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学歴について最近思うこと

 現役生の今頃、受かる気もしない後期を受けた。浪人生の今頃、行きたくもないところの後期を受けた。仮面浪人の今頃、全てに絶望し、全てを諦めていた。全てを諦めた後、たくさん遊んで忘れようとした。でも、できなかった。


 自分だけ、ずっと高校生だった。




 しばらく色んなバイトをしたり、大学で友達を作ったりして、色んな考えの人と話をした。3年間という高校生活の中で作られてしまった学歴至上主義の呪縛が少しずつ弱められ、自分が何をするのが好きであったかを思い出しはじめた。だけど、大学受験をよく知りもしないバイト先のおばちゃんに馬鹿にされる事もあった。悔しかった。学歴への呪縛は減りつつあるのに、なぜこんなにも悔しいのだろう。大学受験をよく知らない人に何を言われようと気にする必要はない事はわかっているのに、心がえぐられた。



 なぜこんなにも苦しいのだろう。いつになったら、何のもやもやも無く、真っ青な空を真っ青だと感じられるのだろう。

 どうすれば、この辛い日々の繰り返しを終わらせられるのだろう。



 大学の授業を受けていても、サークルの飲み会(コロナ前)に参加していても、いつもどこか一歩下がった場所でそんな事を考えていた。



 そんなある日、思った。

 あぁ、自分はたぶん自分が諦めた場所で勝つ事でしか自分を救えないのだろうな、と。



 だってあんなに人生をかけて頑張った事なんて無かったから。最終的に自分のしたい事で生きていければ幸せである事はわかっていて、どこで学ぶかなんて重要ではない事は重々承知である。

 でも、これはもう、本能のようなもので理性ではどうにもならないものであった。

 編入、それは、当時の私が考えられる「自尊心を取り戻すための最短の手段」であったのかもしれない。



 四年制大学からの編入試験や他大学院試験はもっと良い学歴を得るためのものである事は否定できない。でもやっぱり、合格者の中には私のように、そうする事でしか自尊心を取り戻せないがために、大学に入っても遊ばずに頑張り続けるしか無かった人もいるのではないか。もしかしたら、自分がもっと他の分野で自分に価値を感じられていたら、編入試験なんて受けなくても生きていけたかもしれない。勉強より部活のテニスの方に力を注いでいたら、こんなに固執することなんて無かったかもしれない。一つの分野でしか自分を判断できないって悲しい。もっと色んな分野に真剣に触れることができていたなら。そうしたら、もっと自分を好きになれる手段を増やせたのかな。

 ある程度きちんとした大学なら、どこででも学び、自分を磨く事はできると思う。ただ、身近に自分と同じ熱量の仲間がいなかったり、教えを乞う先輩がいなかったりで、孤独ではあると思う。なんやかんや,その孤独の戦いに耐えられなかったがために編入したというのもある。



 色んな考えがあるし、色んな生き方がある。だけど、自分の人生は自己満足の世界だ。楽しんだもの勝ちであると思う。その楽しむための手段が、私の場合は自尊心を持つという事で、自尊心を持つための手段が、編入であっただけだ。どんな道であれ、もがき続ける限り、道は開けるし、自分を信じる限り、自分の思う成功に近づけると思う。外野にとっての成功と私にとっての成功は違うし、今の私が成功だと思う事と10年後の私が成功だと思うことは違うかもしれない。他人の感性を充分に噛み砕き、それが自分への純粋な助言であると判断した時は従ってみるのも面白い。でも、ただの僻みなどに構う必要はないと思う。

自分の今思う道に挑戦し続けよう。

 

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