今日の読書。
『暇と退屈の倫理学』 - 國分功一郎
読後感としては、読んでる時は退屈とも思っていたけど、読み終えた今はとても満足している…。
どうしてこの本を手に取ったのか?
僕は忙しいのが苦手です。
だから、なるべく暇を過ごしたいと思っています。
暇を過ごすことにこそ価値があるとだれか持ち上げてくれればいいのにとか思っていた時に出会ったのがこの本。
読んでみた結果、しっかり讃えてくれた気もするし、そんなわけないと戒められた気もします。
ただ、屋久島に移住して、読書にふける余裕があり、贅沢に暇を楽しんでいる今の暮らしは豊かなんだなと感じさせてくれたように思います。
やっぱり僕は思う。
なにもしない時間を大切にできるのがいい。
そして、退屈の気晴らしにはきっと仙人修行をしてるのがいちばんいい。
暇と退屈とは果たして何と向き合うことなのか?
暇と退屈
退屈という不幸
わざわざ不幸に向かって走り出すことなんてないのだから、なにもしない時間を大切にしたいものだと思う。
終わりのない消費
消費に走る快感に終わりはないのだ。その先に到達し満たされる地点がない。なんと恐れ多い社会なのだろう。
決断せよ
退屈は見方を変えれば自由なのだ。そこには選択できる自由がある。
環世界
僕たちは視野を持つことができる。あらゆるもののために、あらゆる視点を持つことができる。
そのために、自己の世界で留まっていることに耐えられない。退屈してしまうのだ。
『暇と退屈の倫理学』の結論
〈人間であること〉
〈動物になること〉
自己を見つめ、自己の道を歩み、その自己の世界に浸る、それが人間というものであり、生きるということなのだ、と僕なりに捉えることにしようと思う。
そうしている内は退屈している暇なんてないのかもしれない。
どうすれば皆が暇になれるか?
「自由の王国」
誰もが暇のある生活を享受する世界、そこには自由がある。それは贅沢のなかから始まる。暮らしが満たされ自由を謳歌できる理想の世界がある。
なぜ人は退屈するのか?
なにもしない時間を過ごすということは、つまり自己に向き合うことになる。どうしても心に負っている傷が浮き上がってくるのかもしれない。痛みがあったことを思い出させることになるのかもしれない。
それなら、なにもしない時間を過ごすことは、心の傷と向き合い、痛みを取り去ることと表裏一体なのだろう。
自然人
ただ自然であること。自己の世界に浸る人は縛られない。なにもすることがなくなっても退屈することもない。思い悩むこともない。
人間は、その本性ではなく、その運命に基づいて、他者を求める
人間は生きていく中で傷を負い続ける、そして思い悩み続ける。その傷は誰かを頼りにすることでこそ意味のあるものになり消化されるのかもしれない。ここに優しさを生む源泉があるように感じた。
(出典:『暇と退屈の倫理学』)