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『天辺の糸』

『蟲師』(むしし)は、漆原友紀による日本の漫画作品、およびそれを原作としたアニメ、実写映画、ゲーム作品である。(Wikipediaより)

『天辺の糸』は、漫画なら第6巻。アニメなら第19話になります。

大好きな『蟲師』のなかでも、とりわけ好きな作品。


ちなみに、今ならばアニメ『蟲師』を無料で見ることができるようです。
dTV」か「FOD」。
どちらも登録をするだけで見られる。登録すると月額料金が発生しますが、どちらも30日ほどは無料お試し期間が設定してあって、無料期間内に解約すると――デジタルネイティブには説明不要の知識でしょう ♬


『天辺の糸』は、「知る」ということを知る、あるいは「考える」ということを考えるのに、好適の素材です。


・あらすじ&解説

以下、ネタバレ全開で行きますので、まず作品を楽しみたいという方は、「dTV」か「FOD」へ行って、楽しんで来てください ♪


清志郎の家につとめる手伝いの吹(ふき)は、時折他の者には視えないモノが視えていた。 ある日、空から垂れる白い糸を掴んだ吹は、そのまま吊り上げられるように宙に放り上げられ、清志郎の目の前で姿を消してしまった。

山越えの途中、ギンコは高い木の上に座り込んだ記憶のない娘を拾う。暫くギンコに連れられ旅するうち、吹は人としての意識を取り戻す。 記憶が戻り、働いていた村へと帰るものの、彼女は蟲の影響を随分と受けてしまっており、時折身体が浮いたり透けたりするようになっていた。 吹を伴侶とにする決意をした清志郎に対し、吹を人に留める為には人でありたいと思わさせることだ、とギンコは助言するが・・・。

上の文章はコチラ(←クリック!)よりお借りしました。

この話のポイントは、「人でありたいと思わさせること」。少し固い言い回しに「吹に自己肯定感を与える」ことです。

引用のあらすじの書きようからも察しが付くでしょうが、清志郎は最初はそのことに失敗します。

清志郎は吹に思いを寄せていた。吹が蟲に捕まって森をさまよい、ギンコに救出されて里へ戻るも、吹の代わりの者はすでに雇われてしまった。里に吹の居場所はなくなった。清志郎は決意を固めて、吹にプロポースをする。

ここまではよかった。でも、清志郎の父親は結婚を認めない。それで吹は肩身の狭い思いを強いられるようになる。

清志郎は吹の肩身の狭い思いを慮ってやることができなかった。

清志郎は吹と結婚したい。
吹も清志郎と一緒になりたい。

ふたりの思いは一致をし、ともに同じ「希望」を抱いている。清志郎は吹を慮ることよりも「希望」を優先した。そしてそれは、吹とても同じだった。

結婚を認めてもらえさえすれば、もはや慮る必要はなくなる。今を耐えきれさえすれば、「希望」をつかむことができる――ありがちな【希望の罠】です。ギンコはこの【罠】を心配して、わざわざ清志郎に助言をした。

吹の体が浮いてしまうのは、フィクションとしての「設定」では蟲の影響ですが、その設定を通して表現しているところは、吹の心の不安です。【希望】にとらわれ、心の不安を置き去りにしてしまった結果、吹は姿を消す。つまり、吹は自分をなくしてしまう。


再訪し状況を知ったギンコは、清志郎に言い放ちます。

「だれよりアンタが、今の吹を受け入れられずにいるんだな」
「アンタが吹を否定したから、吹は人の姿を保てなくなったんだ」

清志郎は言い訳をしてはいます。

「オレは努めたさ。まわりの者に吹を受け入れてもらおうと...」
「だが、吹があんなさまでは...」

清志郎は吹を里の者に認めてもらうことができる人間、つまり「社会人」としようとは努めた。けれど、生き物としての「人」と生き物ならざるものである「蟲」との間でいきているギンコは、そういうところは眼中にありません。「(社会人以前の)人」として、受け容れてやれと言い、受け入れらていないと指摘をします。


・文明人は「社会人」として生きることの方が大切!

ぼくたちは文明人です。文明に依存してこの世界の中で生きながらえています。

『天辺の糸』の物語において、清志郎は文明人に相当するでしょう。明示はされていないけれど、清志郎の家は里の実力者の家。吹を子守に雇うことができるだけの財力がある。清志郎は農作業にたずさわらなくても食べていくことができる。夜中に天体観察などと現を抜かしていられる「ご身分」です。

その代わりに清志郎は、実力者の家の人間として振る舞うことを要求されていることも予想される。吹は嫁にふさわしくないと父親が拒むのも道理ではあるでしょう。

大地と交わる農民は、文明人といってもまだ自然人の要素があるといえるけれど、清志郎は、われわれと同じく、文明の中でだけで生きていくことができる。そういう人間にとっては、「(動物としての)ヒト」であるよりは「(社会人としての)人間」であることのほうが大切です。なぜなら「人間」であることが文明の中で生きていく条件だから。

たとえ、それで生きづらくなったとしても。


一方、ギンコは、「ヒト」としても危ういところのあるキャラクターです。吹もまた、蟲との接触で「人」として危ういところへ追い込まれた。

だからギンコには、「ヒト」であることの大切さの本当のところがわかる。「人間」は見失ってしまいがちな「ヒト」としての本当のところ



・ファンタジーの効用

といって、文明人が「本当のところ」を完全に見失ってしまっているかというと、そうではありません。ファンタジーに惹かれるということ自体が、完全に見失ってはいないことの証拠です。

『蟲師』の場合、ファンタジーをファンタジーたらしめている「設定」のキモは「蟲」という架空の存在です。この種の「設定」には実にさまざまなものがあることは指摘するまでもないことですが、そのどれもが「人間」と「ヒトでないもの」との狭間に「設定」がなされています。

「ヒトでないもの」が「ヒト」のように振る舞い人間とコミュニケーションするけれども、「人間(社会人)」ではないのでかえって「ヒト」としての本当のところが浮き彫りになってくる――これが、ファンタジーの王道というものでしょう。

『蟲師』のギンコは、「ヒト」ではあるけれども「蟲」の世界に半分足を踏み入れているという形のバリエーションだと言えます。



・アナロジーから知る!

ギンコの指摘を受けた清志郎は困惑します。

「吹をこのまま失いたくなければ、受け容れてやれ」
「受け容れろったって、見も触れもできないものを、どうやって...」

「見も触れもできないもの」とは、〈こころ〉のことでしょう。


困惑し考えあぐねた清志郎は、星空の下で交わした吹との会話を思い出します。

「清志郎ぼっちゃんは、どうして星ばかりみているんですか」
「う~ん、なんだろな、昼間やなことがあっても、星はいつも同じように現れるだろう? そういうの見てると、不思議と落ち着くんだよな」
「私も...、嬢ちゃん泣き止んでくれなくて悲しいとき、星を数えて紛らわすんです。だから、明るくなってくると、なんだか淋しくなる。だんだん数が減っていって、気がつくとひとつもいなくなっている。みんな、昼間はどこへ行ってしまうんだろか」
「バカだな、吹。昼間だって星は、ホントは空にあるんだぞ。日の光が強いから見えなくなるだけで、本当はちゃんと空の上にあるんだ」
「どこにも、いかないんだ。見えなくても、ずっと空に居るんだ!」


昼間に星が見えなくなることと、吹が見えなくてもいることとの類似性。ここに気がついた清志郎は、ある決意をします。

以下、ギンコのナレーション。

「それは、実に奇妙な光景だったと人々は言った。急遽執り行われたその祝言には花嫁の姿はなく、それでもなお、花婿は花嫁がいるかのごとく振る舞った。そんな姿をみて人々は、婿の方までおかしくなってしまったのだとささやいた」
「やがて、男はその里の外れにひとり居を構えたという。あいも変わらず、いない嫁に語りかける男の姿に、里の者はやがて近寄らなくなったという」
「けれど、やがて」
「人々は吹の姿を見るようになり、その後は、吹の姿を消す癖は、もう二度と出なかったという」


・「知ること」は「受け容れること」から始まる!

清志郎の「いない(見えない)嫁に語りかける姿」は「考えること」に似ています。

星空のアナロジーから吹が未だに存在することの確信へと至った清志郎。確信を得、受け容れることはできても、今だ姿が見えないことには変わりはない。

だから、語りかける。
存在すると信じて、存在するものとして。
周囲の者に奇異に見られようとも。

そうすると、やがて、見えてくるようになる。

見えるようになれば、それは「知ること」になります。見えていれば、やがて、周囲の者も気がつくようになる。


・東洋の知

アナロジーから「知る」ことが始まるのは、人間(ヒト)が持つ想像力のおかげでしょう。

想像は身体に作用をする。想像の作用を受けた身体が、頭脳では煮詰まってしまっていた思考をブレークスルーさせる。人間(ヒト)はそのようにできていて、東洋の知はそこにすでに気がついていたけれど、西洋の知は最近になって気がついた――、それが「マインドフルネス」の流行です。

西洋の知は「知ること」が実は身体的だということは把握していなかったけれども、「知ること」が(人間として生存するにあたって)有利になるような社会制度の方は、東洋に先駆けて作り上げた。資本主義がそれです。

イノベーションは、資本主義を前進させていくエンジンのようなもの。そして、広く知られているように、イノーベションは社会の常識に囚われていてはなかなか起きない。常識を打ち破っていくことができないとイノベーションは起きない、つまり、イノベーションの起こす人間はたいてい常識外れな振る舞いをしてしまう。見えない嫁と祝言を挙げる清志郎のような。


『天辺の糸』において、清志郎が為したことは、ある意味ではイノベーションです。とはいうものの、ちっとも資本主義的な匂いはしません。「清志郎のイノベーション」は〈しあわせ〉を生みます。けれど「利潤」を生むような気配はありません。

それはもちろん、ファンタジーとしての「設定」に拠るところが大きいといえます。

だが、果たして、架空の「設定」だけなのか? 
ここは考える価値があるところだと思います。

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