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新作小説『ヒゲとナプキン』 #1

【無料公開】

便座の上で用を足したイツキは、股間をぬぐったばかりのトイレットペーパーを呆然と見つめていた。

「はあ、やっちまったか……」

 視線の先には赤茶色の粘液が付着している。生臭く、そして錆びた鉄のような匂いが鼻をつく。

「ふう」

 イツキはトイレットペーパーを丸めると、忌々しそうに便器の中へと放り投げた。もう一度だけ、「ふう」と大きくため息をつくと、そう広くもないトイレの中でぐるりと視線を一周させた。ふと、普段は気にもかけたことのない戸棚が目に留まる。神も仏もとうの昔に縁を切ったはずだが、このときばかりは祈るような気持ちで扉を開けた。だが、きれいに整頓された戸棚の中には、トイレットペーパーの替えと掃除用具しか見当たらなかった。

「困ったな……」

 イツキはひとりごちると、短く整えられた顎ヒゲをひと撫でした。何か考えごとをするとき、イツキにはいつもこうする癖があった。

 嫌な予感はしていた。先月は休みもろくに取れないほど仕事が忙しくなり、クリニックの予約をキャンセルしてしまっていた。定期的に男性ホルモンを注入するようになり、かれこれ三年になる。ときには今回のように忙しさにかまけて予約を飛ばしてしまうこともある。それでもしばらく持ちこたえることもあれば、体内の摂理が勝り、自分の肉体が女性であることを突きつけられることもある。朝から下腹部に気だるさを感じていたのは、文字通り“赤”信号のサインだった。

 イツキは仕方なく新しいトイレットペーパーを右手に巻きつけ、ある程度の束にすると、それを膝下の位置で留まっていたボクサーパンツの股間部分に押し当てた。普段からトランクスを履かないようにしているのは、こうした緊急事態に備えたリスクヘッジだ。

 便座から腰を浮かせ、そのまま一気に腰の位置まで引き上げる。いつもとは異なる感触に不快感を覚えたが、ほかに応急処置を思いつくでもない。女の証が勢いよく流されていく音を耳にしながら、イツキはリビングに戻ってスマホに手を伸ばした。

 いくつも並ぶアプリの中からLINEを開く。クーポンをGETするために登録した飲食店からの通知をほったらかし、上から三番目にサトカの名を探し出す。

〈ねえ、ナプキンってどこにある? 借りてもいい?〉

 ここまで打って、送信ボタンを押す手が止まった。数十秒ほど、じっと画面を見つめている。しばらくして、イツキは普段めったに使うことのない顔文字の中からペロッと舌を出しているお茶目な表情を選び、短いメッセージに付け足した。道化を演じなければ、閉じ込めていたはずの醜い感情がヘドロのように流れ出てきそうだった。

 送信ボタンを押したイツキは再びスマホをテーブルに放り出すと、組んだ両腕を枕代わりにしながらソファに寝転んだ。

「はあ」

 三度目となるため息がリビングに消えていく。壁にかかった時計にちらりと目をやると、午後七時を回ったばかり。こんなに早い時間に帰宅できたのはひさしぶりだったが、一時期やたら凝っていた料理をする気にも、どのチャンネルをつけてもそう代わり映えのしないバラエティ番組を眺める気にもなれなかった。

 目を閉じると、下腹部の鈍い痛みに意識が集まった。その痛みは決して激しいものではない。だが、自分の体内にはやはり子宮が存在しているのだと思い知らされるには十分なアラートだった。普段は意識することのない体内の一部との対話は、イツキにとって最も苦痛を伴う時間だった。いくらその存在を無視しようとも、しつこく、しつこく話しかけてくる。いくらそっぽを向こうが、どこまでも追いかけてくる。どうしたって逃げきることはできない。自分の体内にある一部、つまり“自分自身”と鬼ごっこをしようとなどという前提自体が間違っているのかもしれない。

 テーブルに置いたスマホが震えた。サトカからの返信だった。

〈ごめん、切らしてるわ。コンビニでも行って買っといて〉

 四度目のため息が、虚しくリビングに吸い込まれていった。


※魂込めて書きました。小説なのに、まさかの無料公開です。何が何でも、ひとりでも多くの方に届けたいから。ぜひ拡散に協力してください。
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