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【読書メモ】移動祝祭日

数々の名作を生み出したアーネスト・ヘミングウェイが最晩年に書いた一冊。若き日のパリでの下積み時代を記した、甘美な郷愁と哀惜の念の含まれた回顧録である。当時はまだ無名だった文学青年は1920年代のパリで、何をその目で見、何をその耳で聞き取ったのだろうか。

パリはとても古い街であり、私たちはまだ若く、そこでは何一つ単純なものはなかったのである。たとえそれが貧困であれ、突然転がり込む金であれ、月の光であれ、善悪であれ、あるいは月光を浴びて傍に横たわっている女の息遣いであれ。

当時のパリには奔放な自由と進取の気風がみなぎり、新しい芸術が生まれようとしているエネルギーに満ちていた。またドルが強い時代でもあったため、アメリカで暮らすよりも生活費は安くつく。昔のパリは貧乏でも生きていけたのだ。この頃、新時代のアーティストを目指す多くのアメリカの若者はパリに渡ったが、ヘミングウェイもその一人であった。彼が街を歩き、人と触れ合い交友関係を築いていく様子や、カフェでの仕事、妻と競馬に興じる様子などが二十の短編小説で描かれている。貧しい人が住む地区に住み、「空腹は良い修行」とご飯を食べずに街を歩き回り、競馬で泡銭を稼ぎ、刺激的な芸術家ガートルード・スタインとの交流やF・スコット・フィッツジェラルドとの二人旅などを通して、苦労しながらもヘミングウェイは強く生き抜いて行く。

パリには決して終わりがなく、そこで暮らした人の思い出は、それぞれに、他の誰の思い出とも違う。私たちが誰であろうと、パリがどう変わろうと、そこに辿り着くのがどんなに難しかろうと、もしくは容易だろうと、私たちはいつもパリに帰った。パリは常にそれに値する街だったし、こちらが何をそこにもたらそうとも、必ずその見返りを与えてくれた。が、ともかくもこれが、その昔、私たちがごく貧しく、ごく幸せだった頃のパリの物語である。

本の随所に街の地名や有名なカフェなどの名前が出てくるので、パリを訪れたことのある人は、自然とその情景が思い浮かばれることだろう。私もあの白く美しい、色と高さの統一された荘厳な街並みと、石畳の上を歩いた昔の日々を思い出し、懐かしくなった。甘くほろ苦い、もう二度と戻ってこない青春時代の舞台に、パリという街は相応しいのだろう。

もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。パリはa moveable feast(移動祝祭日)だからだ。

あと、本に出てくる、若い頃のヘミングウェイの嗜むフランスワインが、お金がないながらも質の高いものを厳選していたように感じた(シャトーヌフ・デュ・パプ、モンテリ、マコン、サンテミリオンなど)。笑

ちなみに、「移動祝祭日」とはキリスト教の用語で、クリスマスのように日にちが定められている祝日ではなく、その年の復活祭の日付に応じて移動する、キリスト昇天祭などの祝日のことをいう。また「どこにでもついてくる饗宴」という意味がある。



なおその後、かの有名な「老人と海」でヘミングウェイは成功を収め、1954年にノーベル文学賞を受賞する事になる。

しかし、高まる周囲の関心や押し寄せる原稿や取材に応えることができず、彼は疲弊困憊していく。不運な航空機事故にも遭い、病気にも悩まされたようだ。そして1961年、猟銃で自らの人生に終止符を打った。Mike Posnerの「I Took A Pill In Ibiza」の歌詞のごとく、芸術家は名声を得た後に苦しむとは良く言ったものだ。





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