ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 書評
ぼく=著者の息子は、日本人である著者と運転手のアイルランド系イギリス人の配偶者との子供なので、イエローでホワイトで、となって、そのアイデンティティがちょっとブルーというイメージ。最後はブルーがグリーンになるんですが、それは読んでのお楽しみ。
ブライトンという英国地方都市における著者とその息子を中心とした家族、近所の住民、通っている学校を舞台にしたノンフィクション。人間集団の様々な領域が混ざり合って、掛け合わさって、その中で生きるとはどんな状況なのか?リアルな目線で紹介してくれる本。
個人的に本書がノンフィクション大賞になったのは、日本にも「啓蒙主義の精神」が息づいていて、日本の出版業界もまだまだ捨てたもんじゃやないなあと思った次第。
それはさておき、仲間意識のバイアスをこのブログで前回書いたんですが、本書を読むと著者の息子さんの住む英国社会を事例に「仲間意識ってそもそもなんだろう」という、仲間意識そのものに疑念を感じてしまうようになります。
著者曰く(一部編集)、
「うちの息子なんか、アイリッシュ&ジャパニーズ&ブリティッシュ&ヨーロピアン&アジアンとめちゃくちゃ長いアイデンティティになっちゃいますよ」
息子さんの通う校長曰く
「でしょ?でも、よく考えてみれば、誰だってアイデンティティが一つしかないってことはないはずなんでしょ」
ということで、この学校もインド系、東欧系、裕福な子、そうでもない子、宗教の違い、階級の違い、両親揃ってる子、シングルマザーの子など、一人の人間単独でも様々な領域がタテ✖️ヨコ✖️タカサみたいな感じで、複雑に絡み合って、息子さんみたいに人間そのものからして、何が仲間意識のベースになるのか、?マークの子供もたくさんいるのが、現実的な英国社会(最近ではEU離脱と残留の軸でも仲間意識が分かれるらしい)。
移民だからといって「移民=貧困層」でもなく、かといってその逆も然り。それぞれの領域ごとに独立して領域があって相関しないのが特徴。
したがって「何が差別になるのか」も状況や立場によって定まっていないのだ。
そこで著者の教わった先生曰く「どの差別がいけない、ていう前に、人を傷つけることはどんなことでもよくないっていつも言っていた」と著者が息子に紹介。息子さん「それは真理だよね」と回答。
そして「エンパシー」という概念を紹介。エンパシーとは「他人の感情や経験などを理解する能力」「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」。
似たような言葉にシンパシー(共感)があるが、著者によれば、シンパシーは可哀想な立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことで、自分で努力しなくても自然にできている。だがエンパシーは自分と違う意見や信念を持つ人や、別に可哀想だと思えない立場の人が何を考えているんだろうと想像する力のこと。シンパシーは感情的状態。エンパシーは知的作業。
つまり「エンパシーこそ今我々が学ぶべきこと」なのかもしれません。
そして英国ではエンパシーを学ぶ科目が特別にあるという。それが「シティズンシップ・エデュケーション」。
シティズンシップ・エデュケーションは「政治や社会の問題を批評的に探究し、エビデンスを見極め、ディベートし、根拠ある主張を行うためのスキルと知識を生徒たちに授ける授業」。
かつての大英帝国は、今でもしぶとくその繁栄を維持し、新しいものを産み続けているのは、こんな啓蒙主義の原理をちゃんと子供の頃から体系的に教育しているからなのだろうか。
一方で「相手を傷つけない」のは、こんな複雑な社会での生きる術としては、本書を読むとその「タイヘン」さがよくわかる。言葉の使い方、友達との接し方、友達と別の友達との違いの感情的受け入れなどなど。。。
とはいえ、今後もスティーブン・ピンカーのいう「我々に幸せをもたらした啓蒙主義の精神」を維持・浸透していくためにはエンパシーは最も必要なことかもしれません。
*写真:ニュージーランドに群生するエニシダ(1830年に英国人がもたらしたNZにとっては外来種)
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