17時の柔らかい風って、なんやねん?
こんばんは、抽象的な表現に弱く全くもってわかりません。17時のやわらかい風ってなんなのでしょう?
表現
小説で17時のやわらかい風と表現されていましたが、「なんなの?」と思いました。怒っていませんよ。単純に「なんなの?」と疑問に感じただけです。17時に吹く風は、全て柔らかいのでしょうか? 季節によっても変わるでしょう。住んでいる地域によっても変わります。砂漠の17時の風は、もしかしたら強風で、情緒的な趣さえないかもしれません。
その日、その瞬間だけの、限定的な風であるなら、17時のやわらかい風と言われても納得できます。例えば「今日の17時に吹いた風は柔らかい(情緒がない書き方ですね)」と表記されていれば、期間が限定的で納得できます。そんな日もあるだろう、と。しかし、なんの前置きもなく、17時のやわらかい風に揺られて、などと書かれても「風って柔らかい?」「なんで17時である必要があるの?」「いつも柔らかい風なの?」と、初手でつまずいてしまって、小説の中身など全く頭に入ってきません。面白い小説かもしれませんが、最初でつまずいて、おそらく投げ出してしまうでしょう。
抽象的、象徴的な表現をすることを批判しているわけではありません。しかし、納得の行く表現でなければ、どうも気になってしまうのです。なんで、どうして、そうなっているのか? と。人の文章のアラはよく見えるものです。
金子みすゞのしゃぼん玉
その小説では、冒頭しゃぼん玉が飛んでいくシーンがあります。しゃぼん玉をうたかたと表現していますが、しゃぼん玉とうたかた(泡沫)は、イコールではありません。あくまで、作者のアナロジー思考によって成された表現であります。
表現であるがゆえに、しゃぼん玉をうたかたと称しても、比較的問題はありませんが、どうも引っかかるものがあります。どこが引っかかったのでしょう。素直に考えると、しゃぼん玉と普通に書けば良いところを、うたかたと記している些末な見栄に対して引っかかたのかもしれません。平易な言葉では表現できないのでしょうか?
平易な言葉で、非常に優れた詩を作った人物がいます。
それが金子みすゞです。
そして、金子みすゞの詩にもしゃぼん玉という言葉を使った作品があります。しゃぼん玉そのものを題材にしているわけではありませんが、しゃぼん玉が表している表象に対して、誰もが納得し、そしてその美しい表現に魅了されるでしょう。作品の品の良さ、質の高さ、表現の素晴らしさは、どれをとっても一級品です。言葉を使うに際して、見栄はありません。非常にわかりやすい言葉で、世界を表している。
ある意味、金子みすゞの言葉によって、新しい視点を獲得できるところがあるでしょう。ある表象を、しゃぼん玉と捉えている。そして、しゃぼん玉のすぐに破れてしまう儚さを、うまく利用しています(引用してもよいのですが、面倒事に巻き込まれたくないので止めておきます)。
金子みすゞの言葉の表現は、疑問ではなく理解を促す言葉選びになっており、とても学ぶべきところがあります。17時のやわらかい風では、何も伝わらないでしょう。なぜ、吹きすさぶ風は柔らかくなければならないのでしょう。もはや粘着質的になっていますが、なぜ、なぜ、風は柔らかくないといけないの? と。
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