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『人はどこまで合理的か 上』スティーブン・ピンカー著 書評


<概要>

「私たちを導くものは合理性でなければならない」という主張に基づき、上巻は生物学的見地からの人間の本性としての「合理性」の根拠、”理性”的考察からの「合理性」の根拠を示した上で、理性の必要性の根拠を示しつつ、合理性の可能性と限界を解説するための「論理的思考」「確率論」「ベイズ理論」について紹介。

<コメント>

敬愛するスティーブン・ピンカーの最新著書読了。さすがのピンカーさんで、納得できることが満載。ピンカーは作家「橘 玲」の各種著作のネタ元としても有名な認知心理学者。

でも消化不良の部分があって、なぜなら本書で扱っている学問のうち「統計学」は私にとって未だ未知の世界だから。

本書では合理的思考の具体的ツールとして、行動経済学や認知心理学、統計学の理論、例えば「ベイズ推論」「重回帰分析」「限界効用逓減」「共約可能性」「信号検出理論」「ゲーム理論」「プロスペクト理論」「利用可能性ヒューリスティック」「相関と因果の関係」などの専門的な内容を初心者向けに紹介してくれています。

こうやって本書を読む限り「統計学」「行動経済学」の二つの学問の素養は現代人にとって必須の学問だなと認識させられます(なので統計学も今後深掘り予定)。

そして本書で「統計学」「行動経済学」を齧ってみると、おおよそ「ひろゆき」や「成田悠介」などのネット世界で若者に人気の言論人は、この二つの学問をベースに主張を展開しているのがよくわかります(行動経済学についての詳細は以下著作がオススメ)。

したがってひろゆきや成田悠介になりたい若人は「統計学」と「行動経済学」を学ぶといいかもしれません。

■非合理的言説が世の中に溢れているのはなぜか?

「基本的に人間は合理的思考によって、あらゆる判断をしている動物なわけですが、一方でフェイクニュースや陰謀論など、非合理的な言説も世の中に溢れかえっているのは、一体どういうわけでしょう」

というのが上下巻通じた本書のテーマ。

その答えは下巻で複数の答えとしてあるのですが、あらかじめ最初に主因となる答えを述べておくと以下の通り。

まずは人間には、二つの世界があります。

①現実ゾーン
身の回りの手に触れられる直接話のできる人間関係などの世界
②神話ゾーン
身の回りを超えた人から伝え聞いた情報、過去や未来の情報、宇宙、ミクロなどの世界

もともと人の心は、自分では直接経験できない領域「神話ゾーン」については神話や言い伝えなどの物語(=フィクション)で理解するように自然適応しています。これを著者は「神話のマインドセット」と呼んでいます。

少なくとも西洋近代社会以前のほとんどの人間社会では、自分が経験できない世界は「神話のマインドセット」で理解しており、人間はもともと神話ゾーンに合理的思考を持ち込むのは苦手だったのです。

なので私たちは教育などで、意識的にクリティカルシンキングや統計学などの「合理的思考」を学ばなければならず、そうしないと原始狩猟採集民同様(詳細後述)、神話ゾーンの領域では「神話のマインドセット」に陥ってしまうのです。

つまりストーリー性が面白くて、キャッチーで、センセーショナルな言説を信じてしまいやすい、というわけです。

ただし、これも使い分けで、個人的には学問や政治・経済(仕事含む)の世界では合理的思考を、芸術などの文化の世界では「神話のマインドセット」のままでもOKではないかとも思っています。なぜなら合理的思考だけでは「人間の生きがい」や「人間の生きる意味」は見つけられない(つくれない)から。

わかりやすくいうと、私がサッカーに生きがいを感じるのは、合理的思考の賜物ではなく、私の情念の賜物だから。

合理的思考は、どこまでいっても「手段」であり(ただし最強の手段)、合理的思考では「目的」は生まれないからです

■人間という動物は、どれぐらい合理的か

そうはいうものの、著者は「元始、人間は合理的生き物である」として狩猟採集民の生活を紹介しています。上述の「現実ゾーン」に関しては、ホモ・サピエンス誕生以来、私たちの種は至って合理的生き物なのです。

サン族とともに何十年も研究をしてきた、リーバーマン著『運動の神話』にも登場した自然保護主義者、ルイス・リーベンバーグによれば、彼らがいかに科学的発想に頼って生き延びてきたかを詳述。彼らは断片的なデータから結論を導き出すにあたって、論理、クリティカルシンキング、統計的理論、因果推論、ゲーム理論などを直感的に理解して使っていたらしい。

【因果関係の把握】
サン族の男性は、足跡の形や間隔から何十種類もの動物を見分けることが可能。深くえぐれた足跡を見たら踵で地面をしっかりとらえる敏捷なスプリングボックのものだと推測し、扁平な足跡を見たら重量があり、体重を支えるために足裏が平たいクーズーだなど、その痕跡からあらゆる動物を特定することが可能。

【クリティカルシンキング】
第一印象を信じてはいけないことや、見たいものをみてしまうという危険性についても意識して注意できる。また権威に訴える論証も認めない。集会では年長者・若者などの上下関係にかかわりなく誰でも自分の考えを述べることができ、何らかの合意が形成されるまで話し合いを続けます。

■合理的思考を忌み嫌う人々

YouTuber「たかまつなな」の、9年浪人して早稲田大学に合格した濱井正吾さんの貧困なる学生時代の壮絶なる環境「勉強するといじめの標的」にも驚きましたが、実際には勉強したり、ちょっと意識高い系のことを言ったら、周りから忌み嫌われてしまう環境って日本にも当たり前にあるわけで、著者の暮らすアメリカでも同様のようです。

逆にそこそこ意識高い系のかつてのポストモダンな人たちも「すべては相対的」なので合理的に考えても無意味な世界を展開しているわけで、合理的思考は必ずしも万人に受け入れられている思考ではありません。

上述の通り、合理的思考そのものは、どこまでいっても手段なので、神話のマインドセットで享受できる「生きる目的」「生きる意味」や情念が提供する「欲望」を提供してはくれません。つまり合理的思考は「価値」を生み出さないのです。

けれども、ここからが大事で、著者は非常に示唆に富む提言をしてくれています。

理性と情念を両立させるのは難しいことではなく次の3点で考えればいい。

⑴一人の人間の複数の目的の中には、互いに両立しないものがありうる。
⑵ある時点での目的は、他の時点での目的と矛盾することがありうる。
⑶誰かの目的は、別の誰かの目的と相いれないことがありうる。

こうした葛藤が生じたら情念に従うべき云々では解決しない。いやでも何かを諦めなければならなくなり、むしろ合理性の出番となる。そしてわたしたちは⑴と⑵に適用される理性のことを「分別」と呼び、⑶に適用される理性のことを「道徳」と呼んでいる。

本書:第2章

つまり、私たちは社会的動物(アリストテレス)なので、みんなが気持ちよく生きるために、みんなが納得しやすいルールが必要だし、助け合いが必要。そのためには合理的思考が必須だと言っているのです。

著者曰く

道徳は、理性と別のところにあるのではない。利己的で社会的な種に属するわたしたちが、自分たちのあいだの相反する欲求や重なり合う欲求に公平に対処しようとするときに、理性から生まれてくるのが道徳である。

同上


そして、私たち全員の衣食住が充足し、みんなが快適に生きられるよう「進歩」も必要です。そしてその進歩のためには合理的思考が必須なのです。

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