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仕事と介護の両立に悩んでいる方へ ビジネスケアラー歴10年超の私の物語

ビジネスケアラー(働きながら介護をする人)として10年超、ひたすら走ってきた私の物語です。
今まさに仕事と介護の両立で悩んでいる方へ。自分自身の将来も大切にしてくださいね。


「ありがとうね……」
母が寝ている白いベッドを離れ、廊下へ向かっていたとき、かすかに聞こえてきた母の言葉。急いでベッドサイドに戻る。
「ううん。私の方こそありがとう。本当にありがとう」
母の目をしっかり見つめ、少し痩せた手を両手で優しく包み、温もりも記憶した。


母が入退院を繰り返すようになって10年。
入院中は、毎日、お見舞いに行く。とは言っても、平日の面会時間はほんのわずか。職場から母が入院している病院までは片道1時間半。洗濯物の回収と顔を見るだけ。でも、母に会えるチャンスは逃したくなかった。
ひとりっ子の私にとって母は大切な存在。それに父と交わした約束があるからだ。

父は他界する前の1ヶ月間、意識不明で入院。専業主婦の母は、ずっと父の病院に付き添っていた。
私が仕事帰りにお見舞いに行くと、
「ほらほら、黙って立ってないで、話しかけてあげて」と母によく笑われた。
私が話す言葉は「お見舞いに来たよ」「また来るね」ぐらい。
母のように意識不明の父とまるで普通の会話を楽しむことはできなかった。
それでも、父に伝えたい最期の言葉を真剣に探していた。

ベッドで眠り続ける父の少しカサカサした手を握る。
「お父さん、本当にありがとう。お母さんのことは心配ないよ。私が最後までちゃんと面倒見るからね」
だんだんと震える声でなんとか言い終えた瞬間だった。
「はい」
と意識不明だった父が返事をしたのだ。
「えっ、お父さん!」
すぐに呼びかけたけれど、その後は何事もなかったように父は眠り続けているだけだった。

3日後、父は旅立った。火葬場で空を見上げながら、父との約束を果たすことを誓った。

父を看取ってからまもなく、母は体調を崩し始めた。最初は単に看病疲れと軽く考えていたが、得意だった家事にも支障が出てくるようになる。かかりつけの先生に相談すると大学病院を紹介された。

「血液中の酸素量が落ちています。疲労感はないですか?」
「大丈夫です」
「階段を登るとき、息苦しくないですか?」
「大丈夫です」
医師が私の顔を見ながら
「数値的にはかなり息苦しいはず。我慢強いのかもしれないですね。本人が感じてないことは良かったのかもしれませんが……」
血液の難病だと告げられた。

「まず入院して投薬治療を受けましょう。退院後も、成分量を徐々に減らしながら投薬治療が必要です。ただ、薬の副作用が出ると思いますので気を付けてください」

これから母を小旅行に誘って親孝行をしようと思っていた矢先。本当に後悔した。
でもすぐに気持ちを切り替える。病気の自覚がない母を日々観察し、体調の変化を見守る必要に迫られたからだ。長期間にわたって母をサポートする準備を始めた。

実は家族の介護は母で3人目。またヘルパー資格も取得しており、母の病状に沿った対応は取れるはず。ただ、仕事を続けながら、母との介護生活を送れるかが問題だった。

働きながら家族を介護する人をビジネスケアラーと呼ぶ。2023年3月に経済産業省が発表した将来推計によると、ビジネスケアラーの人数は2030年には約318万人。家族介護者833万人の約4割を占めると予想されており、仕事と介護の両立が今後の課題になるようだ。

コロナ禍でリモートワークが浸透した現在。リモートワーク可能な仕事ならば、自宅介護と仕事の両立が可能かもしれない。
残念ながら、私の仕事はリモートワーク不可。残業免除や急なお休みを職場で理解してもらえるかが心配だった。

「ひとりっ子のうえ、近くに頼れる親類もいません。ご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」
職場の上司には正直に伝えた。仕事を辞める選択肢はなかった。母はもちろん大切だが、シングルマザーとして学費がかかる子ども二人のためにも働き続ける必要があったからだ。

「はいはい、もう帰って。明日提出予定の仕事はこのファイルに入れて」
私の机に溜まっている仕事を体育会系のS先輩が回収を始める夕方5時。急なお休みに備えるためのファイルに書類を入れ、S先輩に提出したら、急いで病院に向かう日々。実は怖いと思っていたS先輩が一番協力的だった。


長期の入院・介護生活での不安は様々。金銭面の問題は特に難しい。医療費等も含め、母の老後資金計画の見直しも必要になった。幸いなことにFP資格を取得しており、知識をフル活動させる。

病気や介護が必要になったとき、まずは利用できるサービスについて自ら常に最新情報を収集し、早期に手続きをすることがポイントだ。
「あなたのお家には病気の方がいるので、公的サービスが受けられます」とか「〇〇制度の要件が4月から変更するのでサービスの対象となります」などと自動的に連絡が来ることは少ないからだ。
「知らない人は損をする」とFPの勉強をする課程で学んでいた。

難病の医療費助成制度、要介護認定の申請など利用可能な制度・サービスについて次々と手続きをした。年金生活の母の蓄えを崩さずに、病気療養生活ができるようにサポートを続けていった。


母の治療は投薬により、数値的には改善に向かう。ただ薬の副作用で、性格の変化や認知症の症状が出始める。

優しい母はどこかに行ってしまったのだ。お見舞いに行っても、いつも不機嫌。しかも、「お金を返せ」など病室でなじられる始末。悲しいのか、恥ずかしいのか、なんとも言えない気持ちになった。

「これからなじられるかと思うと……」
仕事帰り、ついS先輩にぼそっと愚痴をこぼしてしまった。
「なじられるのも娘の仕事です。いってらっしゃい!」
「そうですね。これからなじられに行って来ますね」
S先輩の言葉で開き直れた。

その後、母は入退院を繰り返しながら小康状態を保っていたものの、自宅で脳梗塞を複数回起こし、救急車で運ばれる。退院は難しい状態となった。
攻撃的だった母はもうどこにもいない。なじる元気もなく、挨拶も片手を少し上げるだけの状態。穏やかな母に戻ったようだった。


いつものように面会終了時間20分前に母の病室に滑り込む。馴染みの看護師さんが点滴の交換をしていた。
「微熱が続いているので朝から点滴をしています」
「いつもありがとうございます」
その日の母の様子を伝えてくれるので本当に感謝をしていた。

「熱、大丈夫? 夕飯は食べれた?」
「入浴はしばらくできないね」
ベッド周りを片付け、洗濯物を交換しながら、母が頷くだけの何気ない会話を続ける。
「今夜は月が出てないから、もう真っ暗よ」
「そろそろ面会時間が終わっちゃう。明日また来るよ。じゃーねー」

「ありがとうね……」
母が寝ている白いベッドを離れ、廊下へ向かっていたとき、かすかに聞こえてきた母の言葉。急いでベッドサイドに戻る。
「ううん。私の方こそありがとう。本当にありがとう」
母の目をしっかり見つめ、少し痩せた手を両手で優しく包み、温もりも記憶した。

病院を出て歩き出す。涙がぽろぽろ止まらない。真っ暗な夜で良かったと思った。

その日の夜中、やっぱり病院から電話がかかって来て、無言の母を迎えに行くことになった。

『人生、いつ最後になるのかわからないのよ。だから、別れるときは笑顔でね』
なぜか母の口癖を思い出した。

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