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SIGNAL

〜はじめに〜

『視座が合っていない』

 人と話しているとこういうことはよく起こります。今話題の石丸伸二さんが『そこまで言って委員会』に出たときも、共演者と視座が合っていなくて話がかみ合わないことが起こっていましたね。竹田恒泰さんや泉房穂さんは、
「質問に答えてない」
「はぐらかされた」
と言っていましたけど、ちゃんと答えてあの答えでしょうね。

 石丸さんはそれまでずっと視座の高い = 抽象的なことばかりやってきたのかもしれません。こういう人は「具体的にはなんですか?」と聞かれても、抽象の領域で考える癖があったり、その考え方を譲らないことがあるので、話がかみ合わないのです。

 石丸さんは都知事選後の特番での印象が強いですけど、『そこまで言って委員会』での印象からすると、そのイメージではないことは分かりましたけどね。YouTubeの動画も1つ見たのですが、4年後の都知事選も出るようなことも言っていました。でも、だったらなおさら今回の竹田さんや泉さんの”指摘”は聞いた方がいいと思いますよ。政策を、

 具体的に、どんな”人たち”と、どんな”方法”で、どんな”順序”で、進めていくか?

 竹田さんや泉さんはこれを聞いていたのだと思います。石丸さんは多分、これらをやったことがないのでしょう。だから答えられず、抽象 = 視座の高い答えばかりになってしまったのです。本来、こういう”ズレ”はMCが調整したりするんですけど、MCが石丸さんを怖がっていましたからね。でも、そんなに怖い人ではないと思いますよ。

 日本人は総じて、理想ばかり喋っている人より具体的に行動している人の方を好む傾向がありますから、市議会でもそういう反発があったんじゃないですか。
「喋ってないで、手を動かせ」
ってことです。

(『職人気質』やな)

 次の都知事選までの4年間ではあんまり為せることはないかもしれませんが、具体的に進める経験をするってことが大事なのです。

 番組を見ていてちょっとおもしろいなと感じたことは、

となっていて、2つの”違う”視点から、1つの”同じ”指摘があったことです。
 職業も年齢も違う赤の他人から、同じ指摘があったのですよ。竹田さんと泉さんを、石丸さんから見ると、
 竹田さん… 先輩世代
 泉さん… 父親世代
と、なります。年齢的にこの世代に近いでしょう。
「具体的に!」と、1つの視点から言われただけなら気にしなくてもいいかもしれませんが、2つの違う職業の違う世代の赤の他人から言われたのであれば、それは『真』の可能性が高いのではないでしょうか。

2つの”違う”視点から、1つの”同じ”指摘

 では、世界に散らばっている”SIGNAL”を探していきましょう。





【tautology】
ある事柄を述べるのに、同義語または類語、または同語を反復させる修辞技法。
『同語反復』と訳される。

Chick Corea - Humpty Dumpty

「お前なぁんか勘違いしとりゃせんか? お前のためにチームがあるんじゃねぇ。チームの為にお前がいるんだ!」

『スラムダンク』 安西先生(白髪鬼ver.)

WATCH MAKER

 前回の記事で集合論・論理学の図を出しました。

 これを使ってもうちょっと遊んでみようと思います。前回も述べたように命題・逆・裏・対偶の関係は、
 *命題が”真”であっても、逆・裏は”真”とは限らない
 *命題が”真”であれば、対偶は”真”である(ダブル・エクリプス 神と鬼)
でした。前回は言いませんでしたが、逆と裏の真偽は一致します。対角線の位置にいるもの同士は必ず一致するのです。

 今は夏ですので、昆虫のヤゴとトンボを使っていきましょう。ヤゴとトンボは知っての通り、幼虫と成虫ですから『1対1対応』になります。

 命題も逆も”真”ですね。「逆もまた真なり」です。裏と対偶もやってみると、

と、なります。
 今回はすべて”真”になりました。ところが、これにある作用を加えると、事は大きく動き出します。大文字で表している『ある』の言葉を『なる』に変えてみましょう。すると、

となって、なんと逆は偽になるのです。
 ヤゴからトンボには”なる”のですが、トンボからヤゴに”なる”ことはありえません。ここでへそ曲がりな人は、
「トンボが子どもを産めばそれはヤゴになる」
と言ってきそうですが、最初に言った通りこれは『1対1対応』ですから、当然”同じ個体”の話です。子どもだと”別の個体”ですので、そのツッコミは華麗にスルーすることにして、続けていくともっとおもしろいことが判ってきます。裏と対偶をやってみると、

 なんと!! 対偶が肯定も否定もできないのです!!!
 トンボでないなら、ヤゴにはならない。← ”種”についてだから⭕️
 トンボであっても、ヤゴにはならない。← ”時間”についてだから❌
と、考えることができるので、この言い方では肯定も否定もできないのです。

『ある』を『なる』に変えただけで、ここまで法則が崩れるのです。

『ある』のときには、
 逆と裏の真偽は一致し、命題と対偶の真偽は一致する。
『なる』のときには、
 逆と裏の真偽は一致せず、対偶は肯定も否定もできなくなる

 こんなにも法則が変わってしまう原因は何なのか? それが『時間』なのです。
『ある』のときは止まった時間のこと、これを”条件関係”と言います。
『なる』のときは流れる時間のこと、これを”因果関係”と言います。

 条件関係のときは、条件が合えばいいだけですから、ヤゴとトンボに時間的な制約は課されません。1対1で結べるならそれでいいのです。
 しかし、因果関係のときは、時間的な制約が発生しますから、逆が偽になったりするのです。両者の表現を変えてみると、
 条件関係… 止まった時間… 秩序
 因果関係… 流れる時間… 混沌
と言えます。
 社会の上層や中枢は紙の上ばかり見ることによって、思考が『条件関係』においての”秩序ある世界”が当たり前なのに対し、
 現場や下層は常に現実を見るので、思考が『因果関係』においての”混沌とした世界”が当たり前になります。

『当たり前』と考えていることが、紙の上なのか現実なのか、止まった時間なのか流れる時間なのか、秩序なのか混沌なのか… この違いが認識のズレを生み出しているのですよ。紙の上の”秩序”に慣れている人からすれば、現実は到底許容できない”混沌”にしか見えないでしょうね。止まった時間と流れる時間では、ここまで法則が変わることを知らないからです。

 それと因果関係を、条件関係だと捉えてしまうと、それは”相関関係”のようにも見えてしまうのかもしれません。『捉えてしまう』とは、無意識に切り替えてしまうってことです。人間にはどうしても”無意識”がありますから、そのような誤認もありえるでしょう。
 たとえば最初の、条件関係 = 止まった時間の、

 これを見たとき、頭の中で何かが”流れる”ような感覚がありませんでしたか? 命題を読んだ後に、逆を読むときに頭の中で何かがス〜っと流れるような感覚になった人はいませんかね? もしあったのなら、それが”時間の流れ”であり、この場合は”逆行”なのです。無意識に逆行の操作をしたのですよ。だから「逆もまた真なり」を認めたのです。

 紙の上とは、止まった時間であり、視覚の情報
 現実とは、流れる時間であり、聴覚の情報

 まとめると、

と、なります。
 見ての通り、まったく違う法則に従っていることが判りますよね。ここで気になることは、ヤゴとトンボ以外の”因果関係”ではどうかとか、”相関関係”のことも考えたいのですが、やはり一番気になるのは『一般化できるか?』ってところです。一般化とは、構造を取り出せるか? という意味です。
 今回は止まった時間の場合には『すべて⭕️』になりましたけど、『⭕️と❌』の場合もありますし、肯定も否定もできなくなるのは”鬼の領域”だけなのか? 魔や狐が”肯定も否定もできなくなる”ことはないのか? とかですね。

(”理系”の出番やで
『ヤゴとトンボ以外の因果』と『相関関係』→具体の領域
『一般化できるか?』→抽象の領域
ってことや)

 前回の『ダブル・エクリプス(神と鬼)』は、止まった時間の話 = 法則 であり、流れる時間では法則が変わってしまうのです。2つの法則を合わせたときに必ず生じる”矛盾”、これを端的に言い表したのが『ゼノンの逆理』、

 飛んでいる矢は止まっている

ってやつです。
 この言葉は、視覚と聴覚での認識のズレ、止まった時間と流れる時間の認識のズレ を表している言葉なのです。
 他にも”ズレ”を表しているのは、有名なヘラクレイトスの言葉『Panta Rhei パンタレイ』ですね。これは”万物は流転する”という意味ですが、そう言いながらこの言葉そのものは変わっていない

 変わっている(= 万物)のに、変わっていない(= 言葉)

(『違う昆虫なのに、同じ昆虫』
やで🎵)

 紙の上に表す = 文字や記号や数字で表す ← この行為”そのもの”が時間を止めている

ってことなのですよ。
 あらゆることを言語化し、時間を止めることによって、世界は秩序ある世界になったのかもしれません。それを否定はしませんが、反対の面では、成長のない世界、変化のない世界になったとも言えると考えています。どんな物事も”一長一短”なのです。だからその半面同士、2つの両面を合わせる必要があるのに、その2つがどんどん分断されていっているように見えるのです。これでは”未来を作る”など、夢のまた夢でしょう。分断されているのですから。

 止まった時間と流れる時間は、常に2つで1つです。切り離すことなどできません。それぞれをもっと詳しく知るために『分離・分割』はできますが、『分断』はできないのです。では、止まった時間と流れる時間を”合わせる”ことを『WATCH MAKER(時の番人)』と名付けましょう。

(お! こっち側で名付けるのは珍しいな!!
ジェフリー・ディーヴァーやな ニヤッ😏)

 たまにはいいでしょう🎵 本来の翻訳は”時計職人”ですが、このように日本語訳してみました。
 
 現代はあらゆることを”完璧”にしようとしますが、視覚と聴覚のどちらか一方しか使わないのであれば、”その中”では完璧かもしれません。しかし、それは全体から見ると”半分”しか使っていないので、真の完璧ではありません。
 反対に、真の完璧を求めるなら、視覚と聴覚をつなげたときに生じる”矛盾”を許容する必要があります。しかし、矛盾があるならそれは真の完璧とは言えないでしょう。

 前者は『排他』で、後者は『内包』です。矛盾への対応はこのどちらかしかありません。あなただったら、どちらの対応を選びますか? それによって”人の上に立てるかどうか”が決まります。

 ゼノンの逆理… なんか『ゲーデルの不完全性定理』も連想しますね。

 止まった時間と流れる時間、知と行、それぞれを扱う人たちの、2つの違う視点から1つの同じ指摘があったなら、それは真の可能性が高いと考えます。



論理と倫理

『ロジカルシンキング(論理的思考)』ってあるじゃないですか。物事を論理立てて、因果をはっきりさせながら組み立てていく思考法です。しかし、実はこの思考法は”止まった時間”でやることなのですよ。だから、因果関係ではなく条件関係での考え方なのです。
 そして条件関係においては”逆は真”になったのに、因果関係では”逆は偽”になりました。ロジカルシンキングそのものを否定するつもりはありませんが、どんなものも一長一短、諸刃の剣であることを忘れてはいけません。

 データを扱うときに『結論を先に決めてはならない』とのルールがあります。しかし、統計学などでは結論を先に決めてから、それに合うデータを”後付け”することもあるようです。これは『逆行する思考法』と言えます。そして、『資本主義』はまさに逆行する思考法を使っています。先に未来を決めて = 結論を決めて そこから”逆算”してあらゆることを決めていく… これは”時間の逆行”と見ることもできます。『予定』とは、未だ来ていないもの(未来)を現在まで手繰り寄せるのですから、”時間の逆行”になっています。

 逆が真になるのは条件関係 = 止まった時間ですので、ロジカルシンキングだけに頼ることは、物事の半分しか見ないことと同じです。時間に逆行する思考だけになってしまい、時間に”順行する思考”が無くなってしまうのですよ。では、”順行する思考法”はどうやって鍛えていけばいいのか? それが、

 流れる時間の中に身を置く = 実践(行動) なのです。

 止まった時間の中では視覚しか使いませんが、流れる時間の中では必然的に聴覚や触覚など、五感すべてを使うことになります。これによって養われるものが、『倫理』と呼ばれるものです。倫理とは”行動”によって培われていくものなのですよ。

 現代で倫理観が失われているのは、行動をしない人が増えたから必然なのです。
 ちょっと前の出来事で、海外の戦争のときに『自衛隊の海外派遣』をしたら、負傷した兵士がいて「それを助けるかどうかで迷った」ことがありました。助けると軍事行動に参加したことになるんじゃないか…? との考えが頭を過ぎったのでしょうね。これはまさに論理的思考に寄りすぎたからなのです。論理ではなく、倫理で考えれば助けるに決まっているでしょう。でもそれができなかったのです。負傷した兵士を助けることは、
 止. 論理的にはNG
 流. 倫理的にはOK
ってことです。

(2つの法則は必ず”矛盾”する)

『ゼノンの逆理』はいろんなところにありますから探してみてください。
『逆行する思考法』を、視点を変えて見てみると心理学での『鏡像段階』になり、未だ視点の相転移が起こっていない『弟子の視点』にもなります。

 『逆行』

 これについては後半で述べることにして、論理と倫理を考えていきましょう。

(逆行は”教育”にも関係するけど
後半まで待ってちょ🎵)

 論理に強いことは”IQが高い”ことで、現代社会はIQが高い人を社会の”上層”に行かせる構造になっているじゃないですか。でもそれは、倫理より論理の方が”上位”である との考え方に立脚して作られているのですよ。つまり、流れる時間より止まった時間の方が”上位”である と言い換えれますよね。

(”身体”より”頭”の方が上位)

 しかし本来は、流れる時間と止まった時間は”対等”なのです。そこに上下という概念はありません。当たり前と言えば当たり前で、聴覚からの情報と視覚からの情報に優劣などないからです。人間にとってはどちらも必要です。
 論理… LOGIC = IQ
 倫理… ETHIC = EQ
として、時・流・止を、真言・阿・吽に変えて表記すると、

と、なります。
 真ん中のウサギは8月2日が”バニーの日”だとネットで見たので、使いました。『鳥』にしようとも思ったんですけど、それだと両方が”翼”になってしまって、翼になるとすぐ”イデオロギー”の話になるじゃないですか、右翼とか左翼とか。他に『二股の木』も考えたんですけど、今回はウサギを使いました。でも、ウサギには”大きな耳”があり、人の話をよく聞くためには必要なものですからね。
 ”真言”は仏教にある言葉で、サンスクリット語の”マントラ”の訳語です。意味は『仏の真実の言葉』です。阿吽は真言の1つです。

 ところで、ちょっと話は逸れますが、会社など”組織”と言われるものは大抵、

 このような形になっていることがほとんどだと思います。この形を指して”ピラミッド型”と言っていますけど、これはピラミッドではなくだたの棒ですよね。それぞれの層の”人の数”を見たときにピラミッドなだけであって、本質的にはただの棒です。
 棒はすぐ”倒れ”ますし、まして”飛ぶ”なんてことはできるわけもありません。だってただの棒なんだから。
 この組織を倒れないようにしたり、空高く飛べるようにするにはどうすればいいのかを考えてみたら、

 この形になりました。

(『翼』の文字はほんまは使いたいけどな〜
「未来に羽ばたく」
ためには必要やからな)

 これだと知と行は”対等”になりますよね。
 知と行の2つを対等に扱えるから”社長”なのですよ。どちらか一方に寄ってはいけないのです。だから、社長はいつでも”辛い”のです。矛盾したものを”内包”するのですから、そりゃ辛いに決まっているのです。

(よくやるよな〜)

 矛盾を消すことはできませんが、「なぜ、矛盾するのか?」を意識できることで、少しは辛さが和らぐかもしれません。
 そして、だからこそ言いたいのですが、社長の”耳”の一方が塞がれているように見えることがあります。組織がただの棒の状態では、行の声が”遮断”されることがあるからです。
 図で表すなら、

って感じですかね。
 これだと、どんな敏腕な社長でも判断を誤ってしまうことは自明です。片方の耳しか聴こえていないのですから当然ですね。こんな状態で判断の間違いをした社長に責任を問うのは、流石に”酷”と言うものではないでしょうか。

(『現場の声』は遮断したらダメ〜🎵)

 片耳が聞こえないウサギは、あっという間にライオン(捕食者)にやられてしまうでしょう。耳は常に”両方”聞こえていないといけないのです。
 そして、
 
 自分の評価を上げるために、自分より下の者の言葉を封殺する。

 ↑これを『独裁国家』と言います。日本人に分かりやすく言えば”北朝鮮”ですね。もしくは遥か昔、ヨーロッパに存在した『ローマ帝国』です。
 それに比べて”双扇型”の方なら直接社長に上げれますし、なにより知と行が対等なので、問題の解決も相互協力の形でできます。さらに、直接上げられることは報告が速いのですよ。わけのわからない中間をすっ飛ばすことができるので、速さを求めているのなら、なおさら双扇型の方がいいでしょう。
「社長に変なことを言うやつがいたらどうする」
とか言われそうですけど、社長って立場に就く人はいろんな辛酸を舐め、修羅場をくぐり抜けてきた人が多いでしょうから、嘘や誤魔化しは一発で見抜かれるでしょうね。だから、余計なことは考えず素直に思ったことを伝えればいいだけです。そのあとどうするかは社長が決めますよ、心配しなくても。虚勢など張らなくてもいいのです。

(「小細工は無用!!」
幽遊白書 浦飯幽助)

 社長をウサギに喩えるみたいになりますけど、社長ってウサギっぽいですからね。なんとなく。いや、ホントになんとなく。
 さて、話を戻して『芸術』と言われるものを、上記のように分けてみると、音楽なら、

 絵画や映画なら、 

と、なります。
 IGPIグループの冨山会長が、とある記事で「IQだけではなくEQも評価するべきだ」という主旨のことを述べていました。やはり会社なんて大きなものを運営していくにはEQ(ここでは倫理観)も必要なのです。ただ、EQを”測る”となると相当難しいことなのかな〜とも思います。紙の試験にすると、そこでは高得点が取れても実際の行動に反映されていなければなんの意味もありませんからね。精神鑑定を応用したものを使うとか… ですかね〜。評価に『数字』を使ってしまうと、高低で良し悪しが決まるので、数字よりも『色』の方が良いかもです。100点満点中◯◯点! とかにしちゃうと、点数で優劣が決まるので、EQってそういうもんじゃないよな〜とも考えます。

 それとEQとIQの”つながり具合”も気になりますね。こういうのって測れるんですかね? まぁもし測れるとして、”虹”の色を使うと、

 7色のどこの位置にいるのか? で、”つながり具合”が判るといいですね。

 こういう感じです。理想は緑の位置ですけど、実は”普通の人”と言われるような人は、ほとんどがこの位置にいるのかもしれません。現代は知にしろ行にしろ”極端な人”を求める傾向が強いので、その人たちにかすんで見えていないだけで、知と行の”つながり具合”では”普通の人”の方が上かもしれませんよ。
 ただ、IQ = 知に寄りすぎるのはダメですが、EQ = 行に寄りすぎるのもダメです。EQに寄りすぎると情に流されることがあるので、判断を誤ってしまうのですよ。
 64:36 みたいな比率で表すとかもありますね。まぁいろいろ考えてみてください。

 厚労省かどっかが仕事の『適性検査』みたいなサービスをやっていたので、それの応用で作れないかな〜とか考えます。適性検査は『Tag...』とかでしたかね? tag… tagg… なんだっけな… 。

 ちなみに”宇宙連邦法”によると『時間の逆行』は大罪であり、極刑もしくは、地球の時間にしておよそ100万年の凍結の刑に処せられます。

 IQとEQ、止まった時間と流れる時間、視覚と聴覚、知と行 は、2つで1つです。



知性と感性

 EQを測るのはなかなか難しいのですが、実はIQも同じように難しいのです。というのも、現行のIQ診断では何を測っているのか解らないそうです。テストで”その能力”が高いことは判るのですが、その能力が高いとはどういうことなのか? ←これが解らないのです。だから実際には何の能力を測っているのか解らなくなるようですね。

 それとちょっと気になるのは、IQを測るのを見てて「これってサルの能力を測るときにも使われるやつだよな〜」と思うことがあるのです。人間に対してサルの能力を測ってどうする? と思うのです。その能力が高いことはIQが高いことになるのですが、それはつまりサルの能力も高いことになりますよね。
 そして、IQが高い人たちが社会の上層に行く… これってどういうことですかね。
『猿の惑星』という映画がありますけど、そんな映画にしなくても、とっくの昔に社会はサルに支配されているんじゃないですか。

 IQが高いことは、現在のテストでは視覚情報を処理する能力が高いことを証明するだけです。視覚 = 後頭葉 ですね。しかし、脳には様々な領域があり、それらの領域をすべて使うから人間なのです。どれか1つでいいなら”機械”ですね。IQが高いとは”高性能な脳”ということ。では、
 A. 1つの領域しか使わない脳
 ∀. すべての領域を使う脳
と、この2つではどちらが高性能でしょうか。

 いろんなことを”専門”的にしている社会では、1つのことに集中することが求められます。専門家なんかはまさにそれをしています。しかし、それは集中ではなく特化と言います。
 集中 = 五感すべてを使う = 脳のすべての領域を使う(∀)
 特化 = 1つの感覚だけを使う = 脳の1つの領域だけを使う(A)
ってことです。

 IQが高い人が社会の上層に行き、その人たちが『予定』を作りますよね。予定とは未来の前借り、さらに言えば、未来の固定です。本来、無限の可能性があるはずの未来を、1つだけに固定することです。だから予定通りに時間を進めることは、時間を止めることと同義なのです。だって、紙の上で止まっている = 書かれている通りのことが起こるだけですからね。止まっているでしょう。予定は、人が手を加えない限り、今日も明日も明後日も変わらない = 止まっているのです。
 IQとは視覚、視覚とは止まっている時間…。

 進んでいるのに、止まっている

『ゼノンの逆理』ですね。
 IQが高い人はついつい「自分の認識がこの世のすべてだ」なんてかわいそうなことを考え… じゃなくて、高尚なことを考えます。数学が得意な人の中には、
「芸術はすべて数学で表せる」
と考える人もいます。しかし、学問を否定するわけではありませんが、これはいささか短慮に過ぎるのではないでしょうか。
 確かに数式で表せますけど、それは、流れる時間を止まった時間に変換しただけなのですよ。芸術はすべて”感性”によって作られます。
 感性 = EQ = 流れる時間
 知性 = IQ = 止まった時間
です。
 感性によって作ったものを、知性で認識できる形に変換した結果、数式になる というだけの話で、それを指して「芸術はすべて数学で表せる」と言われても、背中に戦慄が走るだけなのです。

(ピシャァン!!⚡️ ってなるよな)

 数学で表しているものは”すべて”ではなく、どんなに多く見積もっても”半分”です。
 絵画は止まった時間の芸術ですが、描くときには膨大な時間を要するので、制作の”過程”では、流れる時間の芸術なのですよ。順番は、
 流れる時間 → 止まった時間
になります。
 つまり、感性がにあり、知性はなのです。これは”後付け”とも言えるでしょう。

 こんな簡単な”因果”が理解できないとは、IQが高いその脳はなかなかに高性能ですね。

 天文学者のガリレオは、
「自然は数学の言葉で書かれている」
と言いました。
 この言葉は、自然を 視覚 = 止まった時間 で捉えるなら、数学の言葉になる として捉えるべきなのです。”半分”ですね。物事を視覚だけでしか捉えないことは、物事の半分しか見ないことと同義です。

 半分しか見ていないのに、すべてを解った気になっている。

 この時点で負けは確定していたのです。負け = 滅亡ですよ。
 知性によってすべてを支配したがっているように感じることがあります。しかし、そんなことは不可能です。知性 = 論理 には必ず”矛盾”するものがあり、それを合わせることができないのであれば”内包”するしかありません。
 具体の領域で合わないのであれば、抽象の領域に上げればいいのです。これを哲学用語で『Aufheben アウフヘーベン 止揚(しよう)』と言います。ただ、言うは易し行うは難しで、なかなかできないんですけどね。

 ところで、視覚と聴覚が”一致”したものが『文字』であり、そうでないものは『アイコン』になるそうです。たとえば、
 文字… ⛰ → 象形文字 → 山
 アイコン… 温泉 → ♨️ → ♨️
となって、文字の方は変化が見られるのですが、温泉マークはどこまでいっても温泉マークなのです。山は言語化できるから文字になり、温泉は言語化できないからマーク = アイコン で表すしかないのです。
 言語化できる… 語り得るもの = 知性 = 思考 = 止まった時間 = 視覚
 言語化できない… 語り得ぬもの = 感性 = 感情 = 流れる時間 = 聴覚
と、捉えることができますね。

 すべての戦争は、視覚と聴覚の争いによって起こっている… として、考えてみるのもいいでしょう。




〜Interlude〜

Vital Information - Sacred Treasure

(お前、「否定も肯定もできない」って
言いたかっただけやろ)

カントールの連続体仮説の話を知ってから、
言いたくて言いたくてしょーがなかったんですよね🎵

(まぁあれは言いたいな、確かに
福山雅治さんの『ガリレオ』のセリフに
出てきてもおかしくない)

あ〜多分似合うでしょうね。

(湯川「...これだと、否定も肯定もできない
人間の認知の矛盾を突いた犯行…
実におもしろい」
とかね)

いいですね〜。
ちなみにその犯行ってどんなのですか?

(そこは脚本家に任す キリッ)

一番難しいところを丸投げはやめましょうね。

(あーゆートリックを考える人の頭はどうなっとるんやろね
まったく判らん
そういや、ウォッチメイカーとダブルエクリプスはあるけど
流れる時間の英語はどうするんや?)

それが思いつかなかったんですよ。
なんかありますか?

(ん〜じゃあ、流れる時間は”混沌”やし
進んでいくしかないから
『TRAIN – TRAIN トレイントレイン 神のまにまに』
とかにするか〜)

ブルーハーツですか。
良い曲ですよね〜🎵

(あれぞ青春の曲やで
まぁあの曲を聞いとった小僧どもはみんな
おっさんになっとるけどな)

時間は止めることも、遡ることもできませんから。

(視覚だけの情報で判断して間違えた良い例があればええけどな〜)

ありますあります。
こういうのはさすがですよ、我らが世界に誇る日本政府🎵
厚労省が見事なまでの間違いをやってますね。

(どんなんや?)

数字を見ると、人が亡くなる1ヶ月前から医療費が上がってたので、
「不当な医療だ!」
と判断したんですけど、実際には親族が、
「できることはすべてやってください」
と言ってて、それで医療費が上がってたってやつです。

(それもまさに『論理と倫理』よね
親族からすれば”倫理的”に考えて
やれることはすべてやってほしいと思うもんやし)

徹底的に現場を見ないんですよ。
経産省もジョブ型に移行することを進めてるみたいですけど、
多分、これも数字だけで判断したんでしょうね〜。

(厚労省が数字だけで判断して間違えた矢先に
数字だけで判断すると)

”あえて”の逆打ちなんでしょうかね。
反面教師ってことですか。

(「愛ゆえに」かもしらんな
聖帝サウザーのようにな)

愛ゆえにですか。

(愛ゆえにや)

なんだかんだ言ってて、日本政府は国民を愛しているのでしょう。

(愛しとるね
愛しすぎて逆に苦しめとる)

ちょっとそれはDVっぽいですよ。

(数字しか見ないヤツは
DVの傾向があるってことか)

若干飛躍してますけど、まぁいいでしょう。

(飲食業界もとにかく現場を見んからな
店舗ではギャン泣きしとる女性スタッフ
とかもおるのにな)

”俺が俺が”の人がいるんでしょうね。

(俺の俺の俺の言うとおりにしろ!! お母さ… じゃなくて、従業員どもよ!!!
みたいなね
あーゆーのはもう、映像を株主に見せたったらええんや)

「あなたは出資して、こういう店をやらせたかったんですか?」
と聞いてみたいものです。
でも、すべて揉み消してますからね。

(上にさえバレなきゃ何をやってもいいと考えとるしな
あいつらの”支配欲”は異常やで。疾患レベルや。
支配欲というより、深層心理では”依存心”なのが厄介やな)

お母さんに依存して支配する。
これはまさに”赤ちゃん”なのです。

(チンパンジーがおっぱい吸おうとしてきたら
そりゃ猛烈な拒絶反応が出るわな
電通の自殺した人は
『育児ノイローゼ』やと考えるね)

子どもがお母さんに付きまとう = ストーカーすると、
人によっては育児ノイローゼになりますからね。

(ほとんどのお母さんが耐えられるのは
相手が赤ちゃんで自分の子どもやからや
それが”会社”となると、そりゃ耐えられんやろな)

『仕事の構造』がそのまま『犯罪の構造』と同じってことがありますからね。
大事なことはそれに気づけるかどうかなんですよ。

(気づいたら”抑制”ができるからな
まぁサルに抑制なんてできるわけもないんやけど)

『構造』のことを考えてて、すごくおもしろいのは、
いろんなところに同じ構造があることです。

(仕事の構造は犯罪の構造と同じこともあるけど
『治療の構造』と同じこともあるのや)

発達障害の治療に『優先順位の練習』があります。

(これはまさに飲食店での”洗い場の練習”なんよな
だから洗い場がぐちゃぐちゃの店は
いつまで経っても成長しないのや)

ここでも『2つの違う視点から1つの同じ指摘』なのですよ。

(専門医… 優先順位の練習
職人… 洗い場 = 優先順位の練習
やで
それぞれの道の専門家が同じことを言うとるのや)

だからこれは真である可能性が高いのです。
事態を正しく把握するには、2つの視点が必要なのですよ。

(『雷』やって2つ要るしな)

雷の”光”と”轟音”は、どちらか一方だけだと、
雷じゃない可能性もありますからね。

(光と音が両方揃って雷やと判断できるのや
光 = 視覚
音 = 聴覚
やで)

光だけだとUFOかもしれないですし、
音だけだと噴火とかもありますからね。

抽象の領域の表記は気にしないでください。
なんか遊べるかな〜と思ったんですけど、
そのままになりました。

(そういうこともある)

情報は必ず2つの器官から受け取るべきですよ。

(1つの視点だけってのが、数字だけで判断する
ってことやから、かなり危険なのや)

厚労省の二の舞いになるのです。

(数字だけで判断した現実は、現実やなくてただの幻覚なのや
シラフの状態で幻覚を見るとか、ヤク中が幻覚を見とる方がまだ救いがあるわな
クスリをやめさせればええんやから)

幻覚は”妄想”とも言えますけど、
石丸さんはまだ妄想の域を出ていないのです。

(そこが惜しいとこよね
現都知事の小池さんは実務が全然できんみたいやき
石丸さんが具体的な実務をやれば
小池さんと”差別化”できる)

言ってることに中身がなかったみたいですけど、
あの得票数はすごいですからね。
東京は、あーいう”理想”を語る人を欲しがっているのでしょう。

(東京は”夢の街”やからな)

そういやデジタル庁が各省庁の空調だかを見直しましたね。

(あれやとまだ目線が”内向き”や
目線を”外向き”にせんとあかん
んで、外向きになったところからがやっと”スタート”やで)

”芽が出た”くらいですかね。
それを、

ここまで育てられるかってことです。

(あとは太郎ちゃん次第、そして職員次第や
ま、方向性は決まったやろし、頑張りや)

政府や本社は「助けられる」能力が必要です。

(助けられる には、2つの捉え方がある)

それは、
 人を、助けることができる = 師匠の視点
 人に、助けてもらえる = 弟子の視点
の2つです。

(自分はどっちの視点から見とるのか
それをいつも意識しとけ、小僧ども)

それでは後半へ〜🎵

(はいよ〜🎶)




【妄想】
その文化において、共有されない誤った”確信”のこと。
内容が非現実的であり、訂正が困難である。

Marcus Miller and Omar Hakim - Jean Pierre

「金や評判・名誉のことばかりに汲々としていて、恥ずかしくないのか。知と真実のことには、そして魂をできるだけすぐれたものにすることには無関心で、心を向けようとしないのか?」                   〜ソクラテス〜

『ソクラテスの弁明』 プラトン

*汲々とする… 小さな事に心をとらわれて、あくせくするさま

 ”石工(職人)”のソクラテスにとって『知と真実』とは実践から得られる経験のことであり、当時の知識人たちが話していた空想や妄想のことではない

逆行

 前回の記事で、
「物事を”逆行”して教えると、成長が遅れる、もしくは会得できない
って話をした。んで、この『逆行』ってものに関して考えてみると、いろんなところに『逆行』があることが判ってきた。前から言うとるように、
 ・科学での”逆転の発想”
 ・心理学での”鏡像段階”
 ・師弟での”視点の相転移”… etc
と、前半の『資本主義』もそうよね。物事を”逆算”で決めていくんやから、思考が逆行しとる。

 資本主義ってものは16世紀のヨーロッパから始まったのや。ここで気になることは、資本主義が広まってから戦争が増えたかどうか? なのや。資本主義は未来を手繰り寄せて、現在に詰め込むみたいなことをするやん。”未来の前借り”やな。そのおかげで現在は裕福になるけど、そのせいで未来が消えてしまうのや。未来が消えるなら、他から奪ってくるしかなくなる。それで戦争が起きる… と考えた。

『ひとはなぜ戦争をするのか?』
 アインシュタインでさえ解けなかった問題…

 解けぬなら 解いてみせよう ホトトギスーーー!!! ってな🎵 (豊臣秀吉(サル))

 世界の戦争が爆発的に増えたのは”産業革命”からやろうけど、産業革命で作られた”技術”が広まると同時に”資本主義”も広まったんやろ。だからそれで戦争が増えたんやないかな〜とね。資本主義と戦争には相関関係があるのか? あるとしたらそれは因果関係と言えるものなのか? こういうのを調べるのは『統計学』やっけ? 戦争の原因となっとるものは、資本主義で使われる『逆行する思考法』にあると考えとる。

 資本主義ができる前と後では、戦争の数は増えていると言えるのか? が気になるのや。

 技術の発展とは、科学の発展、すなわち”逆転の発想” = 『逆行する思考法』
 資本主義の発展とは、未来の前借り、すなわち”逆算” = 『逆行する思考法』

 両方とも『逆行する思考法』なのや。
 他にも数学の『微積分』の歴史を考えると、積分は紀元前にできて、微分は12世紀のインドでできた。ってことは人類の歴史の流れでは、
 積分 → 微分
順番でできたことになる。それが”自然”なんやろな。けど、学校ではこれを”逆”にして教えとるやろ。
 微分 → 積分
順番で教えとる。

「物事を”逆行”して教えると、成長が遅れる、もしくは会得できない

 実際、微積分が判らない子は多いし、学校で習ってそのときはできても、それは覚えただけで、そのあとすぐに忘れるやん。

 それと『英語』もそうよね。
 子どもが日本語を覚えるときには、
 しゃべる → 読み書き
順番で会得していくよな。幼児は読み書きができるからしゃべり始めるからな。
 しゃべる = 発話 = 流れる時間
 読み書き = 文字 = 止まった時間
になるから、日本語を会得するときには、
 しゃべる → 読み書き  流れる時間 → 止まった時間
順番でやっとるのや。それが”自然”なんやろな。
 でも『英語』になると”逆”にして教えとるやろ。英語は、
 読み書き → しゃべる
順番で教えとるやん。

「物事を”逆行”して教えると、成長が遅れる、もしくは会得できない

 んで、実際に英語をしゃべれるようになる人はあんまりおらんのや。まとめると、

 政府が数学を推したり、世界に通用する人材を育てるために英語教育をしても、順番を”逆”にして教えとるなら、そりゃ会得できる人は少なくなるわな。
「それでも会得できる人はいる」
とか言われそうやけどそうやなくて、できる人を増やしたいわけよね? 増やしたいのであれば、”自然”の流れで教える方が、できる人は増えるんやないかと考えるわけよ。

 子どもの成長を促しとるようで、成長を邪魔しとる。

 促しながら邪魔をする とか、「日焼けしながら美白する」みたいなやつやめろ。処理が難しいわ、処理が。と、言いたいね。んで、これを、
 判った上で、やっているのか?
 判らないで、やっているのか?
ってことよ。

(教えるときに『ダブルバインド』はダメですよ〜)

 こういうことを考えるのは文科省とか教育委員会の仕事なのかね。”自然”の流れに『逆行』して教えとることには気づいとるんやろか。
「昔からこうだから」
ってのは、ただの思考停止やないの。数学にしろ英語にしろ、できる人を増やしたいのよね?
 英語は教え始めて最初の一年間は教科書を読ませるより、発話の方を練習させた方がいいと思うで。とにかくしゃべらせることが大事。だって、日本語やってそうやって会得したんやしな。

 仕事の中にも教育の中にも『逆行する思考法』があるのや。どんなものも一長一短、使い方を誤ると滅びることになるで。資本主義の社会におることで、逆行する思考法が”無意識”にまで浸透してしまうのや。人間は”習慣の生き物”やからな。

「物事を”逆行”して教えると、成長が遅れる、もしくは会得できない

 じゃあ、資本主義の社会では”何”の成長が遅れたり、”何”が会得できないのか?

 それが『大人』なんや。
 資本主義の社会では、大人に成ることが遅れたり、大人に成れんままになったりするのや。実際、いろんなところで”幼児化”が起こっとるんやないかね。精神が未熟なままになってしまうのや。

 んで、それを解決する方法が”自然に触れる”ってことなんや。自然はどこからどこまでも”順行”でできとるからな。時間が逆行しとるところなんて1つもない。少なくとも地球上にはない。

 一度揚ったトンカツは、豚肉には戻らない

「そんなことはわかってる」って言われそうやけど、それは”わかってる”んやなくて知ってるだけなんや。言葉で知ってるだけのことを、わかってるとは言わんのやで。自分で現実にトンカツを揚げてみると、油に入れた瞬間はすごい”泡”が出るけど、時間が経つにつれて泡が減っていくし、音も変わっていく
 泡の現象… 視覚
 音の変化… 聴覚
やで。
 これらの感覚が”刺激”されることが大事なのや。刺激があると、脳の神経が成長することになる。豚肉を切るときには”触覚”が刺激されるし、食べるときには”嗅覚”と”味覚”が刺激される。言葉で知っただけやと視覚だけしか使わんけど、自分で作るときには五感すべてを使うことになる。脳への刺激がどれだけ違うかは判るやろ。

 ”時間の逆行”に関して「物理法則は時間の逆行を禁止していない」ってのがあるやん。法則を表す数式の左辺と右辺は、どちらからどちらにいってもかまわないってやつやな。

 でもね〜、これはそうやなくて、時間の逆行を禁止しない記述方法で書いただけなんやないかと考えとるのや。どういうことかと言うと、

 物理法則は時間の逆行を禁止していない ← 法則に”主体”がある
 時間の逆行を禁止しない記述方法で書いた ← 自分に”主体”がある

 つまり、自分でそうした = そう書いただけってことよ。
 時間の逆行を禁止していない法則だらけの中で、唯一、時間の逆行が禁止されとる法則が『エントロピー増大の法則』やな。これは左辺と右辺の”流れる方向”が完全に決まっとる。じゃあこの法則と、他の法則では何が違うのかを考えてみたら、

となった。
 法則の記述方法を、視覚系寄りの記述にするか、聴覚系寄りの記述にするか。これで時間の逆行ができるかどうかが決まっとるだけなのや。

 視覚系寄りやと、止まった時間の中の話になる。止まった時間は”条件関係”やったな。条件関係は条件さえ合っていれば、どちらからどちらにいってもかまわないんやったやろ。これはまさに、物理法則は時間の逆行を禁止していないってことと同義。聴覚系寄りの方も同じように考えると、流れる時間で、”因果関係”になって、因果関係はどちらからどちらにいくか決まっているんや。

 アインシュタインはエントロピー増大の法則のことを、
「他の法則とは違う、特別な法則だ」
って言うとったみたい。
 それは、なんとなくやけどこのことに気づいとったのかもね。アインシュタインは音楽・楽器演奏が好きやったから、聴覚系が発達しとったやろし。あらゆる法則が視覚系の形で記述されとる中で、この法則だけが聴覚系の記述になっとるから、それで「特別」って言ったのかもな〜と考える。

 どんな理由があっても、時間は、逆行させてはならない のや。



反射と思考

 2つのものを『=』で結ぶことを『等価交換』って言うやん。この言葉は、
 等価… 同じ
 交換… 同じ
って意味で、”同じ”って意味の言葉を2回言うとるのや。

(「なんで2回言うねん!!」
ダウンタウン)

 これは、
 等価 = 視覚 = 止まった時間
 交換 = 聴覚 = 流れる時間
とできる。
 ものを”見る”と等価かどうかが判るし、”流れる時間”の中で交換は行われる。数学や物理の数式で等価のものを入れ替えたりするけど、あれは交換じゃなくて”代入”なんや。代入は止まった時間の中でやることなんや。
 流れる時間… 交換
 止まった時間… 代入
やで。

 同じ意味の言葉を2回繰り返すことを『トートロジー(同語反復)』と言ったりする。んで、なんで2回言うのかを考えてみたら、視覚と聴覚の2つで一致するかどうかを確認してるんやないかな〜と思ったのや。

 芸人ってのは”反社”で… じゃなくて、”反射”でボケたりするやん。思考する間なんてないから、反射的に言うやろ。それは、
 反射... 0秒 = 止まった時間 = 視覚
 思考... 0.1秒 = 流れる時間 = 聴覚
とできるのや。それぞれ、
 反射… 1回目のボケ
 思考… 2回目のボケ(確認中)
ってことやで。1回目は反射で言うたけど、ホンマにこれで良かったんやろか? ってのが頭の中を過ぎったんやろな。だから、1回目の”反射”を、2回目の”思考”で確認しとるのや。止まった時間を流れる時間で確認することは、2つの違う視点から1つの同じ結論を出すことと同義。

 芸人たちはこういうことを考えてやっとるんやなくて、おそらく”本能”でやっとる。2つの違う視点から1つの同じ結論が出れば、それが真のボケってことよ。

 前の記事で「早口の人は嘘つきの傾向がある」って言ったけど、早口でも嘘つきやない人も当然おるわけよね。それをどうやって見極めるかというと、言うとることに一貫性があるかないかで判る。1回だけ言うんやなくて、2回目も3回目も同じことを言うなら、それは一貫性があると言える = 真 ってことや。それを見極めるのが刑事とか精神科医なんやけどな。心配せんでも”反射”だけで話す人は自分が言ったことを覚えてないことが多いき、”反射”でしゃべっとるかどうかはすぐにバレる。
 嘘つきの人は、その場だけでしゃべるから話すたびに言うことがコロコロ変わる。相手の言葉に反射だけで答えとるから、思考がないのや。1つの視点からしか見れんのやろな、だから。

 泉房穂さんは早口やけど、言うことに一貫性があるから信用できるのや。反射やないのに早口なのは、ホンマに頭の回転が速いってことになる。つまり、
 真の早口… 高速回転
 偽の早口… 反射
ってことやで。
 高速で頭の中で思考できるなら、むしろ反射の方が必要ないのや。止まった時間より流れる時間の方が”優先”される = 知より行の方が”優先”される と言える。泉さんは武道もやっとったみたいやから、流れる時間の感覚が鍛えられとるんやろな。しかも弁護士ってことは、
 A. 論理的に考える
 B. 倫理的に感じる
と、この2つをバランス良く捉えることができるってことよ。

 テレビで見た印象では”鬼”タイプの人やろね。鬼タイプの著名人は他にも、高須克弥さんとかビートたけしさんとかかな〜と考えとる。でも、現代社会の上層には”幼児化”してもうた人も多い。んで、幼児は鬼を嫌うやろ、鬼は厳しいからな。だから泉さんはちょっと”干され気味”の扱いを受けることになるのや。でもそれはTVの上層の方がどうかと思うけどね。
 逆行する社会では、

 上層… 幼児
 下層… 働いて稼ぐお母さん

みたいな構造になってしまうのや。

(「家で待ってる子どもたちのために稼がないと!」
お母さん)

 家 = 本社(上層)やで。
 話を戻して、トートロジーってのは論理的に話す場面では使ってはいけない弁法なのや。主張に対する根拠がない。主張をただ2回繰り返すだけになるから、それやと論理とは言えんからな。小泉進次郎さんがこれをやることが多い。
今のままではいけないと思います。だからこそ、日本は今のままではいけないと思っている
ってやつや。知っとる人も多いやろね。
 その一方で、言いたいことを”強調”するときにも使われる。
「自然は自然のままに」
 自然とは『自ずから然り』やから、”そのままに”って意味やけど、それを2回繰り返して”強調”しとるのや。

 ここで『トートロジー』を”視覚と聴覚”に分けて説明したのは、
「なぜ、2回言うのか?」
ってのがちょっと気になったからや。なにか未だ人に知られてない理由があるんやないかな〜と考えてみると、”視覚/反射と聴覚/思考”にたどり着いた。前回の記事で、
 1+ (-1) = 0 ←視覚
 1 – 1 = 0  ←聴覚
としたやん。前回とはAとBが逆になるけど、反射と思考をこれに当てはめてみると、

となる。
 んで、これを『A = B』で現そうとすると、それはできないことになるやんか。だって一方では時間が止まっとって、もう一方では時間が流れとるのやから、”=で結ぶ”となるとそのままではできんことが判る。

 じゃあどうすればええのかというと、”時間 = t”として式を作ればええのや。”時間”を式の中に入れるなら、

となる。
 ”時間”を、Aの方に入れるなら『+ t』になって、Bの方に入れるなら『- t』になる。これなら視覚と聴覚の感覚の”違い”を表しとることになるき、止まった時間と流れる時間では法則が”違う”ことも判るやろ。

 AからBを見ると、「自分に”時間”を足したものがB」
 BからAを見ると、「自分から”時間”を引いたものがA」

と考えることができる。
 ここで気をつけなきゃいけないことは、たとえばAからBを見たときに、

「自分(A)に時間を足したものが、Bから時間を引いたものになる」

とか考えてしまうことや。これを式で表すなら、
 A + t = B – t
となってしまって、『A = B – t』なんやから、
 A + t = A ← !!
となってしまうやろ。
 この場合のtは”0”になるから、結局『A = A』、つまりAは自分(A)のことしか考えてないことになるのや。これはBから見た場合を考えても同じ。”無限ループ”には気をつけなあかんで。

(自分で自分を… 心理学では『自己投影』ですね)

 こんなところにも『ゼノンの逆理』は隠れとるのや。

 もうちょっと具体的に言うと、
 A = 数字(売上)… 止まった時間
 B = 現場(作業)… 流れる時間
 t = 時間
とすると、
 A + t = B → 数字 + 時間 = 現場
となるやん。
 んで、ここでの”時間”がまさに『現場の声』なのや。声は”音”であり、音は”流れる時間”でしか聞こえないものや。
「それなら売上を管理する立場の声もある」って?
 だから、”対等”でええんやないの? って言うとるんやで。

『時間』はほっといても流れるから、認識することが難しいものでもあるのや。

 ・自然に流れる時間が存在する
 ・存在する時間を、自分の脳で認識する

 この2つは”全然違う”ものなんやで。前者は自分が居ようが居まいが存在するけど、後者は自分が認識できるまでは存在しないことになるのや。時間を感知する脳の器官は”松果体”やったかな。だから松果体が未発達であれば、時間を認識できないのかもね。未発達じゃなくても、”無我夢中”になると時間が飛んだりするやろ。それは、そのことに使う脳の領域だけが機能してて、他の領域は使ってないからかもな〜とも考える。
 さて、

『同じことを2回言う』

これには2つの可能性がある。
 A. 自分で自分のことを言う
 ∀. 2つの視点から言う

 判った上で、やっているのか?
 判らないで、やっているのか?

 自分は”どっち”やろね。



正当化

 西洋の文化を振り返ってみると、古代ローマにたどり着く。そこでは『哲学の祖』であるソクラテスが処刑されたやろ。当時のローマは古代エジプトに奴隷がおったりして、ローマの暮らしはものすごい豊かやったのや。
 ローマ… 貴族
 他国… 奴隷
って構造やな。
 豊かなもんやから、”自堕落”にもなるんよな。それに対してソクラテスは批判しとったのや。ソクラテスと、処刑した知識人を、”知と行”で言えば、
 知… 知識人
 行… ソクラテス
となる。

 西洋の文化を語るときには『キリスト教』の話は欠かせん。キリスト教を広めたのはもちろんキリストや。ユダヤ教の教えに対して”新しい教え”を説いていったのや。これはユダヤ教に対して、
「それだけが正解ではない」
と主張したと言える。ユダヤ教の教えだけが正しいわけやなくて、それも正しいけど、他にも正しいことはあると主張したことになる。実はキリスト教ってのは最初からRockなんよな。
 ちょっとずつ広まっていってたんやけど、ユダの裏切りで教会に処刑されたのは知っての通りよね。布教活動も”身体”を使うことやから、これは”行”に属する。処刑した教会側はもちろん”知”になる。
 知… 教会
 行… キリスト

 ところで、この前アメリカでトランプ元大統領の”暗殺未遂”があったやん。そのときの速報でチラッと見ただけやから、間違った情報かもしらんけど、犯人は学生の頃、全米の数学チャンピオンだったってのを見た。数学チャンピオンは当然の如く”知”の人よね。んで、俺はトランプは”現場主義”な思想の持ち主やと考えとるから、”行”の人になる。
 知… 犯人(全米数学チャンピオン)
 行… トランプ

 ここまで来たらもう解るやろうけど、すべて『知の人が、行の人を殺す』構図になっとるやん。西洋文化、白人社会はこれに囚われとるのや。

 トランプが善か否かは置いといて、ソクラテスとキリストは”聖人”よね。だから聖人を殺す文化なのや。ソクラテス は哲学の祖なんやから”神”に近いし、キリストは言わずもがなや。神を殺すのは、神と反する魔と狐なのや。鬼は反しているようで、そうやないことはこの前説明した。

(止まった時間のダブル・エクリプスです)

 んで、殺すときに必ず『正当化』するんよな。トランプの銃撃は当然犯罪や。でも、ソクラテスとキリストは裁判をして、まるで処刑することが正しいことのように見せかけるのや。間違っとることを間違っとると認めたくないから、何がなんでも相手が悪いことにするのや。キリスト教の中には『正当な自己隠蔽性』みたいなものがあるって話を聞いたこともある。でもこれは、キリスト教にあるというより、キリストの処刑によって”付加”されたもののようにも見えるね。後から付け加えられたような印象を受けるね。

 西洋は”自我”の確立を求めるけど、自己を隠蔽しとったら、そりゃいつまで経っても自我は確立されんやろな。

 知と行がここまで相入れないのは前半で説明したように、それぞれで法則が変わるからや。視覚と聴覚では受け取る情報も、その処理の仕方も違うのやから、相入れなくて当然なのや。止まった時間では正しいことも、流れる時間では間違いになる。これを受け入れられんのやろな。ソクラテスが毒杯を飲むときに、助けに来た人たちに、
「知識人たちが”自分の過ち”に気づくには、こうするしかない」
とか言ったんやなかったかな〜。そう言って毒杯を飲み干して死んでいったのや。

『階層性』を正当化するのも、自己を隠蔽するためにしとるのかもね。人は誰かに”尊敬”されることを望む生き物や。だから尊敬を集めようとする。でも、そう簡単には尊敬は集められん。だから階層性を作った… と考えてみた。

 ところが、階層なんかなくても尊敬される人は自然に尊敬されるし、実際そんな人はたくさんおるやろ。それやのに、階層性にこだわるのは、階層性がないと尊敬されんからかもしらんしな。階層性がなくなると、自分の欲しい尊敬が集められないから、階層性を維持しようとするのや。
 p. 階層が上だから、尊敬される
 q. 尊敬されるから、階層が上
 ここでも”因果の逆転”が見てとれる。師匠の視点、弟子の視点、自分の”目”は、どっちの視点から見とるやろね。

 『対等』ってものがそんなに怖いのかね〜。



頭脳と身体

 ローマ帝国と同じことを現代社会もしとるのや。知が行よりも”上”の立場にある。会社では本社が現場より”上”になるし、社会では東京が地方より”上”になるし、”産業の空洞化”が起こったあたりから、日本が他国より”上”の立場になるやろ。

 あらゆるものを地方に作らせて、東京はそれを受け取るだけになっとるやん。まさにローマ帝国と同じことをやっとるのよね。

 知により、行を支配する

 これが根底にある。
『オリンピック』もそう見えることがあるのや。”誤審”なんかまさに、知によって行を判定したら間違えたってことやん。柔道の誤審を見ても、審判は柔道をやったことがあるのか? と感じることもあるし。

 やったことがない人が、やっている人を判定する

 これって会社でもやっとるよな。現場をやったことがないSV()が、現場にいろいろ口を出してくるってやつや。口にする内容によっては「あ、この人、現場の経験がないな」と感づかれるから、気をつけといた方がええで。

 とにかく”頭で身体を支配したい欲求”がすごいね。最終的には心理学での『寸断された身体』までいくけど、それはちょっと後にして、会社で利益が出た場合、
 従業員 → 設備 → 本社
って順番で還元していくやん。でもこれを”逆”にやっとるやろ。利益が出たら真っ先に本社に還元するよな。だから高級なものを揃えたりするわけで。ここで気になるのは、

 高級なものを揃えた結果、”成果”が出たか?

ってことや。現場にはいつ何時でも常に”成果”を求めるやろ。それなら、高級なものを揃えたことによる成果 も求めていいわけよね。で、成果は出たのかね? たとえば本社を高級なもので揃えたら、なぜか現場の利益が2倍になる… とかね。
 まさか現場の成果を、本社の高級なものに変えたけど、高級なものに変えたことによる成果は0です とか言わんよね? 全然シャレになってないけど、大丈夫よね? お〜い、大丈夫よね〜?

 利益が出たら、最初に本社じゃなくて従業員に還元すれば、従業員は高級なものを買うかもしらんし、旅行に行くかもしらん。そしたらそれは”外”でお金を使うことになって、そうなれば経済が回るやろ。

 現場や従業員をすっ飛ばして、本社に利益を還元する

 これを『奴隷制度』と言うのや。奴隷制度を”経営”って言葉で隠蔽しとるだけなのや。なんか人間の愚かしさというか卑しさというか、ここまで堕落するもんなんやな〜と感じるね。

(「あーほっとする。やっぱ敵はオメーみたいなクソがいい」
ハンターハンター  キルア )

 日本でも安倍元首相が暗殺されたり、岸田首相も爆弾だかを投げられたりしたやん。岸田さんが狙われたとき、犯人を捕まえたのは漁師やなかったかね。つまり行の人なのや。知の人によって行の人が処刑されることがあるなら、行の人によって知の人の犯罪を止めることもあるんやで。
 知が、行を支配する が成り立つなら、
 行が、知を制圧する も成り立つ。

 知 = 論理、行 = 倫理 に置き換えてみると、

 論理は、倫理を制御する
 倫理は、論理を抑制する

となる。
 これを『相補性』と言う。

 お互いがお互いを補い合うのや。どちらか一方だけやとあかんのやで。現代は論理ばかりが大事なように言われるけど、論理を優先させる人たちが、平和に暮らしとる人たちの上に爆弾を落としたり、ビルに飛行機を突っ込ませることをするのや。論理的に考えて最も効果があると判断したからやろな。

 知の人は行の人を否定したり下に見たりするけど、戦闘で負傷した兵士を助けるのは倫理 = 行 によって行われるのや。

 戦争は、論理によって始まり、倫理によって終わる

と言ってもええかもね。
 いつもいつも”ケツを拭いてもらう”とか、ホンマに赤ちゃんやで、まったく。

 そして、赤ちゃんには『寸断された身体』の段階があるのや。自分の意思とは関係なく手足が動く時期があって、少しづつ自分の意思で動かせるようになる。この段階の赤ちゃんは、とにかく自分の思い通りに身体が動かんき、なんとか自分の思い通りに動かせるようにと考えとる。

 自分の”思い通り”に動かせるように

 これがまさに『支配』なんよな。知が行をやたらと支配したがる根底には、この時期の欲求が満たされなかった思いがあるのかもしらんね。



語り得ぬもの = オノマトペ

 ウィトゲンシュタインの哲学の中で『語り得るもの』と『語り得ぬもの』ってのが出てくる、それぞれ、
 語り得るもの… 言語化できる
 語り得ぬもの… 言語化できない
とする。

 ここで「それは論理の”外側”の話のことで〜...」とかのツッコミは要らん。ウィトゲンシュタインの哲学をすべて解るなんて到底無理やし、解ったつもりで、つもりになっとるだけのこともあるからな。それなら、自分独自の解釈を入れてみようかなとね。

 引っかかったのは『語り得ぬもの』なのや。

『文法の中にはなく、外にもない』

 これは人間の”感情”、つまり『流れる時間』において感じることができるものや。でも論理ってものは『止まった時間』で行われるやろ。それなら、語り得ぬものが言語化できないものであっても、何ら不思議やないやろ。芸術に触れたときの感動をすべて言語化しろ って言われてもなかなかできんし、それが人間らしいと思うしな。
 ここでの”外”ってのは、文法の領域は出ていない = 視覚の領域は出ていない って意味で捉えるなら、そりゃ外にもないやろな。だって、文法ってものは”視覚の領域”でやるものやから、聴覚はそれのさらに外側になるし。図で表すなら、

 こんな感じ。視覚の領域のさらに外側に、聴覚の領域はあるのや。

 語り得ぬものとは流れる時間、つまり”聴覚”に属する。んで、日本語と外国語を比べてみたときに、最大の違いと言うのは大袈裟過ぎるかもしらんけど、『オノマトペ』があるのや。これは外国語の中にはないのよね。だから翻訳ができんから、そのまま使うしかない。『sushi』とか『judo』みたいなもんやな。

 オノマトペのことを幼稚な言語やと考える人もおるけど、俺はそうやなくて”進化の証し”やと考える。前から言うとるように、外国はホンマにすぐに国が滅ぶのよね。そんなに早く滅んだら、そりゃ国として成熟する段階には行けんわな。イギリス王室でさえ1000年くらいで、日本の”半分”や。

 聴覚で捉えたものを、言語化する

 これって簡単なようで実は難しいのや。さっきも言ったように音楽を聴いたときの感動は言語化できんかったりするし、もっと単純に、英語を習ってもそのままの発音でしゃべるには相当な練習が必要やろ。それだけ難しいものなんやで。これでも難しいのに、オノマトペは、

 聴覚で捉えられないものを、言語化する

ってことをやっとるのや。例を上げると、
 燦々(さんさん)と輝く太陽
 煌々(こうこう)と照る月
 粛々(しとしと)と降る雨
 深々(しんしん)と積もる雪
などがある。それぞれ、
 太陽は『さんさん』なんて”音”は出していない
 月は『こうこう』なんて”音”は出していない
 雨は『しとしと』なんて”音”は出していない
 雪は『しんしん』なんて”音”は出していない
となる。
 それぞれ、そんな音は出してないのに、そう聞こえるやろ。だから言語化されて、現代まで受け継がれとるんやしな。んで、ここで、

 出していない音が聞こえるなら、それは”幻聴”じゃないか?

って考えるやん。でも、もし幻聴であれば日本人はとっくの昔に滅んでると思うで。昔に遡れば遡るほど人工より自然の割合の方が増えていく。そんな環境で幻聴が聞こえる生物が生き残れるわけがないやろ。自然はどこまでいっても”現実”なんやから、現実で幻聴が聞こえるなら、捕食者からすればカッコウの餌食になるしな。
 これは幻聴やなくて、日本人特有の感性と捉える方が正確やと考える。もっと言えば、成熟した国に見られる現象かもね。まぁ戦後からどんどん”退化”されたから、まったくそうは思えんかもしらんけど。

 日本人の聴覚に関して「特別だ」と言ったのが、ミュージシャンのスティーヴィー・ワンダーなのや。こんなことを言うとる。

日本人は特殊な能力を持っている。だって、日本人はどんな音でも音楽として聞こえるんだからね。

(特殊性について)
たとえば、日本人は風鈴の音を聞いて涼しさを感じる。我々外国人にとって不快な虫の鳴き声でさえ、彼らは音色として楽しんでいるんだ。こんな繊細な感覚は、きっと日本人にしかないだろうね。

ミュージシャン スティーヴィー・ワンダー

 現代の日本で”鵺”が復活しとるのは、欧米の影響なのや。鵺は1000年前の平安時代に現れた。ということは、日本より欧米が1000年遅れとる と捉えることもできるのや。

(「キサマ等の居る場所は既に、我々が2000年前に通過した場所だッッッ!!!」
グラップラー刃牙 烈海王)

 言語化できないものを、言語化できないからといって、自分より”下”に見る。

 このツケを払うときが来たのかもな。
 ウィトゲンシュタインが日本語を知っていたかは知らんけど、もし知っていたら、ウィトゲンシュタインの哲学は違った形をしていたかもしれんな〜とか考える。



最初はグー

 ちょっと前にネットの記事で、芸人のとんねるずが『エンタの王様』かなんかに苦情を入れたってのを見た。とんねるずの『細かくて伝わらないモノマネ』シリーズの”下に落ちる”のを、エンタの王様では”横にハケる”として「パクったんじゃないか?」って苦情やったと思う。かなりうろ覚えやけどね。
 でもそれを見たときに、
「芸能界はまだそんなレベルでやってんのか」
と思ったのや。ここでの”レベル”ってのはもちろん”低い”って意味やで。とんねるずの主張の正しさとか、その苦情がどうなったかとかは知らんけど、こういうのを視座が低いって言うんやないかな〜と思うで。そりゃ芸能界は成長しないわな。

 だいたい、横にハケるのは舞台でも普通に使われる手法やし、何百年も前からあるんやないのかね。

 ネタでもアイデアでもパクられないように秘密にするやん。でも、それは秘密にするんやなくて、みんなと”共有”した方がええんやないかと考えるわけよ。誰でも見れるように共有しとくのや。んで、もし、そのネタやアイデアから創作したものであれば『引用』が付くようにするとかね。
「このネタ/アイデアは、これとこれとこれを引用して作られとるよ〜」
ってことが判るようにしとけばええ。

「そんなことをしたらデータが膨大な量になる」
とか言われそうやけど、その膨大なデータをなんとかするために開発されたのがAIじゃなかったっけ? と言いたいんやけど、どうなんやろね。

 昔、『ゴールデンエッグズ』ってのが流行ったやん。でもあれって『スネークマンショー』の丸パクリよね。絵があるかないかの違いだけで、お笑いの”型”はそのまま使うとるよな。だからそういう場合は、スネークマンショーの人たちに、ゴールデンエッグズに引用されたことが判るようにするのや。

 引用ってのは学問の”論文”でもあるやん。あんな感じよ。論文は、引用がない論文は評価されないとかのルールもあったかな〜確か。引用がないってことは、完全に独自で考えたってことになるき、それやと逆に信用がなくなって評価の対象やなくなるのや。論文の引用と同じ形で、ネタやアイデアを考えていくってことよ。

 誰が誰のPIをどんなふうに使ったのかが判れば、レベルの低い争いは起きにくくなるやろ。
「パクリやがって〜」
とかなるから、みんなが秘密にするんやろうけど、むしろ共有することで、引用したことをはっきりさせるのや。

 論文では引用”された”ことも大事な要素なんよな。まぁこれを言うと、仲間を使って引用させまくるみたいなヤツも出てくるやろうけど、この際、そんな雑魚はどうでもいい。不自然に引用回数が多いヤツがおったら、
「ヘ〜お前ってそうなんや〜。なるほどね〜。そうなんや〜お前って。あ〜いやいや、いいのよ別に。お前はその程度ってことで。いやいや、ホンマにええんやって。気にすんな。その程度のヤツなんやから。」
みたいに思うとけばええのや。

 これを思いついたのは『最初はグー』なのや。志村けんさんが作ったやつ。これは、最初だけはみんな揃えましょうってことやん。

こういうイメージで作ったのや。

 一応言うとくけど、最初はグーだからといって、PIに共有するアイデアはみんなと同じじゃなきゃいけないってわけやないからな? それは判っとるな? 発達障害の人ってここで間違ったりするのよね。
「最初はグーやから、みんなと同じのを上げんとあかんのや〜」
とか、目をキラキラさせながら考えとるからな、あいつら。キラッキラやで、あの目わ。
 PIからDIには、

 こんな感じで作っていけばええ。ジャンケンみたいやろ。
 PIで共有したネタやアイデアはみんなが使える。使われたら引用マークが付く。類似したPIはそれぞれに引用マークが付く。類似するPIがあることも、人間の相関図を作る技術の応用で作れんかね。ちょっと前に、その人の相関図が判るサービスかなんかがネットにあったような気がするけどね。

 事務所とかテレビ局が協力して、こういうプラットフォームを作ればええのや。暇しとるやつおるやろ。いつまでサボっとんじゃボケー! って言うて作らせたらええんや。

 こうやって、本来は知を共有する目的で作られたのが『インターネット』なのや。元々はスイスのセルンって研究所の技術やったのを、世界中で使えるようにしたのや。ただ、ちょっと誤算があって、思ってた以上にユーザーがサルやったのや。だから本来の知の共有はあんまりできんくて、罵詈雑言の嵐が吹き荒れる荒野みたいになってもうたのや。

 インターネットとまではいかんけど、昭和のあの時代に、少なくとも”共有”って考え方をした志村さんは、やっぱり天才よね。永遠の天才や。じゃあこのシステムを、
『BACK UP TO KNOW』
と呼ぶことにしよう。ちゃんと発音すると”バカ殿”に聞こえるのや。

 ちなみに志村さんは、
「非常識なことをやりたいなら、常識を知れ」
と言った。これは、
 非常識 = 独創
 常識 = 普遍(共有 ≒ 共通)
とすれば、養老孟司さんの、
「独創性より共通性の方が大事」
と、同じことを言うとることになる。

 2つの”違う”視点から、1つの”同じ”示唆(教え)

ってことや。
 志村けん… お笑い芸人
 養老孟司… 解剖学者
と、まったく違う人たちが同じことを言うとるなら、それはである可能性が高い。

 正しく事態を把握するには、少なくとも情報が2つ要るんやで。




Ending.

U2 - With Or Without You

〜おわりに〜

BACK UP TO KNOW なんて英語はあるんですか?

(グーグル翻訳では
「バックアップして知る」
となった)

つまり、そんな英語はないってことですね。

(なかったら作ったらええがな〜
だいたい、バカ殿がまともな英語なんか話すわけないし
バカ殿はこれでええのや🎵)

和製英語もたくさんありますしね。

(バックアップして知るでも
なんとなく意味は通っとるやろ
なんとなく)

”大体この辺”みたいな作り方ですね。
”ざっくり”と。

(現代は”細かすぎる”からな
だから局所的な見方しかできんくて
大きな視点の俯瞰とかができてないのや)

抽象とか俯瞰って絶対必要なのです。
ただ、妄想にもつながる側面はありますよ。

(妄想の世界の完成形がメタバースや)

みんな「現実なんて見たくなーい!」ってなってますから。

(というか、仕事してないからな
PCばかりで身体を使ってないし)

PCの仕事って元々、パートのおばちゃんの仕事ですよね。

(この30年でそれを男が取り上げて
”高尚な仕事”のように見せかけてきたからな
男がみんな「デュッフーン!」ってなっとるのや)

俺がやってる仕事は高尚、そう、高尚なんだ〜とかですかね。
自分のことを”お姫様”だと考えているおっさんもいますよ。

(しかも、パートのおばちゃんが1人でやることを
男が2人とか3人に分けてやっとるからな)

”手順を増やす”と、なんか”ちゃんとしてる感”が出ますからね。
そういう気分になりたいのでしょう。
なんの意味もないですが。

(余計な時間ばかりかかるよな
まぁでも、これで30年やってきたから
変えるには相当の覚悟が必要やで)

多分、そんなことはしないでしょうね。
楽な方がいいや〜ってなってますし。

(自社で作っとるものがなくて外部発注ばかりなのを測るのがええかもね
『DFN指数』と名付けよう
DFN = デュフン やで🎵)

会社診断ですでに同じようなのはあるかもですけど、
その指数は知りたいですよね。
数値が高いほど”デュフン率”も高い。

(発注だけで何も作らない俺は”高尚”であり”特別”な存在〜🎵
ってなっとるのや
かわいそうに)

現代病ですかね〜。先進国病

(ローマ帝国と同じ構造になっとることに気づいとるんやろか
法とかでどんだけ体裁を取り繕っても”本質”は変わらん)

歴史を振り返っても”奴隷制度”を採用した国は、
ことごとく滅んでるのです。

(奴隷制度をやっとった国はたくさんあったやろうけど
どの国も残ってないやろ)

上層が”幼児化”してしまうので、
まともな判断ができなくて滅びに向かうのでしょうね。

(幼児はまだまだ”夢 = 妄想”を見るからな
当然っちゃ当然やな)

2000年かけて元の場所に戻ってきた
ってことでしょうか。

(他の類人猿よりちょっと頭がいいからといって
世界を支配したと考えとるかわいそうな類人猿がおるけど知っとる?
『人類』っていうんやけど)

他の類人猿に笑われてるでしょうね。
「人類とかいう奴ら、同じ間違いを何度もやってるwww」
みたいな。

(その視点から見ると笑えるよな
そりゃ戦争も繰り返すわ)

人間が浅はかな考えでやることは必ず裏目に出るのです。

(カラスを駆除 → ハトのフン被害
山を開発 → クマ被害
とかね)

何をやっても必ず跳ね返ってくるのですよ。
でもまったく手を入れないわけにもいかない。

(だから『手入れ』が大事なのや
手入れは”程よく”手を加える
ってことやで)

この”程よく”とか”塩梅”とかができなくなってますよね。
0か100かでしか見れなくなってるのです。

単純な脳
昆虫みたいやな
あるいは機械か)

トンボが減るとスズメバチの被害が増えるかもです。

(トンボのオニヤンマはスズメバチを捕食するからな
まさに『天空の守護神』と呼ぶにふさわしい🎵)

 スズメバチの飛行速度… 30km/h
 オニヤンマの飛行速度… 60km/h
ですから、圧倒的なんですよ。

ヤンマは、守護

(オニヤンマを捕まえると
学校ではヒーローになれるしな)

「マジかー!!!」
「お前すげー!!!!」
と、なりますよね。

(こういう文化が大事や
日本文化は視覚と聴覚を混ぜた文化なのや)

 視覚… 漢字… 中国
 聴覚… アルファベット…欧米
とすると、
 ひらがな… 聴覚
 漢字… 視覚
となるので、日本は2つを合わせた文化なのです。

(自我とか個性が大事なのであれば
これほど個性のある国はないんやで
わざわざ海外に合わせて個性を失っていく必要はないのや)

自然よりも、『人工』のものが良いという思い込みがあるからですよ。

(「俺の俺の俺の支配!!」
って考え方よね
キショッ!!)

物理学者の朝永振一郎さんの随筆を読むと、
いろんなところに『花鳥風月』が出てくるのです。

(それだけ自然に触れとったんやろな
養老さんと話が合いそうや)

自然のものを解明するのに一番良いのは、
五感を使って自然に触れることなのです。

(研究室や会社に引きこもっとるからダメなんや
に出ろ)

自然に近い方が良かった人たちが”部落”の人たちです。
そっちの方が”自分に合っていた”のでしょう。

(それを当時の政府かGHQが無理やり人工の中に入れたんやから
軋轢は生まれるやろな)

差別部落って言われますけど、本当は”区別”だったと思いますよ。

(特別支援学校とかNPO法人がやっとることは
もしかしたら部落の人たちは普通にやっとったことかもね
「それは俺らがやっとったんやー!」
ってことよ)

もしやっていたのなら、
部落から取り上げただけになりますね〜。
取り上げる = 奪う です。

(人から何かを奪うなら、そのツケは払わんとあかんのや)

障害者を延々と働かせてたってニュースがありましたけど、
これって『人工の中』ですよね。

(p. 奴隷扱いする人が現れるから、区別しない
q. 区別しないから、奴隷扱いする人が現れる
”因果”はどっちか)

たとえ同じことをやっていたとしても、
 紙の上の手続きをしたらOK
 そうじゃなければNG
こういうのを”傲慢”と言いますね。

(部落の人は騙されやすいからな
でも、自然は人を騙したりはしないのや
だから自然の方がええのやで)

紙の上を扱う人たちは、
論理だけが正しいわけではない ってことを、
もう少し知った方が良いと思います。

あなたの理論がどんなに美しいか、あなたがどんなに頭が良いかは関係ない。
実験と合わないのなら、あなたの理論が間違いだ。

物理学者 リチャード・ファインマン

(理論を重視する人は、この言葉を忘れんことやな)

『エントロピー増大の法則』は、
サディ・カルノーやルドルフ・クラウジウスらの
探究心の結晶として、生み出されました。

(ニュートンから始まった物理法則では
”止まった時間”の中でしか存在できんかった数式を
”流れる時間”の中で表出することに成功した
唯一の数式やと考える)

ちなみにサディの父親のラザール・カルノーは、
とある若者を”将軍”の地位に抜擢しました。
その若者こそ、かの有名なナポレオン・ボナパルトです。

(ソクラテス、カルノー〜クラウジウス
そして、志村けん)

あなたたちが残した”SIGNAL”は、確かに受け取りました。

(同じ過ちは繰り返させぬ
安らかに… )

それではまた〜。

(ほなね〜🎶)




*参考書籍*
 ・ウィトゲンシュタイン入門 永井均 ちくま新書
 ・見える光、見えない光 朝永振一郎 平凡社
 ・エントロピーをめぐる冒険 鈴木炎 講談社ブルーバックス
 ・唯脳論 養老孟司 ちくま学芸文庫
 ・プラトンの哲学 藤沢令夫 岩波新書







タタタタタタタタッ…



ガチャッ!! (ドアを開ける)
ドサッ!  (ランドセルを置く)

トトトト…  (家の中を走る)

ポチッ! ヴーン… (TVをつける)

『志村けんのだいじょうぶだぁ』

「よっしゃぁぁぁあああああ!!! 間に合ったーー〜!!!!!!」


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