降りるための「男」であったならば[2021/3/11]
・川辺を散歩していたら、鷹匠がいた!!!! 清野とおるの漫画『東京都北区赤羽』に出てくる、大和田さんだったのかな。というか、この辺じゃその人しかいないか。
・『東京都北区赤羽』のジョージさんは、2回ぐらい見かけたことがある。スーパーでスイカ買ってた。
・赤羽ビビオ前の交通整理の人がなんか通行人に挨拶したな~ってのを目の端で捉えた後、「……なんかピンクじゃなかった!!?」と思って振り返ったら林家ペーだったこともあった。
・ワニダさんはめちゃくちゃ見かける。どこにでもいる。
・連載が最近始まった、清野とおる『さよならキャンドル』もめちゃくちゃ面白い。
・なぜ、『東京都北区赤羽』ではキャンドルを取り上げられなかったのか。なぜ、キャンドルは閉まってしまったのか。今のところ謎は尽きない。
・清野とおるが壇蜜と結婚したの、27年間観測してきた芸能人の結婚で一番びっくりしたな。あまりに結びつかない。
・3.11。東日本大震災から10年。
・地震が起きたときのことはそこそこ覚えている。僕は当時高2で、吹奏楽部の部長だった。吹奏楽器は1日休むと3日遅れるとかいって毎日部活があるんだけど、3月11日は高校入試の採点日で、生徒は校舎に立入禁止だったのだ。もし、部員がみな校舎にいるときにあの大地震が起きてたら、僕は部長然とした振舞いなんて出来ていなかったと思う。
・珍しく、家族4人が全員リビングにいたんだよな。なんかみんなぼーっとしてる時間だった気がする。
・地震の後、友達が家に来た。そいつはそいつで「図書館でぶらぶらしてたらエレベーターに閉じ込められた」とか言っていた。なんか、晩飯もうちで食ってったのかな。夜に突然、友達に電話がかかってきて、誰かと思ったら東北大の後期試験を受けに行った先輩からだった。「電話がつながってよかった。先生に『無事です』って伝えてくれ」とかなんとか。先日、Twitterで見かけてそういえばそうだなと思ったんだけど、東日本大震災当時はLINEがなかった。
・あまりに凄惨な映像すぎて、現実味がなかった。前にAMで書いたことがあるけど、カンパニー松尾監督のAV『恥ずかしいカラダ DOCUMENT 愛咲れいら』に瓦礫の山が映ったとき、震災の衝撃をようやくリアルに感じたと思う。
・イヴ・コゾフスキー・セジウィック『男同士の絆――イギリス文学とホモソーシャルな欲望』を学部3年で読んだときの感想が、Twitterから掘り起こされた。いつの間にか世間的にもよく使われるようになっていた「ホモソーシャル」を、初めて理論的に鍛えたのが本書である(セジウィックよりも前から言葉自体はあったらしい)。
・学部3年のときの自分曰く、男に対しては「男の能力を失った男」、女に対しては「女のために男としての名誉を捨てる男」を演じて、実は誰よりもホモソーシャルを重要視し、誰よりも女を華麗に寝取る、『田舎女房』のホーナーが第3章で論じられるらしい。
・「男を降りる」とか「男の鎧を脱ぐ」とか、そういうフレーズをここ数年よく聞くようになった。原則、それ自体は良いことだと思う。しかし、その実「降りる」ことこそが最も効果的に「男」を利用する方法、ないし女性を獲得する方法、有り体に言ってモテる方法であるとすれば、問題はもっと複雑である。その複雑さに、セジウィックははなから気付いていたらしい。
・言うまでもないが、「男を降りるな」ではない。しかし、「男を降りろ」でもない。そのあわい、微妙なところで立ち止まって考えることが何より重要である。
・手元にないので読めないし、今の自分に『男同士の絆』を読み返してる時間もないので、自分の『田舎女房』解釈・セジウィック解釈が正しいのかわからないんだけど、4月になったら読めるかな。
・「かけがえのないあなた」を愛することと、あなたを「女(男)として見る」こと=特定のジェンダーに切り縮めることを両立しなければならない(異性)愛の矛盾――本当に矛盾なのか?――は自分にとって研究上・生活上かなり重要なテーマなんだけど、これもそのうち書きたい。
研究経費(書籍、文房具、機材、映像資料など)のために使わせていただきます。