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読書感想文|守るものを孕む

八木詠美『空芯手帳』(ちくま文庫)

ろくでもないどこかに自分を置き忘れるくらいなら、嘘でもいいから自分で担保してみようと思って。一人でも、誰かとしても。世界を敵に回しても。

p. 182

34歳独身女性の柴田は、紙管製造会社に勤めている。女性という理由でお茶出しといった「名もない仕事」を押し付けられてきたが、ある日ついに我慢の限界に達した彼女は、妊娠しているという嘘を思わず口に出す。
そうして彼女は、妊娠した。

はじめは、柴田がこの嘘をどう貫いていくか、といったような話だと思った。
しかし、読めば読むほど違和感が増していく。嘘にしては、彼女はあまりにも妊娠に対して積極的。
母子手帳アプリをダウンロードして、胎児の大きさを確認したり、お腹に向かって声をかけたり、マタニティビクスの教室に通ったり、果ては妊婦健診を受ける。
妊娠宣言直後は、緩衝材を使ってお腹を妊婦らしく膨らませて見せたりしていたが、いつの間にかそれも使わなくなっている。お腹が大きくなってきたと言い始める。

これは、本当に嘘、なのか?

初読のときは、柴田はなんて図太い人なんだろうって思った。嘘をついていることに罪悪感すら持たないし。
だけど、松田青子さんによる解説を読み、二度三度と読み直していくうちに、図太い性格というのとはちょっと違うのかもしれないと思い始めた。

柴田は、セクハラされようと理不尽な目に遭おうと、これまでは反発することなく会社に、社会に従順に生きてきた。それを止めたのだ。
その手段として、彼女は偽装妊娠という策をとった。
理不尽に対して真っ向勝負するのではなく、社会はそういうものだから、その中で生きていくために、他人に侵させない何かを持つ。そして、それを守るための生き方をする。それがたとえ嘘であっても。

本書の中には、そういう「自分だけのもの」をもつ女性たちが登場する。柴田の母や、歯医者で出会った女性。そして、昔近所に住んでいた「魔女」と呼ばれみんなから敬遠されていた老女。

彼女たちのように、柴田も自分だけの守るべきものを持つことにした。そのために、柴田は自らに呪文をかけはじめた。紙が管に巻かれていくように。
お腹に話しかけ、名前を決め、胎児の大きさを確認し、ストレッチやマタニティビクスし、豆苗に水をやる。そういったまじない・呪文を積み重ねていくことで、超音波に子どもの姿が映るまでになる。
こうして、柴田は「魔女」となっていく。生きていくために。
柴田のこうした行為の原動が嘘であるとバレることはない。それは「妊娠(そして出産)」という極めて個人的な問題かつ、女性のものと世間がみなし隠されてきた(知らなくてもすむ)ものに隠されているから。
そういう意味で、本作は魔女狩りを逆手に取った現代風刺とも言えるのではないだろうか。

こういった、現実なのかファンタジーなのか判然としない構成や、どう受け止めるかは読者次第という投げかけに会うことは、小説ならではの体験だとわたしは思う。
もし仮に本書が映像化されたとしても、核なる部分は小説を読むことでしか得られないのではないか、という気さえする。

「偽装妊娠」という強烈な設定から本書は入るけれど、肩透かしなど感じさせない緻密な策が最後まで貫かれている。
読み返せば読み返すほど、謎が解ける気分もするけれど、迷路の深みにはまっている気もする。

・・・

わたしは今まで生きてきて、性別を理由に理不尽な目に遭ったことはほとんどない。(ゼロとは言わない。)だから、柴田や、現実世界でそういう経験をした人たちの苦しさやしんどさをすべて理解することはできないんだと思う。
それに、わたしは(まだ)妊婦さんや世の母の気持ちもおそらくわかっていない。
本書の中で、細野さんというママ友が不満をぶちまける場面があるが、それがどれくらい現実のお母さんたちの心情に近いものなのか、わたしにはわからない。
そういった自分がとても力不足な気がして不甲斐なく思った。

いつだって、人は結構すぐにいなくなる。わざわざ声に出して絶交するよりも、もっと静かにいなくなる。

p. 56

芯は空っぽでよかった。そこに物語をつめていくから。

p. 140

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