「さかあがり」 はっち
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私はさかあがりができない。
小学校の体育の授業で、さかあがりをやらされた記憶がある。全員ができるようになるまで、終わらない。できる子はヒョイっと一回でできてしまう。できない子も、補助板があったらできてコツを掴み、その次は一人でできるようになる。けれど、私はついに一度もできなかった。
補助板があってもできない。先生が横で体を支えて足を強引に回転させ、さがあがりの真似事みたいなことはできるが、全くコツはつかめず、その次に一人でやると全くできない。できる気がしなかった。けれど、「全員ができるようにならなければならない」という謎ルールがあるため、できない子だけが鉄棒に残され、できた子は体育すわりをして待っている。地面に絵を描いて遊んでいる子もいれば、隣のことおしゃべりを楽しんでいる子もいる。だからプレッシャーみたいなものはあまり感じないが、できる気がしないので「終わらないじゃん。どうするんだろう」と半ば人ごとのように思っていた。
すると先生は、補助をつけてくるりと回れたことを「さかあがりができた」ことにし、「みんな逆上がりができるようになりましたね。では授業を終わります」と言った。私は少しズルをしたような後ろめたい気持ちになったが、この無意味な時間が終わることの方を優先し、何も言わずじっとしていた。
その後、なんとなくモヤモヤした気持ちを抱えていたので、放課後や休みの日に一人でできるように何度か練習してみたが、全くできる気配がしない。そのうち、諦めた。
今も、自分や周りの子や先生や、あるいは日本の教育のあり方について、一体何が正しいのかと疑問に思う。「さかあがりができた」ことにして次の授業へ進めなければいけない先生の立場もものすごくよくわかるし、「さかあがりができるようにする」という日本の教育の指導もまぁなんとなくわかる。私の今のスタンスも「できないことがあってもいいけど、できることが多い方がいい」というのが基本だからだ。でもできないことに口をつぐんだ私がダメなことをしたとも思わない。多分今でもそうする。たとえ自分ができた側の子だったとしても、できない子を助けたりせず、おしゃべりしているだろう。できない子にとって、注目されることほど嫌なことはないからだ。
今なら「さかあがりができなくったって、死ぬわけじゃないんだし、別にいいじゃん」と思える。そう思えるようになってよかった。