見出し画像

蕎麦を打つように失敗をする

およそあらゆる仕事の極小単位は大して変わるものではないと思っている。大学教員という仕事はそれなりに珍しいものかもしれないが、その極小単位は調べ物をし、書類を作り、人に連絡を取り、勉強をすることだ。種類は違うが、やっていることは小学生と早々変わらない。AI時代を迎えて「役に立つ仕事」「金になる仕事」「消えてなくなる仕事」といった分類がなされ、無関係の人が職業の不要論を語ることもしばしばだが、個人的には余計なお世話だと思っている。何を言われようと、人間のやることには大きな違いなどあるはずもない。

「外出自粛中にどうしてる?」と話題に上る。本を読む、音楽を楽しむ、アマビエを画くなど、人によってそれぞれだが、僕はなぜかひたすら蕎麦を打っている。俳句に蕎麦と、定年後の趣味のようだ。

蕎麦打ちの経験はほぼゼロである。今は習いに行くことなどできないため、本と無料動画を見ながら試行錯誤する。やるたびに失敗し、少しずつ改善する。工程をなぞるのが精一杯で、課題ばかりが見つかっていく。

まあ、昔から蕎麦が好きなのだ。シンプルな蒸籠で、塩があればいい。つゆすらいらない。日本酒があればそれで最高である。東北時代は蕎麦→温泉→日本酒を買って帰宅……というのが最高の贅沢だった。

蕎麦を打つことに挑戦し、失敗して課題を発見する。トライ&エラーというやつだ。結局、すべては蕎麦打ちと一緒だと感じる。やってみて、うまくいかないところを分析し、修正する。世の中の仕事の極小単位は変わらず、進め方も変わらない。単純な不要論に僕は与しない。

蕎麦打ちと並行して、講義動画の作成作業を進めている。一週間で何回失敗したかわからない。まだうまくできない部分があるが、少しずつ「見せられるもの」が増えてきた。結局のところ、動画作成と蕎麦打ちに変わるところはない。「すべては蕎麦打ち」であり、「すべては動画作成」だ。あるいは「すべては俳句」であり、「すべてはランニング」であり、「すべては研究」である。トライ&エラーを繰り返し、他者と共有可能なものを作り上げ、社会の中で他者と繋がっていく——未熟であること、熟練であること、下手であること、上手であることは基準の一つとなるが、本質のすべてだとは言えない。

その延長線上に学生がいる。ZOOMをうまく繋げず、メールの使い方がわからない学生と、iMovieの使用法がわからずに四苦八苦する僕のあいだに本質的な差異はない。そしてその学生は僕が何度やってもうまくできないスポーツに通じ、ゲームがうまく、動画編集を得意とする。僕は文学を語り、フランス語を語り、学生は民法を語り、憲法を語り、国際政治を語る。習得の過程で誤解を繰り返し、発進時にエラーを繰り返すことで上達へと向かっていくのであれば、今はエラーを繰り返すときだ。

蕎麦打ちに失敗しても、そこまで味が悪いわけではないことにも気づいた。エラーは全体の一部に過ぎない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?