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深層のディスカッション

外出が「屋外を歩くだけ」に限定されているため、余所宅の庭先の花を見るのが楽しみとなっている。季節の変化が「家庭」に集約されていく。意外と季節ははっきりと移り変わる。これまではただ眼前の様子に意識を向けなかっただけだ。

五月が保育所自粛に重なったため、園庭の藤棚を眺めることができなかった。ランニングコースに咲いていた藤の写真を今さらながら眺めている。

人と会わない生活は、授業の「アクティヴィティ」を変質させた。これまでは「隣の学生との意見交換」を授業内で何回も取り入れたが、この状況では不可能である。

これまでアクティヴィティに費やされていた時間は個人ワークに切り替わった。文学的主題、語学的主題を「自己分析する」ということを課す頻度が飛躍的に増えた。その結果、これまで導き出すことができなかった興味深いリアクションが続出している。

アクティヴィティで他の学生と意見交換をさせることは、議論を活性化させるが、「相手」に合わせる中で警戒心が生まれることにも注意を向ける必要がある。その結果、受講者は不必要な「ポーズ」を強いられ、自分の深層からくる主張を覆い隠し、無難で最大公約数的な解答を提示する。むろん、他者が媒介となって興味深い視点が生じることもあるのだが、オフラインでは表層的な意見に終始する受講者が少なくなかった。

他方のオンラインでは、問いを向けられるのは個々人であり、他者との意見交換が行われず、議論の主題はそれぞれの内面で反芻される。

能動的学習の推奨の中で、時として座学が批判対象として挙げられたが、アクティヴィティを廃した静的な授業の中での「内省」の意義にはもっと目を向けるべきだろう。今期の受講者が授業で試みた論述やコメントを見るたびに、その深層の豊かさと、語る言葉の豊穣さに驚いてしまう。回を経るごとに、学生の深層とのディスカッションが続いていく。僕らは今改めて能動性と受動性の問題を突きつけられている。

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