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アクティブラーナーを求めるのならば

いつになく走っている。

筋肉痛が残りながらも、距離を調整し、二日に一度のペースで走る。そもそも走り出したときは毎日続けていた。何事もスタートは楽しい。「ペースを守らねば」というそれらしい逃げ口上でサボっていただけで、要は飽きたから走るペースが遅れた。ただそれだけのことだ。

しかし走るのは楽しい。唐突にやってくるあの快感に変わるものはそうそうないだろう。

定期的に「挑戦」とTwitterで息巻いているが、結局はこのランニングと同じで、単に興味のあることをやっているだけだ。「やってみました」を熟語にすれば「挑戦」になる。それ以上の意味はない。ただ、その「挑戦」には少なからず「学び」が伴う。自主的に「学び」を行うことを「アクティブラーニング」と呼ぶならば、僕はおそらくそれなりに「アクティブラーナー」だろう。

オンライン授業の開始を目の前にして、自分がどれほど「アクティブラーナー」であるか考えている。「オンライン授業」という未経験のものを「学ぶ」ことができるかどうかだ。

あらゆる職業にディスクール(言説)というものがある。当然「教員」のディスクールもあるだろう。学生に対する「勉強しろ」という教員ディスクールが、自分自身に向けられた。コンピューターリテラシーに欠ける人間が、急遽オンラインを求められる。「何がなんなのかわからない」「できる気がしない」という台詞は、かつて僕らが「教員」という立場で接した学生のディスクールだ。「フランス語はできる気がしない」「この文献は何がなんだかわからない」という学生を批判したのであれば、僕らは今こそ学ばなければならない。それこそが僕らの求めるアクティブラーナーの姿だ。いい年の教員がICTを前に茫然自失している姿は、課題を前に立ちすくむ学生の姿と等しい。そこに違いなどあろうはずがない。

学生にもYouTuberがいる。そのテクニックを素直に羨んでしまう。対する僕はオンライン授業の素人だ。教材を前に、YouTubeもロクに作れない。編集もうまくできない。エフェクトなど夢のまた夢だーーしかし僕はかつて自分の前で壁を越えようともがいた学生を何人も知っている。ならば自分自身が周回遅れのレースに参戦せねばならない。学生YouTuberは僕の目標である。

少しずつ、動画編集の仕方を学んでいる。毎日のようにアプリの新機能を覚え、撮影の難しさを実感する。テレビのモンタージュに意識的になり、ささやかな編集に唸らざるを得ない。

学生に「アクティブラーナーになれ」と言った自分がいる。学生に「これを習得せよ」と言い放った自分がいる。そして今はオンライン授業のアクティブラーニングの最中だ。それならば僕のやることはもう決まっている。

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