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戦国武将に学ぶ!No.23~福島正則~



”軍師” こと、株式会社GUNSHIコーポレーションの社本です。


このnoteでは経営者の軍師としての目線で、
これからの時代を生き抜く戦略を発信しています。


私は日ごろより周りの方々から
”軍師” というニックネームで、
お呼びいただいています!(笑)

社名であることもその理由ですが、
私は自他共に認める歴史好き!
とくに戦国時代が好きです。


今回は、私が好きで見習っている、
学んでいる武将や軍師を紹介するシリーズ。


歴史には諸説ありますが、
ぜひ最後まで楽しんでいただけたら幸いです。






■あの家康が欲しがった武将!




今回は、福島正則ふくしままさのりという武将を
ピックアップしました!


戦国時代が好きな方であれば
ご存知かと思いますが、
一般的な知名度はあまり
高くないかもしれません。


出生について諸説ありますが、
一つに、豊臣秀吉のいとこだった、
とされています。

秀吉とは年齢が離れていたため、
幼い頃から秀吉の小姓として
仕えていました。


賤ケ岳の戦いという大きな戦で
”一番槍” という重要なポジションを
任されるなど、戦に強かった人物でもあり、
秀吉の家臣としてとても努力した人です。

関ケ原の戦いでも、
他の武将たちにとても影響を
与えた人物とされています。


秀吉が1598年に亡くなってから
関ケ原の戦いが起こる1600年までの間、
徳川家康率いる東軍につくか、
石田三成率いる西軍につくか…
各地の武将たちは難しい決断を
迫られていました。


このとき、正則は豊臣恩顧の武将
(秀吉に目をかけられたことで
活躍、出世した武将)として
東軍についたことがきっかけとなり、
多くの武将たちに影響を及ぼしました。


一説によれば正則と石田三成は
不仲だった、とも言われているため、
これも東軍についた要因の一つ
だったのかもしれませんが、
いずれにせよ東軍の味方を増やすのに
一役買ったことは間違いありません。


現代であれば、誰かにお願いをするときは
電話やメール、メッセージアプリなどを
使って、「応援してほしい!」
と伝えますが、当時は書状です。


徳川家康が最も多く書状を書いたのが
この福島正則だった
、と言われるほど
家康が欲しがった武将なのです。


正則が配下についたことで
家康率いる東軍は優勢になり、
もちろん、関ケ原の戦いでも多くの
功績を残し、東軍の勝利に貢献しました。


この福島正則については
好きな逸話がいくつかありますが、
今回は二つご紹介します。



■現代に歌い継がれる正則の人柄



正則はズバリ、
相当な酒好きだったと言われています。

酒癖が悪かったともいわれていますが、
そんな彼のキャラクターを物語るものが、
なんと現代にわかりやすく残っています。


それが、福岡の民謡【黒田節】です。


酒は呑め呑め 呑むならば
日本一ひのもといちの この槍を
呑み取るほどに 呑むならば
これぞ真の 黒田武士


歌詞の中に登場する黒田とは、
黒田長政、黒田官兵衛を輩出した
黒田家のこと。


この黒田家には、母里太兵衛もりたへいという
家臣がいました。
この太兵衛もまた酒豪でした。


ある時、
正則の元へ使いに出された太兵衛は、
「使いの席では酒を慎むように」と
命じられたものの、正則から、
「どちらが飲めるか勝負しよう」
と持ちかけられてしまいます。


太兵衛は黒田家の言いつけを守ろうと
しましたが、「(酒の申し出を断るなんて)
黒田家も大したことはないな」と
正則に言われ、太兵衛はカチンときた…
かどうかは定かではありませんが(笑)、
この勝負を受けることになりました。


酔った勢いで、
「この勝負に勝ったら好きなものをやる」
と太兵衛に豪語した正則でしたが…


勝負の結果、なんと負けてしまいます(笑)。


勝った太兵衛が所望したのは、
正則が秀吉から授かった秘蔵の槍、
日本号にほんごう」でした。


勝負に負けた正則は、
泣く泣く太兵衛に大切な槍を譲った…
というエピソードが、
黒田節という民謡のモデルです(笑)。

(ちなみにこの逸話から日本号は、
「呑み取りの槍」と呼ばれるように
なりました。)

この出来事が後世にまで民謡として
残ってしまうところがなんとも
ユニークですし、槍を惜しく思いながらも
「武士に二言はない」として
太兵衛に譲った正則の男気と豪快さに
私は好感を覚えます。

お酒の失敗にまつわる逸話が
いくつかある正則ですが、
そこにこそ人間味を感じていて
私は大好きなのです(笑)。


逆に、お酒にまつわる
良いエピソードもあります。


正則が江戸にいたとき、
正則は江戸のお酒が美味しくないと
思っていました。
そこで、広島のお酒を江戸まで
運ぶよう、家臣に命じました。


船でお酒を運ぶ道中、悪天候に見舞われ、
八丈島に流れ着きました。


八丈島で右往左往している家臣たちに、
一人の男が「何かあったのか」と
話しかけます。


この男、
実は関ケ原の戦いで西軍につき、
負けたために八丈島に流刑となった
宇喜多うきた秀家ひでいえでした。


かつて57万石を誇った大大名は、
船が流れ着くのを見て心配し、
「大丈夫か?」と声を掛けたのでした。


正則の家臣たちは、
昔の話とはいえ大大名だった秀家と分かり
驚き、八丈島でひっそりと生きているのを
不憫に思いました。


運んでいたお酒は、江戸で待つ
正則のために運んでいたものでしたが、
家臣たちは正則の許可を得ることなく
勝手に秀家のために、酒樽を一つ
置いていくことにしました。


秀家は、
「正則殿に宜しく伝えてくれ」
と家臣たちに伝え、
とても喜んだといいます。


さて、八丈島を出て江戸についた
家臣一行は、正則に黙って酒樽を
置いてきたことを、気性の荒い正則に
詰問されると想像しましたが、
すべて正直に報告しました。

すると正則は、
「お前たちは素晴らしいことをした!」
と褒め称え、加えて、
「正直に報告したお前たちに感心した!」
と、言ったといいます。

元々、宇喜多秀家と正則は、
同じ豊臣家の家臣でした。
関ケ原の戦いで敵同士になったとはいえ、
そんな秀家を気遣った家臣たちの気持ちが
誇らしかったのかもしれません。

お酒にまつわる2つのエピソードを
ご紹介しましたが、これらのエピソードから、
正則が本当に人情味あふれる人物だったと
伝わるのではないかと思います。

正則は現在の広島に領地を
与えられましたが、元々は、
豊臣恩顧の武将です。言い換えれば、
最初から徳川の家臣ではない外様大名。
そのためか最後には言いがかりをつけられ
250万石から49万石に減俸され、
残念ながらその後の福島家は
衰退を辿ります。


とはいえ映画、ドラマなど、
戦国時代を描くものの中では、
福島正則はよく登場する重要人物の一人、


しかし主役になることは…


残念ながら、ほとんどないと思います。


だから…


正則を主人公に、
ぜひとも映画化を!!(笑)









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