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先日色々ありまして。

人生三度目、尻からカメラを入れました。

看護師さんに当日言われましたが、車で来ていると鎮静剤は使えないのですね。鎮静剤があっても痛かったのに、無しだとどれほど苦しいのか全くわからない。それでも車で来とるしどうしようもない。まあなんとかなるやろと思って、
「はい。じゃあ鎮静剤無しでするしかないですね」
と言うと
「本当にいいですか?」
本当にいいですかと聞かれても車で来ているんだからしようがないではないか。

そうして部屋を移動して、大腸を詳しく観察するために居残りしているものを下剤で押し出す作業に入ります。時間をかけてちびちびと美味しくない下剤を飲み込んで、もよおして、また飲んで、もよおして、飲み続ける。しかも出したものを看護師さんに確認してもらいながら。もう許してくれと思いながら、ハリー・ポッターのダンブルドアはこんな気持ちであの水を飲んでいたのだろうかと思わされます。彼は文字通り命懸けでしたけど、私の下剤だって命懸けだ。

2時間程で腸も空っぽになった様ですが、大きい病院でしたから、同じ部屋で同じ苦しみを味わう同士が数人いて、どうやら順番にカメラを入れられる様です。私は2番目でしたが、それでもだいぶ待っていよいよ診察台に寝ころがり先生を待てという指示を受けましたから、不安になりながら覚悟を決めます。待つ間に最初の看護師とは違う方が、「え?前は鎮静剤あっても痛かった?大丈夫かな?」と私の決心を鈍らせるけれども、もうどうしようもないのだ。
それでも「痛いけどゆっくり力を入れずに呼吸したほうが痛くないよ」と必殺技を教えてくれました。よしそれでいこうではないか。

待っている間に、「こがんして寝転がりながら覚悟ば決めた仲間がきっと壁を挟んだ隣の部屋におるとばいな、あ、でも最初ん人は鎮静剤の説明ばされよったけん私よりマシやっか」とか、「一日に何人もの大腸カメラをこなすなんて医者はなんて大変なんだろう。今日は何人入れたと医者同士で話したりするんだろうか。そういえば扁桃腺を取られた時も今日は5人中5人目ですと聞いてもないのに病院の人が言ってきたからきっと数えているに違いない。医者はきっと高いウイスキーを片手にそうやって一日を振り返るに違いない」とか馬鹿みたいなことを考えながら気を紛らわせていると、隣の部屋から
「うう…!」
「ああ…!」
と激し目のうめき声とバタバタともがく音が聞こえてくるではないか。
えー嘘やん鎮静剤入れる話してたやん。それでその呻き声なら私は一体…

で、始まったけれどもやっぱりとても痛い。しかも私の腸のカーブに手こずっているらしい。今きっと腸のこの辺に。とか思いながら、看護師さんに教わった必殺呼吸法で乗り越えようとするけど、やっぱり痛い。いつ終わるかもわからない苦しみに耐えて、なるべく力を入れまいと呼吸を繰り返すけれどもとても痛い。

そうやって苦しんでいると看護師さんが急に私のお腹を押さえ始めたんですよ。え?中でとんでもないことになっとるとに外からも痛めつけられると?と一瞬ギョッとしたんですが、これ、不思議なんですよ。何が不思議かって、痛いのは変わらない。変わらないんだけど、なんだか安心したんです。

痛みに耐えているのは私だけだけど、ちょっと気付いてみれば必死にカメラを通そうとするお医者さんと、それをサポートして私のお腹を押さえる看護師さん。多分看護師さんも安心させようと置いたわけではなくて、僕の腸にカメラを通すために押さえているんだけれども、あれ、俺一人じゃないなと急に安心したんですね。今日初めて会った人に安心させられるなんて不思議でしょう。


如来様は私のいのちの事情をご覧になって、仏となるべきものが何もない私のいのちの現実をご覧になって、願いを立ててくださいました。
お前を必ず仏と変えなしてみせるからね、必ずお浄土に生まれさせてみせるからね、お前の力は使わないのです、どうかお念仏をしてくれよ、お浄土に生まれるいのちと思って生きていってくれよと願い、そしてその願いのままにはたらき通しでいてくださるのが、この度私がご縁をいただいた如来様です。

大腸カメラに苦しみもがく私に看護師さんは手を置いて、その存在を私に教えてくださいましたが、如来様は私の声となって私のいのちにご一緒くださることをお選びくださいました。好きなものを好きと言うて追い求め続けることの何が悪いんじゃ、嫌いなもんを嫌いというて何がいけんのじゃ、としか思えなかった私に「お前は仏となるいのちを生きているんだよ」とお念仏となって私の心に響き続ける如来様がいらっしゃるんです。

そのお念仏が私の口にかかるからと言うて、決して私のいのちがピカピカになったり偉くなったりする訳ではない。きっとまた落ち込んで悲しんで苦しんで腹かいて、涙を流すしかできないいのちです。その現実は変わらないけれども、必ず私をお浄土に導き、育て続け、仏に変えなしてくださる如来様がこの私のいのちにご一緒くださる。そのことに安心をさせてもらうだけなんですね。

如来様のお取り次ぎをさせてもらう中に、どうしたら聞いてくれるだろうかとか、どうしたら伝わるだろうかとか、いろいろごちゃごちゃと考えることがある。あるけれども、もう私が言えるのは如来様がいらっしゃいますよということだけで、お話を聞いてくださる方々はそれぞれのご縁の中にきっと如来様と出遇っていかれるんだろうなと思いますし、私が世話せんでもこれまでもはたらき通しの如来様ですから、出遇ってこられたんだと思います。

昨年10月ごろから年末にかけてお取り次ぎの場で言葉が出てこないなと実は少し苦しんでいたのですが、相手が分かろうが分かるまいが、如来様がいらっしゃいますよとスッと言っていいんだなと最近また改めて思ったことです。前から分かってたはずなんですけどね。

また皆さん、今年も宜しくお願いします。

ナンマンダ

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