「たまたま」であることを自覚する
安田記念で本命のアーモンドアイが2着に終わった。一番人気であっても何が起きるかわからない。競馬に限らず、白鵬も負けるかもしれないし、井上尚弥が勝てないことがあるかもしれない。勝利はつねに「たまたま」であり、それゆえに勝利の意味がある。
道で猫に会うのも、通り道がすべて青信号なのも、子供が生まれるのも、子供として生を受けるのも、すべては「たまたま」だ。「運」という便利な言葉はすべてを説明してくれるようであるが、「たまたま」のこちら側とあちら側の違いは無に等しい。
これまでたまたまオンライン授業がうまく運んでいた。オンライン授業の失敗談を聞いては、自分に無縁のことと軽く捉えていたのかもしれない。
今日、はじめて授業でトラブルがあった。6月になり、ZOOMを部分的に導入した2週目である。ZOOMの機能は以前から一通り知っていたので、場面を限定して使用すれば問題が生じないと思っていたが、「ブレイクアウトルーム」がエラーを起こし、ZOOM授業が成立しなかった。慌てて別の手段に誘導したが、これまでの「たまたま」が通用しなかったと考えねばならない。
現在、問題なく進んでいる人も「たまたま」に過ぎないのかもしれない。予想が裏切られ、思いがけない結果がもたらされることはごく自然なことだ。「失敗しないようにする」ことには限界があり、「失敗する前提」での計画が必要となる。問題は「失敗」を迎えた「後」の行為だ。これは激動・不確実・複雑・不透明(VUCA)の時代を生きる自分の象徴でもある。
学生に謝ったところ、「オンライン授業ではたまにありますよね」と返された。僕の経験したことのない「教員の失敗」をすでに経験した学生がいる。この時点で僕の経験は学生に及ばない。狼狽せず、「たまたまの成功」の中に潜む「失敗」と向かい合い、ともに不安定な時間を過ごす学生に学びながら、よちよち歩きで前進していく。
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