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【3】東日本大震災から10年。あの日のことをnoteに記録してみる。

前回からの続き。

ある会社の事務員だった私は、仕事中に東日本大震災を経験。

【1】では地震発生から翌日のこと【2】では停電中のことをまとめた。


今回は停電が解消してからのことを書いていく。



●再度ガソリンスタンドでの勤務

停電が解消したあとも、会社で経営しているガソリンスタンドへ数回手伝いに行った。

電話が通じるようになったので、電話番も兼ねている。

ある日のこと。

あたりが薄暗くなり始めた午後4時頃だっただろうか、少し仕事も落ち着いてきたため、外で片付け作業をしていると、ポツポツと雨が降ってきた。

空を見上げると、どんよりとした雲でおおわれている。

震災当時の私は、空ばかり見ていて、空模様が印象に残っている。

◇チェーンメール

「あー、雨かぁ」

近くにいた男性従業員が、空を見上げながら思わずつぶやく。そして「チェーンメールきてない?」と、私に話しかけてきた。

当時、震災に関連した情報のメールが出回っていた。
「メールを受信したら、複数の人に転送をしてほしい」といった内容だったため、多くの人がチェーンメールを受信していた。

メールの内容は、さまざま。

細かい文面は記憶していないが、以下のような内容だった。

「また地震が発生するかもしれないから◯◯してほしい」
「自衛隊の知り合いから聞いたんですけど……」
「原発事故の影響で◯◯、黒い雨が降ってくると、体に……」

内容に疑問を感じていたので、私は転送していない。

しかし送ってくれた友人は、本当に信じていたのかもしれない。

◇福島の衝撃

福島の原発事故のニュースは衝撃的で、本当に怖かった。

チェーンメールに、本当の内容を書いているとは思えないが、何もかも信用できない気持ちにもなる。


「俺らなんて、現場で雨に濡れてばっかりだよ!」と、話しながら同僚は苦笑いをする。

「この空気中にだって……」と言いながら、空を見上げる。


これから日本はどうなっていくのか。
不安ばかりだった。


●徐々に多忙になる

当時、私が勤めていた会社は建物サービス関連の会社。会社のクライアントの8割は官公庁や一般企業。電話が通じるようになると、震災に関連した業務の依頼が相次いだ。


詳しい仕事内容は書けないけれど、通常業務の10倍以上の仕事量になっていく。

徐々にではあったが、新しく人員を増やさなければならないほど、多忙になった。

◇4月7日午後11時30分頃

夜、自宅にいるときに、強めの地震があった。

ゴゴゴ……

ガタガタ……
ガタガタ……
ゴォーーー!!!

地鳴りと強い揺れが続く。

「このままでは、3.11のときのような揺れになる……!」と恐怖だった。

しばらくすると揺れがおさまり安心したが、また停電になってしまった。

あのときの停電は、一日から二日くらいで解消したように思う。

しかし徐々に日常生活に戻ろうとしていた私たちにとって、この地震が発生したことで、またしても振り出しに戻ったような思いだった。

◇事務処理に追われる

ガソリンスタンドでの業務が落ち着くと、事務作業に戻った。

震災関連の契約書を作成するだけで、気が遠くなるような日々。通常業務の合間に、同僚と作成し続ける。

その間にも男性従業員たちは、特に被害がひどかった岩手、宮城、福島の被災地にトラックで連日出入りする。

被災地で作業した分の事務処理を行わなければいけない。
私のデスクには、処理しなければならない伝票が山のように盛られる。ひたすら電卓で計算し、パソコンへ入力。

業務に必要なことだったため、被災した住宅の写真を見る機会や、被災地の様子を聞く機会が増えていく。

詳しく被害状況を知る度に、気持ちが落ち込んでいった。

忙しさもあり、殺気立っていく人もいた。


◇被害にあった従業員の言葉

どんよりとした気持ちで仕事をしていたときのこと。

3.11の震災で津波の被害にあった従業員が「コンビニで見つけたから」と、事務員にチョコレートを差し入れしてくれた。
物流も、まだ通常通りではなかったため、欲しいものを気軽に購入できる状況ではなかった。

小さなチョコレートの箱を、一人の事務員のデスクに置く。みんなで分けて食べた。久しぶりに食べたチョコレートは、とても貴重なものに感じて、おいしかったことを覚えている。

みんなで、少し雑談をしていると「俺は、あのときに命を助けてもらったから」と、男性従業員が話し出す。

「あの状況では、俺も津波の犠牲になっていてもおかしくなかった。津波に流されていく人を何人も見たよ。あの人たちの顔が、頭から離れなくて毎日のように夢を見る」

そのあと「あの人たちの顔」が、どんな表情だったのか詳しく語ってくれた。悲惨な状況を想像する私たち。

疲れたような顔をして、続けて話す。

「大変だけどさ……がんばるしかないな」

◇がんばろう◯◯

当時「がんばろう日本」といったように「がんばろう」のあとに地域名や、企業名を入れたステッカーを車両に貼ったり、建物に掲示したりすることが多かった。

朝礼でも上司が、よく口にしていた。朝礼の最後には、全員で声を合わせて「がんばろう!!」 と発声する。


悲しい思いをしている人が、たくさんいる。

仕事が休みになってしまった友人の中には、被災された方のために何かをしたくて、被災地にボランティアに行っている人もいた。

私たちは、仕事で被災地に関われている。

「うん……やるしかないよね」「うん、がんばろう!」
励まし合いながら、毎日を過ごした。


●報道が変わっていく

いつの頃からか、テレビの報道では避難している方たちの顔を、しっかりと映すようになった。

連絡も取れない状態の地域は、まだたくさんあった。
安否確認ができない方たちのために、テレビを使って避難している方の情報を視聴者に共有していたのだ。

避難している方の中には「自分はここに生きている」と伝えたい方も多かっただろう。

◇印象的で忘れられない

避難所の様子を、しっかりとテレビに映しているときもあった。

「この中に、ご家族やお知り合いの方は、いらっしゃいませんか」とアナウンサーが話していた。

ときには、カメラの前に数人が並び、ゆっくりと顔を映していく。手には自分の名前やメッセージが書かれた白い紙を持っていた。テレビ番組でよく見るようなフリップや、画用紙のようなものだ。

それまでの報道番組は、津波や建物が揺れている映像ばかり。

テレビに映された家族や知人を見つけて、安堵した方もいるかもしれない。
とても印象的な映像だった。

●noteに記録してみて

震災のことは1記事で終わらせようと思っていたが、3記事になってしまった。思ったよりも記録したいことが多かったので驚いている。

実は震災から一カ月間の地元の新聞を保管してあるが、今回は読みなおすことができなかった。

当時の新聞を見たら思い出すこともあるかもしれない。そのときは、追記したいと思う。

◇東日本大震災から10年

地元の新聞は、10年間毎日のように東日本大震災関連の記事を掲載している。

地元のテレビのニュースでも、毎月11日は「震災から◯年◯カ月です」と話している。

他の地域では、どうなのだろう。

このnoteが、少しでも東日本大震災を考えるきっかけになってくれたら嬉しく思う。


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