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「言葉」が虐待問題の解決を妨げる

今回は、「言葉」というものが、虐待問題の解決を妨げている側面があることについて論じたいと思います。

たとえば、「子ども」と「大人」という言葉も、虐待や貧困の社会問題の解決の妨げになっている一因だと私は思います。虐待といえば、被害者は「子どもだけ」という認識をされたりすることで、元・被害者が「大人」になれば、自己責任論で虐待の被害者とみなされず、虐待の後遺症を患って困っていも、大人は支援になかなかたどり着けないことがあります。同じ被害者であるのに、「子ども」と「大人」という言葉(カテゴリー)で支援を妨げられてしまうのです。

貧困問題も、「子どもの貧困」という言葉は世間ウケが良くて「子ども食堂」や「子どもの学習支援」などが一気に流行りましたけど、貧困問題の本質は大人が貧困に陥っているために、子どもにその貧困のしわ寄せがいくという「大人の貧困」の解決の方が重要なわけす。貧困に陥っている「大人」の支援をしなければ、子どもの貧困も、大人の貧困もなくならず、貧困問題は永遠になくなりません。 

「子ども」と「大人」というのは、言葉のカテゴリーにすぎません。子どもたちもいずれは大人になるし、大人たちも子ども時代がありました。つまり、「子ども」と「大人」は切れ目のない連続したものなのに、言葉で分断が生じ、支援や対策の障害になっていると思うのです。 

その他にも、「児童養護施設」や「社会的養護」なども言葉によって、虐待サバイバーの理解と支援の妨げを引き起こしていると私は思います。同じくひどい虐待を受けても、施設にも保護されなかった未発見サバイバー(潜在的児童虐待被害者)も沢山いるのに、言葉の属性で支援対象者が限定されてしまっています同じく支援が必要な当事者なのに分断を引き起こしている要因の1つに、この言葉があります。 社会問題が解決しない要因の1つに、「言葉による分断」があると私はずっと思ってきました。言葉がないと、私たちは物事を認識できないわけですが、この言葉が虐待問題の解決を妨げる1要因になっていないか?を常に意識して活動していきたいと思います。

以下に、養老孟司先生が解りやすく解説してくれている文を見つけましたので引用します。

「言葉」がもっている特徴の一つは、自然を切り分けるということです。私は解剖学の研究をしてきましたが、解剖学では人間をバラバラに切り、それに胃とか腸とか名前をつけます。 腸には大腸、小腸、直腸などがありますが、実際には切れ目のない一本の管です。 
どうしてそれを切り分けるのかというと、まさに名前をつけるからなのです。私たちは言葉の世界に生きているので、このように名前をつけると、物がきれいに切れて、独立して見える。目の前にある自然の消化器官は連続しているのに、大腸とか小腸とかの名前をもった部位が、はっきりとした区分をもって見えるようになるのです。地図上の国境だって地面に実際に線が描いてあるわけではありません。あれと同じようなものです。

たとえば「男と女」という分け方があります。男と女というのは本来は自然な区分です。つまり両者はもともと違うわけですが、なぜか現代では「男と女は違う」と言うと問題視されます。アメリカでは「男女の脳がどう違うか」というような研究をしようとすると、「このようなテーマを取り上げるのは、何か政治的な意味があるのではないか」と疑われます。そんなところも、男と女という自然と、脳が作り上げた社会の食い違いが見えてきます。 
男とか女とかいう言葉を使うと、ものごとが切れて見えます。しかし、男と女だって完全に切れているわけではありません。それを切れてしまうように思うのは、私たちが「言葉」を使うためなのです。
言葉なしに物事を理解するのは不可能ですが、言葉にはこうした落とし穴があることを知っておく必要があります。

【引用文献】養老孟子(2004)「かけがえのないもの」p64~「言葉が自然を切り分ける」から引用

※虐待の後遺症の典型的な症例ついては、以下の書籍に詳しく描いています。また、虐待が起きる社会的背景についても、当事者目線から提言をいくつか書いています。精神科医の和田秀樹先生の監修・対談付き。


虐待の被害当事者として、社会に虐待問題がなぜ起きるのか?また、大人になって虐待の後遺症(複雑性PTSD、解離性同一性障害、愛着障害など多数の精神障害)に苦しむ当事者が多い実態を世の中に啓発していきます!活動資金として、サポートして頂ければありがたいです!!