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バブル期の昔語り:耳から学ぶ英語

年寄りの独り言として聞いていただきたい。もうかれこれ40年程前の話だ。

筆者家族は三年と言う短期間でイギリスに住むこととなった。

この当時、日本がちょうどバブルの真っただ中だった。

当時住んでいたイギリスは景気が悪かっただけではなく、いきなり日本からの輸入や日本企業の進出が増えた事に戸惑っており、景気の良い日本に非常に気を悪くしている人達もいた。

大きな理由の一つとしてあげられるのが第二次世界大戦だろう。

七つの海を制覇していたイギリスは、東南アジアにも植民地を持っており、その中でもミャンマーやシンガポールなどで日本とイギリスは直接戦った。

1980年代後半でもその戦争の記憶はある一定年齢いった人たちにとって、バブル経済によって有色人種が経済的に世界の上位に食い込み、イギリスを初めて抜かしたという事実には、特に一部のプライドのある層にとっては耐えがたい事だったのだろう。

当時は香港から来ていた人の他、短期の語学留学で日本から来ている人達が多かったらしい。らしいと書くのは、平日街にでた親から聞いた限りだと、街中では日本人に会う事がとても多いと聞かされていたからだ。勉強や仕事で来る人が大半だったようだが、バブル期は香港から来た人よりも日本人の方が多かった,などとも聞かされた覚えがある。

そんなそこはかとない日本人嫌いの人が店をやっていたりすると、即刻始まるのが不売活動だ。笑顔で「イエース」と言いながらものを売らない販売員。「ジャップに売るものは無いよ」とレジを締めてしまうおばさん。我々家族が近づいたところで「閉店」の看板を出す店。地下鉄の切符売り場に行けば、「休憩中」の札が立てられる。筆者の兄弟や知り合いでもこれをやられたと言っている人は多い。

日本人丸出しの我々家族が行けば、東洋人に慣れていない一部の人達の反応は仕方が無いと思ったのだが、スーパーのデリカテッセン売り場で「もうジャップに物を売るのはこりごりよ。あたしは奥に行くからね」と立ち去ってしまう販売員の人もいた。

筆者は中学の途中でイギリスに行ったのだが、それまで学校教育以外に英語は学んでおらず、英語を自分で使うのはほぼ初めてだった。

その為、筆者は周囲の話している言葉に目いっぱい聞き耳を立て、家に帰って言われていたことを辞書で引くなどして少しずつ言葉の意味と表現を覚えて行った。

物を注文するときはこのような言い方。違うものが欲しい時はこのような言い方。

スーパーで会計する時にレジの人と話すときの言葉。
地下鉄の切符を買う時の言い方。
新聞を買う時の言い方。

邪魔にならない程度の距離を置いて周囲から聞こえてくる言葉に耳を澄ませ,忘れないうちに家で辞書を引いてその日に聞いた言葉を覚えて行った。

そのうち、辞書を引かなくとも周囲が話していることを真似すれば買い物くらいはできるようになっていった。これは多分海外で暮らし始めた人ならだれでもやっている事なのではないかと思う。

ある程度英語が使えるようになってきて、いつも使う店が決まってくると格段に買い物が楽になる。相手もこちらが少しでも英語が出来るのを覚えてくれていたからだと思う。

店を新規開拓するのは面倒だが、ここでも通過儀礼は通り越さなければいけない。

一度,こちらが店に近づいて行っただけで「閉店」の看板を掲げた文房具店は、筆者の他に白人の客が来た途端に店を開けた。

その人に便乗して入り、出来る限り英語に近い発音で探している物があるかどうか尋ねてみると、「あ、なんだ、英語話すんじゃないか」とほっとしてくれ、その後は買い物が楽にできるようになる。

面倒だし、どこでもこういう事があるわけではないのだが、ある一定の数の店では一度通り過ぎなければいけない通過儀礼だった。

発音やイントネーションにとにかく気を配るのは滞在期間中ずっと続いた。

地元の人の発音やイントネーションに近づければ近づく程、少なくとも日常生活で困ることは減っていくからだ。

しかし滞在が一年ほどたった頃から、別の困ったことができた。

一部のイギリス人は、自分が気になったことを確かめるには容赦をしない行動をとるという事を学んだ。

ある日、外の広い公園で体育をやり、校舎に帰る途中、交通整理のおじさんが道の真ん中に立っていた。私たちがべちゃくちゃ喋りながら通り過ぎた時、いきなり腕を強くつかまれて引っ張られた。あまりの力強さにこっちの身体が浮き上がるほどだった。

叔父さんは言った「何で英語を話すんだ」

筆者は近くにある学校に通っていることを告げ、次の授業があるから手を放して欲しいと頼んだ。おじさんは「いや、東洋人で英語を話す人は聞いた事が無いからね。ほら、気をつけてな」と解放された。

あまりに何度も私が引っ張られて止められることが多くなったので、一緒に歩いている同級生たちは「またか」とクールな態度でかわすようになった。

耳を目いっぱい澄ますのは授業中も続いた。

筆者は中学までの経験不足がたたって英語で小論文を書いたことがそれまで無かった。

通っていたインターナショナルスクールでは、テストの度に短い説明や小論文を書くこともある。これに対処するために、ほぼ全クラスで授業内容の書き取りをした。

授業は一時間強だったと思うが、ゆっくり喋ってくれる先生のおかげで何とかノートが取れ、家に帰って清書をすれば十分復習にもなった。

宿題をやっている時や週末などは、ラジオを頻繁に聞いた。

幸い、ラジオドラマがやっているチャンネルがあり(このチャンネルは現在でもあり、ネットで視聴可能)テープにとっては意味が分からなくとも何度も繰り返し聞いて、それに合わせて自分の口に出してみるという事もやった。

三年と言う期間は短く、あっという間に日本に帰ることになるのだが、三年目は買い物程度ならストレスなしで出来るようになり、学校でも多少なりとも複雑な話に何とか付いて行けるようにはなっていた。

しかし、一番頑張ったのは昭和から平成に切り替わったタイミングだろう。

当時の天皇陛下は本当にベールに包まれた謎の方で、詳しい研究など世界のジャパノロジストがまだ手すら付けられていないものだった。

街中だと東洋人に向けられる周囲の目は厳しく、実際に日本軍に兄弟を殺された人に話しかけられた事もあった。地下鉄や街中で時々第二次大戦について質問をされることもあった。高校二年生だった筆者は、「歴史の授業を取っているがまだ分からない事が沢山あるので、もっとこれからも勉強する」と言って難を逃れていた。

その次に悩んだのが「So, where do you actually come from ?」という質問だった。

始めのうちはどういう意味で話しているかわからず,「Japan」と答えると、

「No, no, I mean where do you ACTUALLY come from」と聞かれる。

面倒くさかったので「none of your business(あなたには関係ありません)」と交わしていて相手にしなかった。

これも何度も聞かれるとほとほと困った。東洋人の顔を見りゃわかるだろう、ととにかく相手にしない事にしていた。

大分後になって知ったのだが、この質問は日系人の様に、自然な英語が話せる二世や三世の人達が、祖先に遡って「どこから来たのか」と言われることだそうだ。

日本に例を取ってみると、明らかに外国人の顔をしたハーフの二世や三世の人が、「顔つきが日本人じゃないけどどこの人?」と言われるのと同じことの様だ。日本で生まれ育ったハーフの二世の人では、親の母国語を話せない人も大勢いると思われる。その人たちが初めて会う人たちに「どこ出身?」と聞かれるのと似ているのかもしれない。

母語の訛りがある英語を否定する気持ちは無いが、海外において母国に対して厳しい目を向けている国で生活していくには、出来る限り地元の人の話し方に寄せて行く事で難を逃れたと感じている。

それにしても、ほんの少し現地の人々が話す発音やアクセントに寄せただけでこの反応。大げさ極まりない反応だが、40年前のロンドンにいかに東洋人が少なかったか想像して頂けると思う。

特に短期滞在の場合は、身分はその国のゲストだ。決して移民ではない。親からはゲストとして地元の人に失礼の無いように振る舞うように口を酸っぱくして言われていた。

時は過ぎ、コロナの頃に二年ほどイギリスに滞在した友人が言っていたのは,「ロンドンでは色々な国の訛りが多い」という事だった。

筆者が滞在していた四十年近く前もそのような感覚で,インド系の人はインド系の訛り、アフリカ系の人はアフリカ各国の訛り、ヨーロッパ系の人達は各国の訛りで話していたので、現在も変わっていないと感じたのだが、件の友人は幼い頃にアメリカで生活をしていた。

アメリカの様な移民の国にいたわりにしては言う事がおかしいなと思ってもう少し聞くと,「(アメリカでは)皆、住んでいる地元の素敵なアクセントに合わせるの」と言っていた。つまりアメリカに行った移民は、皆地元のアクセントで話すことになるらしい。これは相当の努力が必要になると思われるのだが、アメリカではそうなのかと目から鱗が落ちた。

移民の街ロンドンでは、比較的お国訛りの英語には寛容だったが、寛容だったのは恐らく旧植民地の一部であるイギリス連邦から来た人たちに対してだと思う。イギリス連邦にはかなりの数があり、インドやパキスタン、香港や南アフリカ、ジャマイカなど上げて行けば切りがない。コロニーがまだイギリス領だった頃に生まれた人たちはイギリス国籍を持っており、地元が行っている外国人向けの英会話教室では「わたしはイギリス人」言って譲らないインド系の方がいらっしゃったと聞く。

日本の様にイギリスとの歴史的なパイプが異常に細く、当時は香港と日本の区別もつかない人たちも多かった。そんな人達からは、日本のお国訛りの英語がいまいち受け入れられなかったのも仕方がない話だったのだろう。

2000年代ももう20年過ぎて、かの国で人がどのように話しているか、少し興味がわいてきた。残された人生でイギリスを訪れる機会があるかどうかは分からないが,昔の様に移民が自由に英語を話すゆとりがあると良いなと思うこの頃である。


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