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予習 成田悠輔×東浩紀「民主主義に人間は必要なのか──『22世紀の民主主義』vs『一般意志2.0』」の前に


成田悠輔×東浩紀 対談す

成田悠輔氏と東浩紀氏が11月28日に対談する。放送チケットは下記のリンクから購入することができる。

成田悠輔氏は、イェール大学に所属する経済学者で、データ分析やアルゴリズム開発を研究に取り入れている。現在、テレビやネット番組など、様々なメディアで活躍している。初の日本語での単著として、今年2022年に『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』を発表した。

東浩紀氏は、2001年の主著『動物化するポストモダン』を皮切りに、ゼロ年代の論壇を牽引してきた。そして、2011年に『一般意志2.0――ルソー、フロイト、グーグル』を発表している。成田氏の『22世紀の民主主義』には、注で『一般意志2.0』についての記述があり、本の内容を見ても、『一般意志2.0』は少なからず成田氏の著書に影響を与えているようだ。

成田氏は現在30代である。奇しくもゼロ年代は、東氏のちょうど30代のキャリアに当たる。その頃、東氏も様々なテレビやニコニコ生放送の番組などに出演しており、スタイルは全く違えど、現在の成田氏の活動を思い起こさせる。

つまり、日本にルーツを持つ二人の知識人が、活動のタイミングこそ違えど、「情報技術の発展によって政治の形態がどのように変化するか」という著作を30代で発表したことになる。また、様々なメディアに出演するという活動の仕方も、2人の30代のキャリアには、どこか似ているところがあり、興味深い。この2人がどのような議論を対談で展開するのか、非常に楽しみにしている。対談を満喫するために、二人の著作を読み、ここで予習をしたいと思う。予習するのは『一般意志2.0――ルソー、フロイト、グーグル』、『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』、『ゲンロン13』の東浩紀氏の論考『訂正可能性の哲学2、あるいは新しい一般意志について』の3冊である。

一般意志2.0ー未来社会についての夢

『社会契約論』で有名なジャン・ジャック・ルソーが提唱した一般意志という概念について、東氏が新しい視点から再解釈しようと試みたのが『一般意志2.0』である。

ルソーによると、人間が個別に持っている意志を特殊意志と呼ぶ。特殊意志の総和(私的な利害の総和)は全体意志と定義される。これは今の感覚で言うと、世論や民意に近い。現代人の感覚からすると、民主主義に基づく統治において、政治が世論によって行われるのは当然だと感じられる。

ところが、ルソーは、全体意志は誤ることがあるので、政治は全体意志に従うべきではないと説く。では。政治は何に基づいて意思決定をすればよいのか。ルソーが言うには、その解答は一般意志という、全体意志とは異なる概念だという。

ルソーによると、一般意志は決して誤ることがないので、立法者は一般意志を体現し、全体意志で誤った判断をする可能性がある人々を正しい方向へ導く必要があると説く。では、一般意志とはなんなのか。それは、特殊意志から相殺し合うプラスとマイナスを取り除いた際の差異の和だという。東氏の表現を借りれば、全体意志は特殊意志のスカラーの和、一般意志は特殊意志のベクトルの和である。

そうは言っても、なかなかこの一般意志は理解がしづらい。東氏は様々な角度から、一般意志は何なのかをあぶり出そうとする。その中で、一般意志に対応する概念としてフロイトの無意識を提示する。フロイトはルソーの死後に登場した人物なので、ルソーがフロイトの考えに基づいて一般意志を提唱した訳では無い。なので、これは未来からの一般意志の読み直しである。一般意志と同じく、無意識は自分自身で知覚することができない。立法者のみが人々の一般意志を知覚できるように、他者(精神科医)の介入によってしか人々は無意識を自覚できない。このような符合から、最終的に東氏は「無意識民主主義」を提唱する。

情報技術の発達によって、インターネット上でプラットフォームを運営するIT企業は、人々の意志をデータベースとして持っている。無意識民主主義が機能する時のリソースはこのデータベースである。グーグルの検索サジェストや、アマゾンのレコメンド機能などはその例である。現代は人間の活動が常に記録されている「総記録社会」である。人々の意志がモノ(データ)に変えられ、利用される。このモノとして集合した意志のデータベースを、東氏は「一般意志2.0」と名付けた。ルソーの一般意志がそのままデータベースである訳ではなく、あくまで拡大解釈した一般意志2.0として東氏はデータベースを考えてる。一般意志2.0は市民の明示的な意識ではなく、無意識の欲望の蓄積である。

なぜ一般意志2.0が有用なのか。それは端的に言えば、現在の民主主義が危機に陥っているからである。アーレントやハーバーマスなどの政治哲学者は、政治には市民間の討議が欠かせないと説いた。それは、私的な利害を調整することも大事だが、それよりも、その過程を経験することそのものが公的判断の基盤になると考えたからである。しかし、これは共に議論の落とし所を探るコミュニケーションが可能な人々を想定している。テロのような反コミュニケーションには答えることができない。また、私的空間を重視し、社会全体を見渡そうとする人が少なくなった現代では機能不全を起こす。なので、現代的・技術的制限を見極めながら、公共圏的なものを構築するためのアーキテクチャを考えることがベターなのではないかというのが東氏の提案である。

重要なのは、東氏の提案する一般意志2.0の使い方である。東氏は市民の無意識をすくい上げながら、専門家の熟議を成立させることを考える。熟議を否定しないのである。現代社会は自分自身を認識するために、国家とデータベースという2つの手段を持っている。国家は熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議の論理によって抑え込む。

なぜこのような政治形態を東氏が提唱するか。それは歴史的な反省に基づいている。ルソーの提唱する一般意志に従う政府による政治は、独裁国家の誕生や人権侵害などの歴史的な反省から修正されねばならない。大衆の欲望を徹底的に可視化し、制約条件として受け入れながらも、意識的な熟議を行う国家。熟議とデータベースがお互いを補い、時に衝突しながらよろよろと進む。そのよう政治形態を東氏は提唱している。

情報技術による無意識のデータベースによる政府という論理展開も残せたと思うが、東氏は旧態依然の熟議による国家感を残した。そして、最終章は新しい政治形態によって「人」が変容するような期待を込めた文章で終わっている。情報技術によって地理的な制限に関係なく、ネット上で人と知り合い、いつの間にか政治に影響を与えたり、ある場面では選良になる「人」が出てくることを当時の東氏は願っていたようだ。

22世紀の民主主義ー放言か予言か

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成田氏によると民主主義は情報技術の発達によるインターネットやSNSの普及に伴って劣化してしまった。成田氏はV-Demという民主主義の調査プロジェクトのデータを用いて、民主主義国家であればあるほど、以下の4つの指標が悪化していることをグラフで示している。
1. 政党や政治家によるポピュリスト的言動
2. 政党や政治家によるヘイトスピーチ
3. 政治的思想・イデオロギーの分断
4. 保護主義的制作による貿易の自由の制限
21世紀は、この民主主義の劣化によって、民主主義的な国ほど経済が悪化していることも、データから成田氏は示している。
ただ、成田氏は情報技術の発達そのものが悪だとは考えていない。情報技術が大きく変化したにも関わらず、選挙の設計と運用が変化していないことが問題だと考えている。

そこで、成田氏は仕組みを「いじる」方法を主に4つ提案している。
1. SNSやウェブメディアに制限をかける
SNSなど多方向的に発信・受診ができるメディアに速度制限や人数制限をかける(量の規制)。発信する情報カテゴリーごとに課税を行い、コミュニケーションをとると危険だと判断される人同士はブロック・ミュートする(質の規制)。ただし、これは言論の自由と表裏一体なので、透明性の高いルールやアルゴリズム設計が必要である。
2. 政治家への長期成果報酬制度
政治家が短期的な目標にばかり目を向け、ポピュリズムを増進しないように、政治家が退任した後の未来の成果指標に応じて引退後の成果報酬型年金を出す。ただし、様々な、かつ長期的な成果指標を見定めたり組み合わせたりする必要があるので、なかなか実現は難しい。
3. 選挙制度の改革
国会議員に定年を設け、未来に責任感のある世代を選出できるようにする。世代別選挙区・投票者の平均寿命による票の重み付け・選挙権のない子供の代わりに親が投票する権利・マイノリティのみが投票できる選挙区を導入する。ただし、各種世論調査を見ると、必ずしも若い世代が未来に責任を持った行動や、文化的に思慮を巡らせているわけではない。
4. 投票装置をユニバーサルデザインにする
投票方法を、現在の投票所へ行って候補者・政党を書くという方法から、よりユニバーサルなものにする。識字率が低くなりがちな貧困世帯でも投票できるように、分かりやすいデザインの電子投票装置を導入する。しかし、既存の選挙制度で当選している国会議員が自ら選挙制度を変えるかは疑わしい。ここで、「選挙で何かを決めなければならない」という固定観念を捨てる方向へ、成田氏の論は展開していく。

成田氏は、提案をしながら、自らの提案に疑義を示すような論調を展開する。上記「仕組みをいじる」以外の提案も成田氏は示している。詳細は実際に成田氏の著作をご覧いただきたい。重要なのは、「選挙で何かを決めなければいけないという固定観念」を離れ、「選挙なしの民主主義」をどう実装するかについて成田氏が話を広げることである。

驚くべきことに、そこで成田氏は東氏と同じ「無意識民主主義」という言葉を提案する。そこで成田氏が構想する無意識民主主義のリソースは東氏が提唱したデータベースとは少し違う。成田氏が具体的にデータとして挙げたのは、選挙で投票した人の属性や投票の経緯の記録、会議室やオンライン会議の発言の記録、監視カメラやマイクのデータである。東氏が人々のネット上の言動から一般意志2.0を可視化しようと試みていたのに対し、成田氏は人々の日常的な言動から一般意思(恐らく一般意志と同義だが、成田氏は一般意"思"と呼んでいる)を導こうとしているように見える。

また、成田氏の無意識民主主義では、データベースに対する依存度が一般意志2.0とは全く異なる。成田氏によれば、精緻な意思決定アルゴリズムによって、データベースから自動的に解決すべき無数のイシューや論点の目的発見がされ、さらにその解決策まで提示・実行されるという。意思決定アルゴリズムに長期成果指標を持たせることで常に未来志向の結果が誘導され、機械学習によってその精度は上がっていく。

また、各イシューごとに、誰の意見にどれだけ影響力をもたせるか(票の重み付け)も自動的に調整されるため、多数派が優遇されることもなくなるという。目的発見も意思決定も完全に透明・公開されたアルゴリズムで行うため、全てにエビデンスがあり、人間は機械の指導に従って行動するようになる。つまり、政治の意思決定から人間が退場する。

副題の「政治家はネコになる」とは、ここから来ている。つまり、政治の意思決定から人間が退場するので、政治家の役割は政策が失敗した際のサンドバッグになるか、成功した時の愛されキャラになるかくらいである。だったら、ゴキブリやネコに政治家をやらせたっていいじゃないか。いや、むしろ仮想のVtuberにその役目をやらせたっていい。どうせ今だって政治家は責任なんてとれてないのだから、あくまで表面上のストレス解消や共感のために政治家がいればいいというのが成田氏の主張である。以上の主張を「民主主義」と捉えることは難しいと考える人もいるかもしれない。しかし、成田氏は民主主義の概念は時代と共にこれまでも変化してきており、無意識民主主義もあくまで民主主義の一形態であると考えている。

成田氏はこの本のあとがきで、実践が伴わないビジョンに寄り過ぎた論になっていることを認めている。私も正直に言って、多くの疑問点がある。ただ、成田氏のような学者にはこれくらい大風呂敷を広げてもらって良いと思っている。ここで書かれていることは、起こるとしても恐らく何百年単位の時間を経て起こる変化だろう。東氏の一般意志2.0も、ルソーの一般意志の提唱から250年の時を経て再解釈されたものなのだ。未来はどうなるか、誰にもわからない。

ゲンロン13ー訂正可能性の哲学2、あるいは新しい一般意志についてー固有の生を考える

今年2022年10月に発売された『ゲンロン13』という東氏が編集長を務める批評紙に、東氏自らの最新の論考が掲載されている。そこでは、下記のような宣言がなされている。

情報技術が民主主義を危機に陥らせたのではない。人間の愚かさが民主主義を危機に陥らせた。だからぼくたちは、情報技術を活用し、政治の場から人間を追放することで逆に民主主義を救わなければならない。ぼくはのちこのような思想を「シンギュラリティ民主主義」と名づける 。
本論は、そんなシンギュラリティ民主主義に抵抗し、あらためて政治と人間の価値を擁護するために書かれた論文である。

ゲンロン13 56ページ

東氏は「シンギュラリティ民主主義」という新しい言葉を提唱している。それを批判するために、改めて東氏はルソーを読み返している。それも、ルソーの哲学者としての側面だけでなく、文学者や陰謀論者としての側面にも触れ、とても深く読み返している。また、一般意志2.0でシンギュラリティ民主主義に沿った論を展開してしまったことを反省し、だからこそ自分がルソーから人間の価値を導き出そうと試みている。

ルソーの社会契約論を読むと、一般意志とはビッグデータのことであるという導きは可能である。つまり、民主主義のアップデートとしてのシンギュラリティ民主主義というのは帰結として導かれうる。シンギュラリティ民主主義は人民の意志を大切にしながら、むしろそれゆえに、政治的意思決定から人間を追放する思想である。しかし、端的に下記のような問題点がある。

  • 数学的に本当にビッグデータから資源配分が計算できるのか

  • ビッグデータから導き出された人々の欲望は倫理的に肯定すべきものなのか

  • 政治的な意思決定の場から人間を排除して良いのか

さらに根深い問題として、ビッグデータ分析は個人の評価や予測ではなく、群れ(その個人に似た人々の平均)の評価・確率の予測にしか使えない。これの使い方を誤ると、個人の評価の訂正可能性が失われてしまう。そして、自由まで制限されかねない。平均さんという個人はいないのである。シンギュラリティ民主主義では「ぼく」に命令はくだされず「ぼくに似た人々」全員に命令がくだされる。例えば徴兵の際に、ぼくに似た人々の一人として、戦地で死ぬことが求められる。しかし、ぼくに似た人々が死ぬことと、ぼくが死ぬことは全く違う。ぼくは固有の生を生きており、死んでしまえば終わりである。そこには生きることとは何かという根本的な問いが不在である。シンギュラリティ民主主義では人間の固有性を扱うことができない。「私」を扱うことができない。

このように東氏はルソーからシンギュラリティ民主主義へと続こうとしている道から、人々を解放しようとしている。成田氏はルソーからシンギュラリティ民主主義を導いたわけではない。しかし、結論としては最も端的にシンギュラリティ民主主義を提示している。この点では、東氏と成田氏は完全に対立している。対談でどのように議論が展開されるか、非常に期待している。

最後に

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『一般意志2.0――ルソー、フロイト、グーグル』、『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』、『ゲンロン13』の東浩紀氏の論考『訂正可能性の哲学2、あるいは新しい一般意志について』を私なりに要約し、紹介させていただいた。2人とも日本にとって、そして世界にとっても、人々の想像力を広げ、好奇心をくすぐり、今目の前にある世界以外の世界について考えさせてくれる知識人である。ぜひ、拙論に興味を持っていただいた方は、著作を読み、対談をご覧いただければありがたい。私もリアルタイムで対談をシラスで拝見する予定である。シラスで、また会いましょう。

余談だが、掲題のゲンロンカフェでのイベントは、シラスという配信サイトに無料登録後、990円で番組を単独購入できるが、個人的には6600円のゲンロン完全中継チャンネルに登録することをお勧めする。チャンネル登録すると1ヶ月間、ゲンロン完全中継チャンネルで放送される番組が見放題である。さらに、過去6ヶ月分の番組が見放題である。公開番組については下記のリンクで確認できる。

私の最近のお勧めは漫画家の浦沢直樹氏のトークである。下記の私のマイページにリンクがあるので、是非見ていただきたい。

それでは、またどこかで!

追記ー私の疑問点

主に成田氏に対しての個人的な疑問点を記載する。対談でヒントが得られないか期待している。

  • もし全国民のデータからアルゴリズムを作成し、無意識民主主義が可能なのであれば、小規模の人数でも同様のことが再現可能なはずである。本書で提案されている手法に従えば、少人数でもデータはビッグデータと呼べるほどの規模になる。無意識民主主義のテストに100人ほど募集してみたらどうか。参加者が集まらないなら、少なくとも現代人は無意識民主主義を望んでないということではないか。

  • アルゴリズムは機械学習で構築すると思うが、過学習や学習不足をどのように克服するか。そもそも目的指標の最適値を誰が決定するのか。目的指標そのもの、例えばGDPを何%プラスにすれば良いかなどは、人為的な設定がないと決定できないのでは。ここの問題意識を成田氏は著作内で示しているものの、提案が薄い。

  • 目的指標の達成のためにどのような政策が必要か、立案するのはだれか。仮にアルゴリズムが作れたとしても、アルゴリズムが政策提案、特に細かい法律文書の作成をすることはできないのでは。せいぜい、提案された政策を導入すべきか否かの結果しかアウトプットできないのでは。

  • データの処理に多大な問題がある。音声データのノイズ、センサーやデバイスの偏在などにより、アルゴリズムに採用するデータにエラーやバイアスが多数含まれてしまう。例えば、鼻歌を歌った場合、それはデータに含まれるのか。PCやスマートフォンのマイクから音声データをひろうとしたら、ホワイトカラーのデータが多く、ブルーカラーのデータが少ないかたちでデータが集まってしまうのではないか。

  • 天災や安全保障上の有事にも、アルゴリズムは正常に動作するのか。将棋やチェスと違って、市場や政情のルールや変数は時代によって変わってしまう。それでもアルゴリズムは無意識民主主義を体現し続けるのか。

  • 責任主体としての政治家、説明責任や失敗責任をとる政治家が将来的に不要になるというのは楽観論であり、論拠が薄い。著書で挙げられてるように、実際に動物が政治家に立候補した例は、政治家への不満の表出、あるいは風刺的な芸術の領域を出ていない。実際に猫に政治家としての責任主体を与えるという人が集まるのか?ガーシーでさえ、その責任能力の低さに、呆れの声があがっている状況だ。

  • 責任というのは人間が作り出したフィクションである。しかし、そのフィクションがないと人間は生きていけないし、社会も存続できない。例えば今日自殺することを決めている人間(実質的に寿命0日の人間)がある人の子供を殺したとして、その人はなんの責任も殺人者に感じないのであろうか。また、説明能力や責任能力のないアルゴリズムがあなたは更生施設に入るべきであるという判断をくだした際に、黙ってそれに従うのであろうか。責任というフィクションを求めることを、人間がやめられるかは哲学的課題であり、例え数百年後になっても克服できるのか。この部分に対しては楽観的に語っているだけで、特に解がこの本には無い。

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