその年の夏に最初の爆破テロをしかけることになっていたが、それが十月に延期になっただけだった。最初の攻撃は、終電間際のひと気のない駅のごみ箱に少量の爆薬を仕掛け、周りに誰もいないうちに、速やかに爆発させるというものだった。組織内のメンバー達からは、戦争開始の狼煙としてはあまりに華がなさすぎる、もっと大規模で、これからの活動を象徴するような爆破テロを起こすべきだという意見が絶えなかったが、最高司令官である彼は、それらの意見を何とかしてねじ伏せた。
「いきなりではなく、少しずつ恐怖を与えていく方が、望ましい効果があるだろう」
そうやって彼は、テロ組織の司令官でありながら、非常に消極的な反戦活動を続けていた。都内では突発的な銃撃戦が起きていたが、それも狭い、ひと気のない郊外の地域に限定されていた。人口密集地での爆破テロはさすがに抑えられなかったが、どうにかして頻度は一か月に一回程度に抑え、しかも爆破時間は人の少ない深夜か、早朝の時間帯に設定し、日中でも出来るだけ寂しい場所で爆破させるように指示した。奇跡としか言いようがなかったが、四か月ほどの活動を続けて、死者は銃撃戦で死んだ六人だけだった。息子を戦場へ送ることもなく、様々な工夫を凝らして、どうにかそれだけの期間をしのぎ切ることが出来た。彼は神に感謝してもしきれなかったが、周りの人間はむしろ逆で、予想とはかけ離れた現実の展開に、思わず神を呪わずにはいられなかった。ある一人の幹部が、一向に大規模なテロ攻撃を指示する様子のない彼に向かってしびれを切らし、激しく苛立った様子で、「我々を試しているのですか?」と聞いた。
「あなたの理不尽な指示に抗って、我々が新人類としての真っ当な信念に従い、自ら動き出すのを待っているのですか?」
それを聞いた彼は、「おかしなことを考えるんじゃない!」と激昂した。
「いいか、もし勝手に大規模なテロ攻撃を実行したら、そのときはお前ら全員の首に爆弾を巻き付けて、いっせいにあの世へ送ってやる!」
組織内で不満が溜まりつつあったが、彼は全てを悉く無視し続けた。時折の銃撃戦や爆破テロでガス抜きを続けていたが、しかし、テロ攻撃を始めて半年ほど経った頃には、それらの手段にも徐々に限界が近づいていた。ある夏の日、どこかで見たことのあるような若い男が、彼の潜伏する兵営を訪ねてきた。また戦闘の規模に関して若い兵士に文句を言われるのかと思い、彼はすぐ追い返そうとしたが、何やらその若い男は他とは様子が違った。そもそも男は、「僕は組織の兵士ではないですよ」と言った。
「前にお会いしたときも言いましたが――僕は妊娠している奥さんの点滴に緑色の薬を入れた、あの医者です」
その若い男は困惑しきった様子だった。やはり言い分としては、「なぜもっと大胆に戦闘を起こさないのか」だとか、「なぜあの特別な力を持った息子を戦力として利用しないのか」といったような、彼が予想した通りのものだったが、男はなぜか、今まで文句を言ってきた兵士たち以上に切羽詰まった様子で、子供じみた文句をまくし立てていた。「こんなはずじゃあないんですよ」と若い男は苛立たしげに言った。
「僕の計画では、もうこの時期には最終決戦が始まっているんです」
「あんたの計画なんて知らないよ」と彼は冷たく言い放った。
「あんたが何様かは知らないが、何でも企み通りに進むわけがないだろう」
それを聞いた若い男は深いため息をついた。「僕が何様かはこの際どうでもいいことですが――」と男は言った。そして、いつかに聞いたような台詞をもう一度言った。
「一つ明らかなのは、お子さんの命は僕が握っているということです」
「またそれか」と彼はうんざりした様子で言った。
「馬鹿の一つ覚えだな」
「その通りです」
男の表情もかなり苦々しげだった。切りたくないカードを切らされ、自分に対しても苛立っているようだった。
「でも効果的でしょう?」
「その通りだ」
今度は彼がため息をついた。諦めきった表情をしながら、弱々しく言った。
「七月に大規模な爆破テロを起こしてやる。しばらくはそれで勘弁してくれ」
ちまちまとしたガス抜きではいい加減、誤魔化しが利かなくなっていたのも事実だった。政府との対話を計画するのも今の流れでは全く現実的ではなかった。後々になって彼は激しく後悔することになるのだが、このときは、何にしろ一発ここで大きな行動を起こすことが尤もらしいと感じたのだ。
計画は七月中旬に実行された。しかしその内容は、爆破テロから毒ガス兵器による攻撃へと変更になった。大手町駅三番線、午前八時三十四分発の車両が標的に設定された。作戦決行の前夜、彼は、もうどうしようもないと頭では理解していながら、やはり神に祈らずにはいられなかった。ベッドに入って横になっても動悸が収まらず、深夜に何度かトイレにも立って、結局その夜は絶望的な気分に浸りながら一睡もできなかった。自分が下した指令のせいで一体何人の人間が死ぬことになるのだろうと考えると、言いようのない恐怖に襲われた。実行日には暗いうちから起床し、兵営でそのときを待ち構えた。朝日が昇り始めた頃から、彼は分刻みで時計をちらちらと確認するようになった。
「少し、リラックスして下さい」
部下の一人がそう言いながら、兵営の食卓の上に紅茶のカップを置いた。彼は目を瞑り、時間をかけてそれを飲んだ。おかげで数時間ぶりに落ち着いた気分になれた。眠りはしなかったが、彼は目を瞑ったまま、しばらく何も考えずにただ座っていた。瞼の裏の暗闇に集中したせいで周りの音や、自分の心臓の音も一切聞こえなくなった。自分がどこにいるのか、立っているのか座っているのかも分からなくなった。時間の感覚が失われ、まるで一分が一時間に、一時間が一分に感じられるようになった。そこまでの状態になったとき、彼は「はっ」と目を開けた。時計を見ると午後五時を過ぎていた。部屋には彼一人しか居なかった。慌てて外へ出ると、青みがかったオレンジ色の夕日の中、部下たちが喪開けの直後のようなお祭り騒ぎをしていた。部下の一人が駆け寄ってきて、彼に向かって興奮した面持ちで言った。
「大成功です! 少なくとも四十四人は死にましたよ!」
その日の夜、彼は誰にも知られないよう、最も近い部下たちにも何も言わず、数か月ぶりに家族のいる自宅へと密かに帰った。せっかく帰ってきたのに妻とも息子ともまともに顔を合わせず、そのまま暗い自室に閉じこもってしまった。妻は、夫がなぜそこまで落ち込んでいるのかを充分理解しているつもりでいた。固く閉じられた扉に向かって何度も呼び掛け、何とか宥めようとしたが、全ては無駄だった。「あなたのやったことは、一見恐ろしいことのようだけど」と妻は言った。
「ちゃんと、私たちにとっては意義のあることなのよ」
「そんなわけあるか」と夫は言った。
「こんなに大勢を殺すくらいなら、俺が自ら死んだ方がましだ」
当時中学二年生だった息子が、両親の悲愴な雰囲気を感じ取って、不安げな気持ちのままベッドに入り、そしてそのまま眠りにつくような時間帯になっても、二人の攻防は続いていた。夫がどんなに子供じみたことを言っても、妻はそれをやんわりと受け取りながら、でも自分はこう考えている、とはっきりとそれらしい意見を言った。その言い分がいかにも筋の通っているように感じて、彼はいっそう孤独を感じた。誰かを恋しいと思ったが、あまりにも遠く、あやふやな記憶すぎて、それが誰なのかも思い出せなかった。「お前と一緒にならなければ――」と彼は思わず口に出していた。
「お前と一緒にならなければ、もっと違う人生を送れたのだろうな」
そんな言葉をいちいち後ろ向きに捉えて、怒ったり、ショックを受けたりするような相手ではないはずだった。実際そのときの妻は、「それはそうでしょうね」と淡々と答えただけだった。結局、動機は誰にも明らかに出来なかったが、その二週間後にキタハルは自ら命を絶った。
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