「推し」という言葉を使わない理由


ありがとうございます



これわたしも結構いろいろ考えたことがあって、雑に言及したい話題でもないのでnoteでまとめて回答とさせてください。



メッセージをくださった方の印象通り、わたしの個人的な立場としては「推し」という言葉は好きではないです。

特にミュージシャンについて話すときには「推し」とは絶対に言いません。

ただ、場合によって「推し」という言葉を使う場面もあります。
例えばつい先日、アイドルマスターのキャラクターに言及するときに「推せる」という表現をした……気がします。


というので、わたしは「推し」という言葉が好きではないと言いましたが、もう少し精度を上げて話すと、
「推し」という言葉を使うべきタイミングが自分の世界において多くない、
という表現がしっくり来ています。




包容力の高い言葉


「推し」に限らず、「オタクがよく使う単語」みたいなのありますよね。オタク慣用句みたいな。

「推し」、「担当」、「尊い」とか「助かる」とか、逆に「死ぬ」とか、もっと最近よく見るので言うと、「〇〇からしか得られない栄養素がある」とか。
たくさんあると思います。たくさん見かけます。


メッセージをくださった方がこれらをどう思っているかはわからないですが、わたしは「推し」に限らずこれらが押し並べて嫌いです。
嫌いって言っちゃったな、好きじゃないです。少なくとも、わたしは自分から使うのを極力避けています。


悪い言い方をすると「手垢の付いた言葉」という風になるのだと思うのですが、いろんな人に使われている大衆的な言葉、こういう言葉のことをわたしは個人的に「包容力の高い言葉」と呼んでいます。

繊細な感情の機微を全部包んでまとめこんでくれる、という意味です。


例えばAさんとBさんがそれぞれ海を見て「綺麗」と言ったとき、Aさんは「海の広いところ」を魅力的に思っていて、Bさんは「海の青いところ」を魅力的に思っていて、そういう繊細な違いがあったとしてもそれらは全て「綺麗」の一言に丸め込まれます。

結果としてこの2人は「お互いに海を見て感動できた仲間」になります。


これが「包容力の高い言葉」の効力だと思っています。
繊細な感情を全て包み込んで、人と人とを共感しやすくしてくれます。

これは当然悪いことではないですよね。

極端な話、細かく語れば語るほどに言葉の出し手同士が共感することはほとんど不可能になっていきます。それは孤独なことでもあります。


これは例にも挙げた通り「推し」という言葉以外でも普遍的に起こり得る事で、言葉とは使い手が増えれば増えるほど包容力の高い、曖昧なものになっていくのです。




「感情が混ざっていく」ということ


わたしは度々「純度の高い表現」という言葉を使いますが、これをもう少し噛み砕くと、「出し手の意図して組み上げた感情に他の誰かの感情が混ざっていない状態」という意味合いになります。

そして、わたしが「推し」という言葉を使わない理由はここにあります。
自分の表現の純度はできるだけ下げたくないのです。


「純度が下がる」というのは、大体「本当は違うものに共感される」と同じだと思っています。


例えば、先の例で海を見たAさんはその広さに対して、Bさんはその青さに対してそれぞれ「綺麗」という感想を持ち、「同じ感情を持った人同士」になることができました。

これは「共感できた」という捉え方ができる一方、「誤解された」という風にも捉えることができます。

「(広くて)綺麗だね」と言ったことに対して「そうだね、(青くて)綺麗だね」と共感されるとき、この2人の感情の対象や意図が混ざっている、とわたしは感じるのです。


これをわたしは「純度の低い表現」と呼んでいます。

例では「綺麗」の一言だったがために誤解を招いているように思えますが、どれだけ一生懸命言葉を並べても「感情の混ざり合い」は起こり得るものです。

自分が必死に言葉にした感情が他のものと混ざっていく感覚、と言って伝わる方がこれをお読みの中にどれだけいるかはわからないですが、わたしはそれが本当に苦手です。
安易に共感されるぐらいなら「わからない」と言われたほうが嬉しい、と思います。


そして、「包容力の高い言葉」は「感情の混ざり合い」を起こしやすいものです。

何故ならみんなが使っていて、共感できるから。

そうなるのがつらいから、わたしは「みんなが使っているオタク慣用句」を使わないし、「推し」という表現も普段使いません。




言語化の放棄は罪なのか?


ここでメッセージに戻ります。

なぜ好きでどこが好きでどう心が動くのかっていう感情の言語化を放棄してる感じがして、あんまり好きではないです

これについては、まあ……至極個人的なことを言えば、「わたしもそう思います」が回答になります。


が、実際それが良いか悪いか、というとまた話は別かなと思っていて。

度々Twitterなんかでも「良いか悪いかという話ではなくて」という言葉を使いますが、実際「良いか悪いか」なんか誰が決めることでもないと思っています。

あらゆることは良いようにも悪いようにも解釈できるので、議論するだけ無駄です。
よくある「短所は見方を変えれば長所」というやつですよね。


というので、では「言語化を放棄する」というのは悪いことなのでしょうか、と言うと、実は言語化なんてしない方が良いんじゃないかな、とわたしは思います。


「感情の言語化」とは「感情」というフォーマットのものを「言語」に変換する、という変換作業だとわたしは捉えています。

それは手書きの書類をスキャナーにかけてデジタルな画像にするようなもので、スキャナーの解像度が低いと元の書類にあった細かい文字は潰れて読めなくなってしまうかもしれません。

たとえどんなハイスペックなスキャナーを使おうと、手書きの書類を「完全にそのまま」の状態で画像データにすることはできません。

それと同じように、この世にあるどんな言葉をどれだけの精度で当てはめようと(たとえその範囲が外国語にまで広がろうとも)感情を「完全にそのまま」の状態で言語に変換することって、多分できないと思うのです。


これをわたしは「言語化は感情の不可逆圧縮」と呼んでいます。


というのを前提に置くと、結局実は「言語化」なんてしたところで損失を生んでいるだけ、という風にも思えます。しない方が「完全にそのまま」なのだから。


その上、細かく伝えられれば細かく伝えられるほど共感してもらえる人の数も減ります。

「水族館が好きです」と言って共感してもらえる人の数と、「水族館で深海魚のコーナーを眺めるのが好きです」と言って共感してもらえる人の数、みたいなものです。

細かくなればなるほど手を取り合える人の数は減ってしまうし、それ自体も良い側面悪い側面あると思いますが、極端な話「究極まで自分の感情を言語化する」というスキルを得たとして、そこにあるのは「狭く深い交友関係」ではなく単なる「孤独」ではないでしょうか?


と考えると、「言語化を放棄する」というのはある種賢いことでもあるように思うのです。

メッセージをくださった方は単に「(主観的に)好きではない」と言ってくださったのであって「(客観的に)悪い」と言っているわけではない、というのはわかっていますが、文章を読んだ感じ懐疑的な姿勢であるように思えたので。


とか言いながらわたしは異常なほどに言語化や表現に執着しています。

そういう「言語化することで起こる損失」に対してどのように立ち向かうべきか?

「語りすぎる(=想像の余地がない)」ことが悪いのか、言語以外の表現を取り入れることで「言語化の限界」の先に行けるのか、「不可逆圧縮」ではなく「圧縮・展開」として感情を表現することはできないのか?

みたいなことも含めて表現の限界を知りたいと思っています。最早研究者みたいなものかもしれません。


という自分の立場や趣味嗜好としては、やっぱり(おそらくはメッセージをくださった方と同様に)言語化を放棄する人とは趣味が合わないな、と思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?