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「密室の女」・・・怪談。女は何を恐れたか?



『密室の女』

「怖い!」

エレベーターに乗り込んだ途端、中にいた女が口元を抑えながら
奥の壁に張り付くように下がった。

何が怖いんだろうと目線を追うと・・・どうやら私の事らしい。

狭いエレベーターの箱の中に男と二人きりになって
不安なのは、分からないでもないが、怖いと口に出すほどではないだろう。

私はちょっと不機嫌な気分になったが、女に背を向けて行先階のボタンを押した。

『俺の顔に何かついているのかな』

磨かれた操作パネルに映る自分の顔を眺めてみるが
特に変わったことは無い。肌も奇麗だし、髭剃り跡もきれいに整っている。
もちろん、ナイフや棍棒を持って乗り込んでいるわけではない。

ランチだって、午後に取引先との打ち合わせがあるから、
匂いの強いものは食べなかった。

『俺じゃないな』

と安心した途端に不安になった。

『俺自身じゃないとしたら、何が怖いんだ。
自分には見えていない何かがいるというのか』

俺はパネルに移る自分の顔をもう一度見つめた。

「あ!」

マスクをしてない。
大急ぎでポケットから取り出し、口に当てた。

ランチの時に外してそのままだった。マナー違反ですみません、
と心の中で謝っていると、後ろからすすり泣く声が聞こえてきた。

恐る恐る振り返ると、後ろの壁に張り付いていた女が肩を震わしていた。

『そんなに怖かったのか・・・』

と思った時、女が話し出した。

「ごめんなさい。私、変ですよね」

「いや。何かあったんですか?」

「私、先週2回目のワクチン打ったんです。
それまで、仕事もリモートばっかりだったんで、今日久しぶりに外に出てみたんですが・・・。
あなたが乗ってきた時、お互いマスクもしてるし、
ほらこのエレベーター大きくて、あなたとの距離も1メートル以上あるし、
ほんの少しの時間なら大丈夫、心配なら息を止めていればいいんだって分かってるのに、『怖い』って思っちゃったんです」

「見た目に問題があった?」

「いいえ。あなたじゃありません。怖かったのは、私自身です」

「あなたが?」

「ええ。いつのまにか、他人を危険な物として見てしまっている自分です。
自分の考えなんです。
わずか1年ほど人と会わなかっただけで、私は人を信じられなくなっていた。
そんな風に変わってしまった自分が怖かったんです。どうしてこんなことに・・・」

そこまで言うと女は、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。

俺は何も言葉を返せなかった。

せめて、『あなただけじゃないですよ』と優しく返すことが出来れば
彼女は救われたかもしれないのに。

俺はその時、女の告白を聞きながら、数日前の事を思い出していた。
同じように久しぶりに外に出るのが怖かったのだ。
人と会うのが不安だった。
だけど、仕事をしているうちに、忘れてしまった。

日常の中で怖くなかったものが、
引きこもって生活するうちに以前の生活は忘れて怖くなり、
再び外へ出るようになると、その恐れを忘れてしまう。

元に戻ったと言えば、それで済むのかもしれないが、
自分の感覚や考えが、まるで誰かがスイッチを切り替えているように
ここ一年の間で180度変わったのだ。冷静に考えると恐ろしいことだ。

自分の変化に慣れることなく、違和感と恐れを感じているこの女が正しいのか。それに慣れてしまった自分が正しいのか。

一階に着くまでの時間が異常なまでに長く思えた。
エレベーターが一階に着いてドアが開くと、俺は泣いている女を置いて外に出た。

ビル街の上に、厚い雲が重くのしかかっていた。

俺は昔見た映画を思い出した。

それは、モノクロの安い作りのホラー映画で、ストーリーは欠片も覚えていないが、エレベーターの中にマスクをした人間が何十人もびっしり詰まっている場面だけが印象に残っている。

その時は、白いマスクがとても恐ろしく思えたが、
今は逆になってしまったようだ。

「変わってしまったな・・・」

人ごみの中を歩きながら、俺は少しめまいを感じていた。

                  おわり





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