見出し画像

【海になれ】東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展に行ったら飛べました

 2021年5月12日、神戸市立博物館にて開催されている「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展」に行ってきました。元町駅に着き、方向音痴のわたしは長い時間をかけて旧居留地を練り歩きました。あいにくの雨で、わたしは右手に傘、左手にGoogle Mapをひらいたスマホを持って窮屈に歩いていました。ルイヴィトンとPRADAのあいだを通り抜けた先に、神戸市立博物館はありました。

展覧会概要

 この展覧会は、東山魁夷が鑑真和上のためにふすまに描いた絵を展示するというものでした。といっても鑑真和上は生きているわけではありません。当時1964年、鑑真和上の二百年忌を記念して、国宝の鑑真和上坐像を安置するために御影堂が建立されようとしていました。その御影堂の障壁画を、ぜひ自分が描きたい!と東山魁夷が申し出たわけです。

 鑑真は唐で生まれた人です。そんな人が日本にどういう縁があるのか。鑑真は日本に戒律を伝えるためにやってきました。当時奈良時代は、仏教がとても人気で、自分で勝手に出家を宣言する人がたくさんいました。出家して僧になってしまえば、税金を納めなくてもよくなるので、国は自称「僧」たちに悩まされていました。仏教では正式な僧となるためには、戒律を守ることを誓わなければなりません。そこで戒律を伝え、正式な僧を認定することができる鑑真を日本に呼び寄せたのです。

 鑑真は日本に来る過程で、幾度も航海に失敗し、失明しながらも日本に辿り着きます。東山魁夷は、そんな鑑真の霊を鎮魂するため、二度とじぶんの目では見られなかった故郷中国の風景と、日本の美しい風景を描きました。この展覧会はその絵を展示したものなのです。

 わたしは日本史にあまり詳しくないので、これらの事象を知って、ほぉ……と頷くばかりでした。東山魁夷はこの絵たちを完成させるために、たくさんのスケッチを描いて構想して、10年以上の歳月を費やしています。そこまでの途方もない年月をかけて一つの仕事(一つの流れという意味での)をやり遂げる、というのがわたしには想像もつきません。そこまでの情熱をそそげる創作があるのか。わたしはいつも長くても1週間くらいで一つの作品を完成させて、終わったらもうどうでもいいか、というような、ある意味雑な作業をつづけているばかりなので、ほんとうに想像できないのです。すごい、という言葉では片づけられないような遠いところにあるもののような気がします。わたしには遠いのです。

日本の風景たち、海

 何枚ものふすまがひとつの絵をつくっているので、絵というよりは空間でした。海という大きな空間がわたしを取り囲んでいたのです。だからでしょうか、わたしは絵を、海を見たときに海になっていました。頭の中でうるさく鳴っていた声は消え、すべての身体の感覚は消え、心の重さも感じなくなる。わたしがただ、静かな海になっているのです。そんな海がありました。

 水の色味は緑がかった水色、といったかんじで色単体ではさわやかそうな色です。けれども、海の中でその色はさわやかという雰囲気ではありませんでした。波は岩に当たってくだけて泡立っています。そのように岩にぶつかる鋭さも持ち合わせている色なのです。けれどもその鋭さは攻撃性のある鋭さではなく、芯の通った強さという気がしました。その強さを、俺はこんなに強いんだぞ、と誇るわけでもなく、あくまでもともとの体質として持ち合わせている当たり前のものだと思っている。波打つ海なのに、わたしの中にすっと静かに入ってくる海なんです。感情はないし、意思もない。だからこそ、わたしも人間というくくりから解放されて、海になったのです。


 楳図かずおの漫画『漂流教室』の中で、登場人物たちが怪物に襲われないために「椅子になる」というシーンがあります。これは主人公が、怪物は気絶している人は襲わないが、そうじゃない人は襲いにくることから、なにかを考えたり感じたりする精神が宿っている人を襲うのだと考えました。その結果、物体と同化する、心を無にしてなにも考えないようにしろ、という意味で「椅子になれ」と指示を出すのです。『漂流教室』の中でもわたしがとくに好きなシーンで描写も最高です。結局、椅子になることで心を無にした人は助かり、恐怖で興奮して椅子どころではなかった人は怪物に食べられてしまいます。


 わたしも心を無にして、つまり海になる術をこころえていれば、日々生きていく中で勝手にやってくる苦難から身を守ることができるかもしれないなあ……。などど考えたりしていました。わたしは4月に入ったあたりから適応障害のけがあります。いつもより些細なことでストレスを感じ、しんどくなってしまいますが、そんなときはこの海を思い出して海になってみようと思いました。


日本の風景たち、山

 山の絵も海の絵と同じように、見たとたんにわたしが消えます。しかし海の時とは様子が違いました。海を見たときは、自分が軽くなって気体になったような体感でしたが、山では自分は重心をしっかりと感じました。地に足をつけているという感覚がしっかりと感じられたのです。地面に引き付けられ、わたしが確かな重さを思った物体として沈着している。そのような、海と違った落ち着きを自分のこころで感じていました。

 山にかかるもやのような雲のようなものがありますが、現実でそれを見たときはそこの部分だけ実存が怪しくなるというか、ほんとうにそこに山はあるのかな?という気持ちにさせられます。もやの部分だけ山が異世界に隠されて、代わりに別の何かが潜んでいるのかもしれない。もやが山の一部を見えなくしている点で、山は結構不確かな存在です。わたしが通っていた中高一貫は山の中にありましたが、よくもやのかかる山でした。(今の大学も山の中にありますが、わりといつもすっきりしてるような気がしますね……)その時の景色を思い出して、ここにもやに対する気持ちをしたためました。

 しかし、そういった現実のもやとは違うものが、この山の絵にはありました。魁夷の山は、山ともやが分離した存在ではないように感じられるのです。もやや滝、木々含めひとつの山という生き物が描かれているように感じます。ひとつの生き物なのです。

 またわたしは変なことを考えてしまっていたのですが、わたしはこの絵を見たとき「この絵には社会がないなあ……」と思いました。というのも、つい最近まで対面授業を実行していた大学も、ついにオンライン授業に移行したことで、大学という社会とのつながりが絶たれてしまうなあ、とぼんやり考えていたのです。わたしはいつも「社会の中にある自分」を気にしすぎています。自分は病気でバイトもできなくて、社会になんの貢献もしてない価値のない人間なのかなあ、と考えた時期もあったほどでした。そんなことが頭にあったので、わたしは絵を見たときに思わず、ここには社会がないと思いました。

 山の絵に社会がないのは当たり前なのですが、わたしは山を前にして、自分の考えていた社会というものがいかに世界の一部分でしかないかを思わされたのです。この山は大きなひとつの生き物で、それがたまたまわたしの前にはひとつしかないけど、このような山はこの世にたくさん存在しています。別にわたしは社会みたいなものにとらわれすぎなくてもいいのかもしれないな、と、それもなんとなく思いました。

 この山の色について。わたしは紙に「青の奥にを感じる」とメモしていました。黒色というと誰とも交わらない色のような気がしますが、この山の青の中へもぐってもぐってもぐっていった先に、光がまったく届かない領域があるように感じるということと思います。色としての黒色ではなく、暗くて何も見えないという意味での黒です。何も見えないはずのに、そういった領域を表層から感じさせるのはなぜなんでしょうね。わたしの頭では理解できないような途方もない世界がありそうです。

 この山はとても好きだと思ったのでポストカードを買って帰りました。


 わたしは『蟲師』というアニメが大好きですが、この山も蟲師にでてきそうです。蟲師が頭の中にあったので、わたしはこの山を生き物と思ったのかもしれないです。


中国の風景たち

 魁夷は、中国の風景は水墨画で描かなければならないと思ったそうです。どうしてそう思うんだろう?不思議です。


 わたしはまず、国が変わっただけで、絵の雰囲気がとても変わることに驚きました。モノクロームになったとたん、絵の中の風景がより遠くに感じるようになったのです。写真っぽい、と思いました。写実性からではありません、その遠さからです。想像の中にあるような、まさに記憶の中だけにある風景という雰囲気です。鑑真の故郷をここまで記憶として描けるのはとてもすごいと思いました。またすごいって言葉使ってる。

 日本の風景はどちらも全く人の存在がなく、静かな空気が流れていたのですが、中国の風景は二枚ともを感じさせるというか、しかもも感じます。ひとつの絵ははっきりと風を描いているから当たり前なんですけど。もうひとつの方には船と月がありました。どうしてか、その月をみたときにわたしは人間を感じました。ああ、ここには月がある、と感じるわたし自身の存在でしょうか。中国の風景の前では、わたしはわたしとして存在していました。風景と同化しなかったのです。

 ちなみにわたしは外国で一番行ってみたい国は中国です。ロマンです。中国の民族衣装も好きだし、漢字しか並ばない文字群も好きだし、ネオン街はロマンすぎます。もしかしたら香港の話をしてるかもしれません。センシティブなお話だったら申し訳ないです。マフィアもののお話で急に中華系マフィアが出てくると心躍る人です。


余談

 展示では実際の障壁画以外に、障壁画の構想を練るためのスケッチも展示されていたわけですが、どういった構成にするかをグリッドで考えていたことにとても驚きました。こういった絵画はわたしと遠いところにあると思い込んでいたので、グリッドというわたしの身近なものがいきなり登場したことに驚いたのです。詳しい方からするともしかしたら当たり前のことかもしれないんですが……。感覚ではなく精密なんだなという発見です。

 わたしは普段プログラミングで絵を作っています。そこでは、コードを書けば絵はできあがり、再実行を繰り返し繰り返しして自分の理想の絵を探していきます。試行がクリック一つでできてしまうのです。しかし手で描く絵はそう簡単には試行を重ねられません。その手間を惜しまず、何度もスケッチをして試行をして、あの大きな空間ができあがる。本当にここへきて、その流れの様子を見ることができてよかったと思います。今わたしは、わたしを大きく悩ませる問題を抱えたまま博物館に行きましたが、それを忘れさせてくれるような別の世界に行けた気分です。なんというかほんとうによかった、ということが陳腐な言葉たちで紡がれると崩れていってしまいそうですね。言葉で表わすのは難しいですが、備忘録としてわたしの記憶としてここに残しておきたいです。


いつか見たうみ


この記事が参加している募集

最近の学び

オンライン展覧会