新人教育への〈アプローチ〉

偉そうなタイトルをつけましたが、もとよりぼくは専門家ではありません。コンビニでアルバイトをしているロクデナシのおっさんです ♬

まあ、そんなおっさんでも、ちょいとばかし長目に仕事を続けていると「新人教育」なるものに接する機会も出てきたりします。コンビニなんてアルバイトの入れ替わりが激しいですしね。


今回は、ぼくが実践している新人教育の話をさせてもらいたいとおもいます。

が、その前に。御託をひとつ。


†「スキル」ではなく「アプローチ」

ぼくは“スキル”という言葉が嫌いです。正確に言うと、“スキル”という言葉が用いられることになる文脈が嫌い。

”勉強”という言葉が嫌いなのと、理由はほぼ同じです。

といって、嫌いだから“アプローチ”に置き換えるというわけではない。一応、理由はあります。


理由 その1:
コンビニのレジ打ちにはスキルというほどのスキルは要らない。

身も蓋もありませんが、そういうことです。でも、これは本質的な理由ではない。

理由 その2:
にもかかわらず、レジ打ちをスキルだと捉えようとする【アプローチ】が新人の学習を阻害している。

「その2」は、ぼく自身の観察と体験に基づいた結論です。



† 新人は【教育】を施すよりも〈学習〉を促した方が成果が速く出る

言葉にすると当たり前のことのようですが、その当たり前がなかなかできない。どうしても【教育】をしようとしてしまって、新人の〈学習(意欲)〉を阻害してしまいます。

〈学習を促すアプローチ〉に必要なのは、たったひとつのこと。それは、

上機嫌でいること

です。ほんとうに、これだけ。


具体的に記してみましょう。以下のような感じ。

愚:コンビニのレジは知っているよね?
新:わかりません
愚:でも、コンビニで買い物はするでしょ?
新:それはします。
愚:だったら、どんなことをするか、だいたいイメージのイメージはあるよね?
新:はい。
愚:だったら、まあ、知ってるってことだよ。

ポイント1:「否定」を「肯定」に覆す。

愚:じゃあ、確認のために、少し横で見ていてください。
(実演をしてみせる)
(言葉での説明はいっさいなし)
(10も実演を見せたら、新人をレジに立たせる)

愚:では、やってみてください。
新:え? もうですか?
愚:大丈夫、へーき、へーき ♪
新:自信ないんですけど...
愚:最初から自信がある人はいません。間違ってもいいから、とにかく。間違えてもいいように、ぼくがいるわけだし。

ポイント2:とにかく実践させてみる。

ポイント3:新人の緊張に気配りして、緊張をほぐすようにサポートする。
・間違いは、黙って訂正する。
・間違いのサインは、言葉ではなく肩を叩くなどする。(間違いの指摘の言葉はどうしても「否定」の言葉になって、新人を緊張さてしまうから)
・訂正は素知らぬふりでやる。目線を合わさない。**
・**訂正なしでできれば、「できたね ♪」「よし!」などと声を掛けて、目線を合わせる。大袈裟には褒めない。
・「気配り」は「注視」になってしまうと緊張がほぐれないので、自身も作業をしながらサポートする。具体的にはとなりで商品の袋詰めなど。
・新人の緊張がほぐれてきたと感じたら、物理的に距離を置く。少し離れた場所で作業するなど。

ポイント4:物理的に距離ができても、心理的な距離は遠くならないように気配りをする。新人が間違えた、あるいは困っている状態をいちはやく察知して、教育係の方から物理的距離を詰めて対処する。

ポイント5:物理的な距離を新人の方から詰めてきてくれるようになれば、〈教育〉はほぼ完成で、自発的な〈学習〉が始まる。

新:(こちらにやってきて)愚慫さん、これどうしたらいいんですか?」
愚:「はいはい、これね」(一緒にレジへ向かう)

困ったことに遭遇したときに自発的にヘルプを求めることができるようになり、ヘルプに応える体制ができていれば〈学習〉は難なく進んでいきます。

自発的な〈学習〉が始まり出すのには、もちろん個人差はあります。ぼくの経験値でいえば、短くて30分、長くて2時間。


こういった〈教育〉は、コンビニのレジなどに用いられているPOSシステムがとてもよく出来ているということが大前提としてある。複雑な手順が必要な作業だと新人が成功体験を積み上げるのに時間がかかるので、そう簡単に〈自発的学習〉が始まるところにまで到達はしないでしょう。

けれど、これは逆にいえば、誰でもできる簡単なことのはずなのに、なぜ、教育に時間がかかってしまうのかという疑問を提起します。同時に、

この疑問がなぜ提起されないのかという疑問


も提起される。後者の疑問の方がより本質的な疑問です。後者の疑問への回答が、「スキルではなくアプローチ」。



† 【教育】は大義名分でしかなく、実態は「自己顕示」である

なにごとを為すにもスキルは必要です。必要だから、涵養されなくてはいけない。

“涵養”と書いたのは、スキルは自発的に獲得されていくのが理想的だからです。

けれど、その理想は【不機嫌な者】にとっては都合が悪いものです。新人に自発的にスキルを獲得されてしまったのでは、自己顕示の機会が失われてしまうから。


【不機嫌な者】の中にも、【不機嫌】を抑制できる(理性的な)者と、抑制できない者とがいます。

抑制できない者が施してしまうのが、ハラスメントです。相手を言動で否定してしまう。新人にはそれが許されるという大義名分は敏感に察知をし、実行に移す。

理性的な者は【不機嫌】を隠蔽しようとします。隠蔽の反動が「褒める」という振る舞いになる。そして、新人を直接否定しはしないけれども(スキルなどを)顕示することによって間接的に一時的に否定してしまう。「褒める」という行為は、間接的な否定を隠蔽するための行動です。


身体は文明人が考えている以上に敏感です。理性によって隠蔽を施され、頭脳を欺すことはできても身体は誤魔化せません。動物や子どもや女子が嘘を見抜くのが上手なのは、彼らは頭脳より身体の方がずっと賢いからです。


† 人不知而不慍 不亦君子乎

未熟な者、未習熟の者はそのままでは役に立ちません。役に立たなければならない生存していくことが(社会的に)許容されない環境は、役に立たなければならないという強迫観念に縛られている【不機嫌な人間】を生み出し、【不機嫌な人間】は未熟な者・未習熟の者に対して自ら抱えた【不機嫌】を抑制することができない。隠蔽はできても、完全に抑制することができません。


上では、あたかも抑制ができた振る舞いをぼくはしているように書いてしまいましたが、正直なところ、「作文」も混じっています。

あるいは、「スキル」だと言ってもいい。

自然な振る舞いとしてそうなっているのではなく、理性を働かせた結果のスキルとして、そのように振る舞っている。そこには「我慢」が混じっています。


理性的な我慢を要求するような身体の状態を、(下掲書の解釈に従うならば)論語では「慍」という語で表現しています。


「慍」は論語の冒頭、学而第一に登場します。

子曰
 學而時習之 不亦説乎
 有朋自遠方來 不亦樂乎
 人不知而不慍 不亦君子乎

上段は〈学習〉の定義を。
中断は〈学習の悦び〉を。
下段は〈学習〉をサポートする者を、それぞれ表現している。

未熟な者、未習熟な者に対して【不機嫌】にならない人間を指して、孔子は“君子”と言っている。

君子とは対照的な人間が“小人”です。スキルがあっても【不機嫌】な人間です。小人が困るのは〈学習〉を妨げてしまうから。

でも、小人だって望んでそうなったわけではない。学習への【阻害】に打ち克ってスキルを獲得したからこそ、打ち克てない人間が許せない。それはそれで合理的ではあるのです。

その「合理性」がハレーションを起こしてしまって困ったことになっているが、今の日本でしょう。なので、こういった話になる。


不機嫌な話になってしまいました。せめて最後に上機嫌なお話を紹介して、〆にしたいと思います。


感じるままに。