124. 5年間、必死で働く意志と体力さえあったら、年齢に関係なく必ず成功できる〜安藤百福〜

みなさんこんにちは。


今回は、即席麺で有名な日清食品を創業した安藤百福さんの格言について紹介します。


安藤百福とは

1910年に日本統治の台湾(現:嘉義県朴子市)に生まれました。

大きな福耳を持って生まれたことから百福と名付けられたそうです。


幼少期に両親は他界し、呉服店を経営する祖父母に育てられました。

祖父の元で家業を手伝いながら商売を学びました。

高等小学校卒業後は、図書館の司書として働き、職場は良かったのですが、
人と働く商売が身に付いていたため2年で辞めました。


1932年に22歳で、「誰もやっていない新しいことをやりたい」と、台湾で繊維会社の「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を創業しました。

日本内地から製品を仕入れ、台湾で販売し、事業は大成功となりました。

時代の流れをいち早く見極め、すぐに事業を立ち上げ、失敗しても諦めず、どんな事業も「何か人の役に立つことはないか」「世の中を明るくする仕事はないか」という信念のもとに行っていました。


1933年には日本の大阪に進出し、「日東商会」を設立、会社経営を全力でしつつ、その傍らで立命館大学に通い、寝る間を惜しんで専門経済学科を卒業しました。


主力商品のメリヤスが、太平洋戦争で輸出禁止措置が取られることになり、事業が上手く回らなくなりました。

これが初の挫折だったと言います。


戦争が激化する中、炭のニーズが高まるだろうと予測し、「炭焼き」の事業を始めます。

山を丸ごと購入し、関西での成功者として有名になりました。

その他にも軍事産業にも結びつけ、発動機や幻灯機、被災した人向けの簡易住宅の開発・販売をしました。


事業に統一性はありませんでしたが、
共通しているのは「強烈なニーズ」でした。

ニーズがあるかは調べず、とことん挑戦し、スピーディに動き回り、
苦境に立たされている人を集めてはビジネスで幸福にすることで、
周りの人がワクワクし、それが百福さんの魅力でもありました。


1946年、終戦後は土地が安く手放されていたため、心斎橋や御堂筋、大阪駅前など多くの土地を手に入れました。

戦後の食糧難の中で、「やっぱり食が大事。食がなければ、衣も住も、芸術も文化もあったものではない」と、食の大切さを学びました。

大阪駅前で1杯のラーメンを食べるために並ぶ行列を見た時、日本人が麺類付きであることを実感し、
日本政府がアメリカの余剰小麦をパンやビスケットに使っていたのを見て、
「同じ小麦を使うなら、なぜ日本人の好む麺類を推奨しないのか?」と疑問を抱きました。


1957年、理事長を務めていた信用組合が破綻し、全ての財産を失いましたが、
「失ったのは財産だけ。その分、経験が血や肉となって身に付いた」
と考えて、日本人がラーメン屋に並んでいたのを思い出して、
「お湯があれば家庭ですぐ食べられるラーメン」
を作ろうと決意しました。

「お湯があれば家庭ですぐ食べられるラーメン」の研究は、
1日平均4時間睡眠で丸1年続けられ、たった1人で行ったそうです。


開発には5つの目標があり、
・美味しくて飽きの来ない味
・家庭の台所に常備されるような保存性の高いもの
・調理に手間がかからない簡便な食品
・値段が安い
・安全で衛生的

この目標に対して、さまざまな挑戦があり、
1958年に世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」が発売されました。

当時の常識では考えられず「魔法のラーメン」と呼ばれました。

当初は1食35円で、うどん一玉が6円だったので問屋が仕入れを渋りましたが、
食べた人々によって美味しくて便利という声が広まり、
注文が殺到しました。

時期的にも共働きや核家族が増え、主婦にも大人気になりました。

スーパーマーケットもチキンラーメンができる1年前にできたこともあり、
欧米型流通システムで加工食品を大量販売するルートが出来上がりました。


テレビなどのメディアも力が未知数の中、スポンサーになりコマーシャルを打って出たことで、
「チキンラーメン」は急速に広く知られるようになりました。


5年間、必死で働く意志と体力さえあったら、年齢に関係なく必ず成功できる

チキンラーメンを開発するときもそうですが、
1年間寝る間も惜しんで開発に没頭し、どうやったら人々に受け入れられるかを研究し続けました。

そして、それが安全で安価になることで、人々のためにもなる。

その時のニーズをキャチするのもうまかったのだと思いますが、
そこからのスピードを持って行動に移している所と、
粘り強く何度も研究を続けていることが今のチキンラーメンが広く愛されている糧になっていると思います。

相手にどんなニーズがあるのか、
そのためにできることを全力でやるからこそみんながついていきたくなるような人になるんだろうなと思います。

世間が苦境に立たされている中でも、
その苦境をチャンスに変えて周りのひとをワクワクさせるような事業をすることも、
百福さんが受け入れられてきた魅力の一つなんだろうなと思いました。


最後に

今回は、即席麺で有名な日清食品を創業した安藤百福さんの格言について紹介してきました。

チキンラーメンの開発の裏側や、かかった努力をみると、
その人の魅力が伝わってくる気がします。

そのような形に残るものを残していきたいなと思うと共に、
周りを幸せにするようなものを自分も作り上げていきたいなと思います。


それではまたどこかで。

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