本を後ろから読んじゃう癖と増上慢。
雑誌なら本当に最終ページから、普通の本なら最終章やあとがきから読んでしまう癖がある。
これは、本当に意味が分からない。何か信念のようなものがあってそうする訳ではない。なんとなく試し読みするときに、なぜか後ろを開いてしまうのだ。後ろの方には、コラムやおまけが置かれることが多く、その面白さに味をしめたのかもしれない。
何か知りたいことがあって本を読むときは、もちろん目次を見る。そしてその目次から、得られる情報を想像し、期待してそのページを開く。図書館で情報を収集するときは、それが手っ取り早い。そういうとき、本は使い捨てだ。
それとは別に、何か情報を求めて本を探すとき、参考文献が書かれているかどうかを、最近気にするようになった。
作者は、本当に作者発の考えだけを、本に記すわけではない。何かを読んで知ったことを書くことがある。引用もするだろう。
しかし、何らかの実験や資料に基づいているであろう「情報」は書いても、それを知るに至った「経緯」や「文献」は書かない人がいる。「学者」なら論外だが、学術っぽいことをたまたま書いてみたという「作家」には、その観点がないことがある。
だからこそ、私は本を手に取る度に後ろを開いてしまう、あべこべな人間になってしまったのだ。
小説執筆と論文執筆は、まるで違う。いわば、畑違いなのだ。いくら共通点を見つけられようとも。
それを知ってか知らずか、その違いを無視して書き進めてしまう人がいる。彼らが子供や学生や素人なら、読者も疑えよう。しかし、作家さんでは難しい。
問題は、作者が分かっているか否かではない。読者が気づけるかどうかだ。その読者は、次の作者になる。次の作者が、前人を踏襲し、曖昧だけども形や言葉づかいは立派で、一見論理的に見えてしまうような文章を書いてしまうと、前作今作共に読んだ人には、それが「記述の常識」になってしまう。
そうすると、どうなるか。
自分でもその文章が書けてしまうことに気づく。その程度で良いのだ、と勘違いする。
権威という立派な城には、増上慢を育てる気風が満ちている。
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