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夢のはなし

こんばんは。
今週は陰山です。

先日の夢の話です。

私はひとり、暗いお堂の中にいました。
お堂の中には足の踏み場もない程に、小さな木の箱が所狭しと置かれています。
「何なんやろ、この箱」と思っていると、突然目の前に仏様が。
そして、仏様がその箱を持ち上げるとそれは金色に輝き始め、私に渡そうとしてくださいます。
その金色の箱を受け取ろうとした所で目が覚めました。

私は気持ちのアップダウンが激しいので、最近は鬱モード。
仏様が夢に出てきてくださると、すごい嬉しいはずですが「何やったんやろ、あの夢」ぐらいにしか思えませんでした。
そんな中でもゆるり考えていると、前日に組(本願寺派の地域毎のグループ)での研修会で「自力」と「他力」についてのお話をお聞きしたからかな?と思い始めました。

「自力」「他力」という言葉は、現代では「私の力」と「他人の力」というような意味で使われており、「他力本願」というと「人まかせ」の意味でネガティブに解釈するのが当たり前になってしまっています。

親鸞聖人は『唯信鈔文意』というお書物やお手紙の中でこの「他力本願」というお言葉を何度か使われます。
また、「本願他力」というお言葉も使われます。
どちらにしても、そのお言葉は阿弥陀仏のご本願の救いの力のことを指しており、他人の力ということでは決しておっしゃりません。

この「他力本願」というお言葉が、これだけ誤解されながらも世間で使われていることは、それだけ浄土真宗が世に広まったことを意味しているのかもしれませんが、一方で表面的にしか言葉を見れなくなっている私の愚かさも感じます。

言葉のこころを聞かせて頂くことが、その言葉が本当に私の支えになっていく言葉になるんだろうと思います。

研修会でご講師をしてくださった行信教校の星野先生は、
「他力とは阿弥陀様の本願力のことで、阿弥陀様が私を救ってくださる力のことです。」
とおっしゃってくださいました。

七高僧である曇鸞大師は『浄土論註』に

「願以って力を成ず、力以って願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力願相かなひて畢竟じて差わざるが故に成就といふ。」

と、他力とはご本願がご本願の通りに成就し、願い通りのお力をもったということであるとお示しくださいました。

また、星野先生は、親鸞聖人が他力とおっしゃる時には根本的には「他力」は「利他力」という意味で使われるんだとおっしゃってくださいました。
曇鸞大師は天親菩薩が著された『浄土論』というお書物に触発され『浄土論註』を著されます。
曇鸞大師はその『浄土論』を訳された菩提留支という方が『浄土論』以外のお書物では「他利」と「利他」という言葉を両方使われているが、『浄土論』においては「利他」という言葉しか使われていないということに気づかれ、

もし仏よりして言はば、よろしく「利他」と言ふべし。衆生よりして言はば、よろしく「他利」と言ふべし。今まさに仏力を談ぜんとす。この故に「利他」を以ってこれを言ふ。

とおっしゃられます。
「利他」とは「(自)利他」であり、「自」である仏が「他」である私を救ってくださるお言葉であると見抜いてくださいました。
つまり、「他力」とは「利他力」であり、「他」とは他人ということではなく、この私のことで、ご本願がご本願の通りに成就し、願い通りの力を持ち、この私を救ってくださる力であるということです。

浄土真宗は他力100%。自力は何の役にも立ちません。
私のいのちの意味と方向という一点においては、私の出来たことや分かったことは引き換えになりません。阿弥陀様におまかせするだけです。

ご本願をそのままお聞きすることを信といい、ご本願をそのままお聞きしてお念仏することを行といいます。
ご信心とお念仏は決して離れません。
「信なき行は不安の叫び。行なき信は観念の遊び。」
これも行信教校でお聞きしたお言葉です。
ご本願をそのまま聞かず、「これで大丈夫やろか。」と、どれだけお念仏しても安心しきれないのが信なき行。
「信心一つで救われるんやから」と、自分の頭であーだこーだ考えてお念仏しないことが行なき信。

自力は何の役にも立ちません。他力が、本願力が救ってくださるんです。
他力の信心、他力のお念仏です。

夢で出てきた木の箱はきっとお念仏やったんでしょうね。
どれだけ頑張っても、自力のお念仏はただの木の箱にしか見えないけれど、他力のお念仏はこの私を救うという本願力で光輝いている。
そんなイメージやったんでしょうかね。

研修会から夢にまで、有難い時間でした。

なんまんだぶ

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