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VERBE〜動詞的な日常

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「動詞としての文化」とは何かの考察
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#オンライン

対話の中で見えてくるもの

対話の中で見えてくるもの

オンライン授業の取り組みの中に「フィードバック動画」というものがある。受講者との双方向性を実現させるために、提出された課題にコメントなどをつけるのが一般的だが、僕は解説動画を作成してアップしている。

近畿大学に着任してから、毎年どこかで発表や講演をしているが、質疑応答がもっとも楽しい。想定質問を用意したことはなく、毎回頭を空っぽにして質疑応答に向かう。日本国際文化学会などは専門領域が大きく異なる

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深層のディスカッション

深層のディスカッション

外出が「屋外を歩くだけ」に限定されているため、余所宅の庭先の花を見るのが楽しみとなっている。季節の変化が「家庭」に集約されていく。意外と季節ははっきりと移り変わる。これまではただ眼前の様子に意識を向けなかっただけだ。

五月が保育所自粛に重なったため、園庭の藤棚を眺めることができなかった。ランニングコースに咲いていた藤の写真を今さらながら眺めている。

人と会わない生活は、授業の「アクティヴィティ

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「たまたま」であることを自覚する

「たまたま」であることを自覚する

安田記念で本命のアーモンドアイが2着に終わった。一番人気であっても何が起きるかわからない。競馬に限らず、白鵬も負けるかもしれないし、井上尚弥が勝てないことがあるかもしれない。勝利はつねに「たまたま」であり、それゆえに勝利の意味がある。

道で猫に会うのも、通り道がすべて青信号なのも、子供が生まれるのも、子供として生を受けるのも、すべては「たまたま」だ。「運」という便利な言葉はすべてを説明してくれる

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個別主義の壁

個別主義の壁

6月に入り、ゆっくりとZOOMを授業に導入した。そもそも表面的な接触が本質の理解に繋がるとは思えないため、ZOOMもまた限定的な使用ではあるが、それでもなお相互コミュニケーションは面白い。LMS(≒SNS)での交流が「文字」だとすると、ZOOMは「声のやりとり」となる。「声」に過剰な期待を抱くのは得策ではないが、やはりこの仕方で見えるものもある。オンライン授業は相変わらず面白い。

「個別主義の壁

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蕎麦を打つように失敗をする

蕎麦を打つように失敗をする

およそあらゆる仕事の極小単位は大して変わるものではないと思っている。大学教員という仕事はそれなりに珍しいものかもしれないが、その極小単位は調べ物をし、書類を作り、人に連絡を取り、勉強をすることだ。種類は違うが、やっていることは小学生と早々変わらない。AI時代を迎えて「役に立つ仕事」「金になる仕事」「消えてなくなる仕事」といった分類がなされ、無関係の人が職業の不要論を語ることもしばしばだが、個人的に

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アクティブラーナーを求めるのならば

アクティブラーナーを求めるのならば

いつになく走っている。

筋肉痛が残りながらも、距離を調整し、二日に一度のペースで走る。そもそも走り出したときは毎日続けていた。何事もスタートは楽しい。「ペースを守らねば」というそれらしい逃げ口上でサボっていただけで、要は飽きたから走るペースが遅れた。ただそれだけのことだ。

しかし走るのは楽しい。唐突にやってくるあの快感に変わるものはそうそうないだろう。

定期的に「挑戦」とTwitterで息巻

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個別文化としてのオンライン

個別文化としてのオンライン

息子とポケモンの新シリーズを見ている。新キャラのヒバニーがラビフットに「進化」することで、一転してクールな性格になる。こんな描写も、来るべき息子の思春期の表象として受け取ることができる。近い未来だ。

あらゆるものは自分に「紐付け」可能であり、自分ならではの「見方」へと変わる。それがポケモンであろうと、ウイルスであろうと、本質は変わらない。

にわかに「オンライン」という五文字のカタカナが飛び交う

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