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世界の真実 ひとりでは幸せになれないサピエンスの呪い

勘違い


ずっとずっと勘違いしていた。

本を読むことで真実に近づくことができると。

すべての難しい哲学書を読み込んで理解すれば、真実を書いた本を手に入れることができれば、世界を理解できると
「世界の真実」
を知ることができれば、今の悩みは解決すると勘違いしていた。

本をたくさん読んで、勉強すれば、真実を理解することができると。

おそらくは、真実は理解することができた。
だが、身も蓋もない、結論しか出ない。

これを知ったからといって、どうしろというのだ?
という残念な真実を知ることになった。

真実を知ったら、幸せになれる!
というようなイメージを持っていたのだ。

某宗教団体(親鸞会)さんの、
 真実を理解すれば救われる!
との考え方に似ている。

個人的には、親鸞会さんは結構好きである。
ただ、親鸞会の教えを真正面から信仰する気には、あまりなれない。

親鸞会さんの教義の仕組みも、おそらく想像がつく。

自由主義と同じ、空
共産主義と同じ、空

魅力的なストーリーは、その中核の部分が空なのだ。

共産主義や、魅力的な宗教教義は、例外なく難解で、ほとんどの人が理解できない性質を持つ。

理解できないからこそ、人はそのストーリーに引き付けられる。

例えば、共産主義を考える。
冷戦時代において、ソ連・中国を中心に世界の三分の一が共産主義国家だった。実際に、マルクスの考えに基づいて、ロシアや中国や東ヨーロッパ、日本の革命家たちが、命がけの軍事行動を起こしたのである。

共産主義には、ふわっとした平等な理想社会というイメージが存在する。ただ、教科書であるマルクスの資本論を、ちゃんと読んで理解している人は多くなかっただろう。
(読んで理解した気になる人は多かったかもしれない。)

人は、よくわからないもの、難解なものを”真理”と認識する。



思うにこれは、人間の淘汰の歴史が関係している。

ホモ=サピエンスが誕生して以来、サピエンスの脅威は、他のサピエンスの集団だった。戦争に強い集団だけが生き残った。
戦争に勝つためには、命がけで戦う必要がある。命をかけれない人間、戦争を前にして逃げ出す奴らが多い集団では、まともに戦争をすることはできない。

命より大切な何か” を持つ戦士たちの集団しか生き残れないのだ。

”命より大切な何か” が必要とされた。

だから、サピエンスに関しては、命より大切なものがあることがデフォルトなのだ。

実際には、命より大切なものは、そう多くない。
だからこそ、サピエンスには、よくわからないもの、難解なものを”真理”と認識するような認知機能が必要だったのだ。


生物は、アナログコンピューター


生き物というのは、ある一定のアルゴリズム(プログラム)に従って動くアナログコンピューターである。

セミは、夏になったら土から出てきてミンミン鳴く。なぜか?そういう風に遺伝子によって作られてるからである。

アリは、教育なしに集団で統率がとれた行動をできる。そういう風に遺伝子により、作られているからだ。

ハチは、高度な社会性を有する。そういう風に遺伝子がプログラムしているからだ。

脳が大きい哺乳類になると、遺伝子による本能に加えて、学習というソフトが本能(遺伝子プログラム)の上に乗っかる。

犬やイルカは訓練によって、いろいろな行動を人為的に教育することができる。

https://www.joetsu-tokusan.jp/staffblog/?p=328  より イルカショー


サルは、学習して、道具を使う。

サピエンスの場合は、さらに、脳が巨大になり、言語をあやつる。文字を発明して、読み書きもできる。

サピエンスは、他の生き物と比べて、学習による後天的なソフトウェアで柔軟に行動の幅を変えることができる。

さらに、サピエンスは、虚構(ストーリー)を信じ、虚構のために命をかけることまでできる。

お国のためなら、特攻攻撃だってできるのだ。

日本人だけが特殊なわけじゃない。
ソ連、中国、ベトナムの人海戦術は、間違いなく兵士が自ら死地におもむくことを前提としているのだ。


サピエンスのコンピューターモデル

コンピューターモデルを使って分析する。

すなわち、
ROM : 遺伝子により決まる本能  全ての人間に共通する普遍的なソフトウェア(アルゴリズム)
OS  : 習慣、風習、常識など、所属する集団の一員として生きるためのソフトウェア。根本的な深い部分に位置するソフトウェア (アルゴリズム)
アプリ : 今やっていること、興味や関心、意識して考えていること、お勉強、計算、損得勘定など、一番表面で動くソフトウェア (アルゴリズム)

実際に、人間の脳の構造も3層構造になっている。
小脳
大脳旧皮質
大脳新皮質

と、似た構造になっている。

物理的に、脳の作りが3層構造になっているのだから、このモデルは間違ってないだろう。

心理学では、意識と無意識といったりする。
無意識がROM+OS(一部)
意識がOS+アプリ
といったところだ。


人は何を求めるのか?


ROM(小脳)
ROM(小脳)が求めるものは、サルやほかの生き物と共通だから理解しやすい。

睡眠欲、食欲、性欲、をバランスよく満たすこと。
これが、ROM(小脳)における欲求である。


OS(大脳旧皮質)
OS(大脳旧皮質)が求めるものは、少し複雑だ。
サピエンスは、本能的に社会性をもつ。本能的に、人とのつながりを求める。

サピエンスは、所属する集団内において、命をかける価値のあるストーリーを探そうとする。

サピエンスには、”命より大切なもの”を もちたがる本能がある。
打算だけで死ぬことはできない。
お国のために、玉砕覚悟の特攻攻撃を行うには、大脳新皮質による理性的な計算だけでは不可能だ。

サピエンスの脳には、命より大切な”ストーリー”のために死ねる 強力な本能が刻まれている。

このストーリーは、主に幼少期の体験を通じて、その人が生きてきた文化によって規定される。

例えば、江戸時代の武士は、主君のために死ぬことが忠義とされた。お家のために生きることが、何よりも優先された。

アステカ文明では、年間に万単位のイケニエを神にささげないといけないとされ、そのために命がけで戦争をして捕虜(イケニエ)を確保した。また、自分たちからもイケニエを選び、イケニエになることが名誉なことであった。
(イケニエにされるのは、嫌われ者などではなく、容姿や性格の優れた人間だったらしい。なぜなら、アステカ人は、神にポンコツを捧げるのは、失礼にあたると考えたからだ)

人間は、OS(大脳旧皮質)レベルにおいて、集団に所属し、その集団が信じるストーリーに従って動くことを欲する。

所属する集団のストーリーにおいて、名誉ある立場を占めたいと思う。

アステカ人であれば、イケニエになって心臓を捧げ世界を救うこと。
江戸時代の武士であれば、お家存続のために命をかけて戦うこと。
そして、すべて共通するのは、集団のなかで認められ、称賛されること。

これがOS(大脳旧皮質)レベルにおける欲求である。


アプリ大脳新皮質

アプリ(大脳新皮質)が求めるものは、その時の興味、関心によって決まる、非常に流動的なものである。

具体的な問題解決がアプリ(大脳新皮質)の仕事である。
今日のごはんは、吉野家かすき家か松屋のうち、どれにするか、人事の評価シートをどうやって埋めるか、などの具体的なタスクに関するものである。

受験問題を解く、メールの返信文を作成するなどの、計算もアプリの範疇である。

直近の心配事を解決する。
これが、アプリ(大脳新皮質)における機能であり、欲求である。



OSレベルの社会性  ~現代社会の苦しみの根源

サピエンスのコンピューターモデルでは、その中間層であるOSレベルにおいて、集団の一員となり、その集団におけるストーリーに従い、その集団のなかで称賛されることを求める本能があるとした。

サピエンスの集団は、当然ながらサピエンスで構成されるから、みなが集団のなかで称賛されたいと考える。
つまり、みんなが求めるものを、わたしも欲する本能があるともいえる。

このOSレベルでの本能は、実際問題、とても厄介な本能だ。

現代社会の、苦しみの根源が、このOSレベルの本能に存在する。
人間には、社会との良好なつながりなしに、ひとりで生きてはいけない呪いがある。

この本能の暗黒面が、ひきこもりや精神障害である。

例えばこの和歌山長女殺害事件。


この長女の被害者女性はなぜひきこもることになったのか?
彼女はなぜ、ひきこもった後に暴力をふるうようになったのか?

彼女がもし、人間のOSレベルの本能を備えていなかったら、ひきこもったり、そして暴力をふるったり、暴れたりすることもなかったはずだ。

父親と母親が、食料や寝床を供給してくれている。当面のあいだ、生きていくためには、何も不足していないのだ。
彼女がもし、チンパンジーのように人間の本能を持たい存在だったら、こんな悲劇的な事件は起きなかっただろう。

彼女はどこまでも、サピエンスであった。
サピエンスの不合理さの犠牲者だった。

サピエンスにとって、OSレベルの社会性を満たされない、"疎外" という状態は、命を奪うより酷なものになる。

彼女は、人間らしく社会で生きていこうとした。

みんなが求めるもの、外に出て友達と遊んで、旅行して、、、、このようなメディアが流す、キラキラした映像を頭に流し込まれていたのだろう。

そして、そのキラキラした映像の中のあるべき世界と、現実の自分自身とのギャップを埋めることができなくて、そしてギャップを埋める具体的な方法もわからなくて、誰も教えてくれなくて、そして、イライラして病んで暴力を振るうようになったのだろう。

OSレベルの社会性、ストーリーを求める本能は、容易に人を壊してしまう。
なぜなら、それは命をかけさせるくらい強力な本能なのだから。


拡大する疎外 ~共同体の破壊

戦後の日本では、自由主義と個人主義がセットで拡大した。

共同体の破壊がおきた。

戦後の日本では、高度経済が起きた。都市の労働需要をまかなうため、田舎の農村から都会に大量の人々が移動した。
また、教育の高度化により大学進学率が増えた。大学は都市にしかなかったから、田舎の農村から都会に若者が移動した。

都会では、田舎から来た若者は、まずは小さなアパートに住む。それから、一軒家をもつまで複数回の引っ越しをするのが一般的だった。このため、頻繁な引っ越しが当たり前になり、めんどくさい近所づきあいが消えていった。
(田舎の共同体では、先祖数世代にわたってその土地で暮らしていた。そして、周りにはたくさんの親戚がいたりする。)

田舎の共同体の代わりに、会社が共同体としての受け皿になった。会社では、運動会や餅つき大会などのイベントが定期的に提供され、なんなら部活やサークルまであった。実際に僕の母親も、専業主婦になる前は、職場の料理部に所属していた。

結婚適齢期になると上司がお見合いの話をもってくるなど、現代では信じられないほど会社は共同体であった。
その結果、会社への忠誠心は高くなり、サービス残業も当たり前になった。そこが居場所であり、今後もずっと一緒に、何十年も働く仲間がいるのだから、自分たちの居場所を守るために一生懸命になるのは当然のことだった。

90年代の不況で、会社は共同体としての役割を降りた。
会社は、共同体ではなくなり、ただの働く場所、職場になった。会社への忠誠心は急低下し、日本企業の国際的な競争力も低下した。

最後に残った共同体 ”家族”も著しく弱体化している。
大学進学や就職で子供が家を出るのが当たり前になった時点で、家族は物理的に分断され、家族のサイズは小さくなっていた。人が農村から都会に移動した時点で家族は分断されたのだ。

90年代以降の未婚率の急上昇により、家族を持たない人が増加した。2020年の時点で、単身世帯は人口の4割を占める。物理的に一人で暮らすひとが4割もいるのだ。

既婚者となって家族をもてたとしても、核家族のサイズは小さい。さらに離婚率が上昇し、3組に1組が離婚するようになって、さらに熟年離婚も珍しくなくなって、もはや”家族”は安定した共同体といえなくなってしまった。


みんな自由になったが、不幸になった。

人間は、OSレベルの本能で集団、共同体の一員になることを望む。

だが、現在日本において、4割もの人が物理的に一人で暮らしている。
さらに結婚できない人が量産された氷河期世代以降では、中高年の男女が、物理に加えて、精神的な意味でも孤立化している。


自由主義を推進する人たちは、ひとりでも幸せになれる!

と主張する。

だが、それはウソだ。

ひとりで幸せに生活してるように見える人でも、甥っ子や姪っ子などがいて、家族・親戚関係が充実していたりするのである。

本当に、孤独な身で、疎外され、幸せになれる人間は、ほとんどいない。

実際問題、精神疾患の患者数は右肩上がりに増加しているし、セルフネグレクトからの孤独死も右肩上がりに増加している。

セルフネグレクトからの孤独死は、過労で死んだり、心臓発作で死ぬのと同じくらいに、よくある話になるだろう。

人間の本能と、疎外が広がる現状から考えて、セルフネグレクトは、これから加速度をつけて増加していくはずだ。


人間は、OSレベルでの社会性をもっているため、ひとりで幸せになることはできない。



まとめ

人間を含め、すべての生き物はアナログコンピューターである

人間のアルゴリズムは、ROM(小脳)、OS(大脳旧皮質)、アプリ(大脳新皮質)の3層で構成されている。

人間は、OS(大脳旧皮質)レベルで集団の一員として、集団のなかで認められ、称賛されることを求める。

だから、個人レベルで、ひとり孤独に幸せになるのは、本能的に不可能だ。

それにもかかわらず、現代の日本では共同体が解体されている。

不幸な人が増加するのは、当然である。

自由を手放すことなしに、共同体の再構築など不可能。

不幸な人が救われるには、自由主義を至上とするイデオロギー分野での革命が必要である。



おまけ:  人間には自由意志などない

人生とは、川の流れのようなものだ。
アナログコンピュータたる我々には自由意志などない。
与えられた刺激に対して、応答するのみ。
input to output
昔の人は、人生は川の流れのようだと言った。
その通りだ。
人間は自由じゃない。
情報・ミームの流れに反応して、全体と見れば、大河をつくる。
水流の立場からは、全体を見ることができない。
トランジスタの立場からは、今動いてるのはMACなのかiPhoneなのかWindowsなのか、理解できない。わからない。

ただ、与えられたinputに対してoutput を返すのみだ。

だからこそ、ストーリーの製作者、ミームの製作者には、社会に対する責任が発生する。

ストーリー製作者に責任が伴わない自由主義は、よくない。



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