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心の中では生き続けている、僕を救ってくれた先輩(アニキ)。

僕が瀕死の時、今でも心の支えになっている言葉をくれた先輩がいる。

その先輩は、今は天国にいる。
でも、僕の心の中では生き続けている、僕を救ってくれた先輩の話を今日はしようと思う。

母が2tトラックとフルスピードで正面衝突して、車も身体もぐちゃぐちゃになった、あの絶望。

貧しい母子家庭だったので予備校には行けず、宅浪で猛勉強し、地獄を乗り越え、山梨大学に入学して2年目にとんでもないことが起きた。

「これから教育実習が始まるな〜、ワクワクドキドキ!」と意気揚々としていた頃、6歳下の妹の受験当日に悲劇は起きた。

妹と試験が終わったら電話してなって約束をしていたけど、試験が終わる時間が過ぎても、いっこうに電話が来ない。

「うまくいかなくて、落ち込んでるのかな〜。兄貴として励ましてやらねば!」と思っていたら、妹からやっと電話が来た。


僕:試験おつかれさん!!!どうだったよ〜〜〜?

妹:・・・

僕:ん?どないした??あかんだんか?

妹:・・・

僕:おいおい、無言でどうした〜〜〜〜〜、ま〜〜次々!(きっと相当やらかしたんだ…なんて励まそう…汗)

妹:おにい。お母さんが…

僕:はい??おかー?どないした??

妹:それが………………………事故った……………………トラックと……………………

僕:は??????まじ?????は??????おかーは大丈夫なん?????

妹:意識がないの………………………車もぐちゃぐちゃで………………………おかーさん…死んでまうかも…

僕:待て待て待て待て待て待て待て、、、は??(全く状況が理解できない)

妹:うちの受験おわって、迎えに来る時に、事故ったみたいで。。友達のお母さんから連絡があって、学校から近くやったから、走って行ったん。そしたら………もう………

僕:・・・

妹:おにい。どうしよう………おかーさんが………

僕:落ち着こう。まずは。(自分にも言い聞かせる)

妹:うん。

僕:命は大丈夫そうなん?

妹:救急車で運ばれていったけど、命がかなり危険な状態って言われた。

僕:そうか………そうか………。わかった。明日、三重に帰るわ。ちょっと待っとれ。こんな時こそ、落ち着こう。ボーッとして歩くなよ。お前まで事故んなよ。わかったな?

妹:わかった。今日はおばあちゃんが来てくれるみたい。

僕:わかった。すぐ行くから。待っとれ。とにかく、受験おつかれな。

妹:うん、ありがとう。待っとるわ。

僕:おう。ほな、また明日な。


妹との電話を切って、ひとり、部屋の中で、どんだけの時間が流れたんやろう。もう意識がもうろうとしてまい、何も動けなかった。

その後、妹から送られてきた1枚の写メ。

事故った母の車

もう頭がおかしくなった。母が死ぬと、本気で覚悟した。

写メを見た直後、世界が白黒になった。

当時、住んでいた甲府市の街並み

本当に、不思議なことに、脳みそに何が起きたのかわからないが、こんな様に目で見える風景が白黒になった。あれはなんだったのだろうか。。

しばらくして、母の意識が戻ったと、妹から連絡が来た。

少しだけ、僕も意識が戻った感覚になった。
「意識が戻って、本当によかった。本当によかった。本当に…」
そう、何度も心でつぶやいた。

・・・・・・・・・・

翌日、バイト先や予定していた人に事情を話し、すべてキャンセルして、すぐに三重に帰った。

直行で、母が入院している病院にいった。

「身体がぐちゃぐちゃって…大丈夫なんだろうか…おれはどんな表情で扉をあけたらええんやろ…」と少し、病室の扉を開けるのを戸惑ったが、平静を保とうとしつつ、扉を開けた。


母:ぐぉゎ、じょ……う…ご…


おそらく、「よ、しょうご(僕の名前)」と言いたかったのだろう。
でも、母はうまく話せない状況だった。

頭の先から、つま先まで、包帯ぐるぐる巻きの母がベッドで横たわっていた。

もう言葉が出なかったけど、絞り出して「よ!」と声をかけた。
あの時の僕の表情はどんなだったろうか。うまく笑えていたのだろうか。

・・・・・・・・・・

そのまま三重に1ヶ月くらい、ずっといて、毎日、病院に行った。

母のいる階の担当?なのか、いつもいた看護師さんに対して、「あの看護師さん可愛いな〜〜〜〜。連絡先交換したいな〜〜〜〜〜」と素直な気持ちが出てくるくらいには、僕の心も少しずつ、戻ってきていた。

母も、かなり話せるようになり、車イス生活ができるくらいにまで身体も回復した。

(本当にダメだけど)母が「もう病室つまらん!息苦しい!お酒飲みたい!」と連呼していてやかましかったので、外に連れ出し、敷地内のすみっこの方で、2人でよくタバコを吸って、のんびり会話をしていた。(色んな意味でダメだろう…)

あの時ほど、母と毎日、会って、じっくり色んな大人の話をしたのは、後にも先にも、あの時だけかもしれない。

ただやっぱり、僕の中には、たくさんの葛藤が生まれていた。

「このまま大学生を続けて、山梨に戻っていいのだろうか」
「おかーは障害が残る。ろくに働けない。おれが働かないと。妹ももうじき高校生活が始まるし」
「けど、おれにはGTM(グレイトティーチャーミナミ)になる夢があるし、諦めたくないし」
「大学でしている活動(貧困家庭の子どもら、人には言いづらい学校や家庭の問題がある子どもへの活動)もやめたくないし」
「どうしよう。」
「でも、こんな状況で、母と妹を置いて、山梨に戻りたくないし」
「あー、どうしよう。」

こんなようなことを、病室から見える、空を見て、毎日、葛藤し、急に自分の将来のことが不安になってきた。

そんな頃、母の事故のことが、小学中学の同級生の耳に入り、懐かしい先輩から、電話があった。

離婚して引っ越す時、挨拶できなかった、隣に住んでいた先輩からの嬉しい電話だった

なんと、僕が小学生の頃から、一緒に遊んでいた、隣に住んでいた先輩からの電話だった。

たしか、その先輩(以後、Rパイセンとする)は、離婚して引っ越す時、鑑別所か少年院に入っていて、お別れの挨拶ができなかった。

Rパイセンとは、僕が非行時代を卒業して以降、一緒に遊ぶこともなく、なんとなく、疎遠になっていた。

そんな、Rパイセンからの急な電話。

どんだけビックリしたか!


Rパイセン:よ〜、久しぶりやな。おかーちゃんのこと、聞いたぞ。大変やったんやな。おかーちゃんも大変やろうけど、しょうごは大丈夫か〜?

僕:うわ〜〜〜〜、Rパイセン!!!!久しぶりっす!!!電話嬉しいす。大丈夫かは分からないすけど、おかーも僕もなんとか、やってます〜


そんな会話から始まった久々のRパイセンとの会話。

電話で、久々に2人で会う約束をした。
鉄板焼き屋さんに連れて行ってもらい、初めて、一緒にお酒を飲んで、昔話に花を咲かせた。

いい具合に酒もまわり、つい、心底で葛藤していたこと、不安に思っていたことを、Rパイセンに吐露した。


僕:Rパイセン〜〜〜〜〜、おれ、どうしたらええんやろ。

Rパイセン:なにが?

僕:GTMになりたいし、あっち(山梨)で出会った子どもの力になりたい。でも、おかーと妹のことを考えると、おれが大学をやめて、働いた方がいいとも思うし。どうしていいか分からん。正直、お先真っ暗。おかーと妹のことが大事やから、素直に大学をやめたいとも思うし、夢も諦めたくない、なんかもう、よー分からんわ。

Rパイセン:ま〜悩むよな。おかーさんと妹ちゃんにとって、しょうごは支えだろうしな!けど、おれは、今のしょうごが羨ましいんやで。

僕:ん?なんですか〜?

Rパイセン:おれはこれまで散々なことをやってきた。色んな人に迷惑をかけてきた。たくさん罪も犯した。けど、今となっては、昔のおれみたいに、色んな大人から裏切られ、社会に馴染めず、どうしていいかわからず、悪さばっかするようなやつの力になりたいと思っとる。けど、もう遅くてな。おれには、今しょうごがやっとるようなことはできやん。だから、お前が羨ましいねん。


まさかの発言がRパイセンから出てきて、まじでビビった。

まさか、Rパイセンが、自分と似たような想いを持っていたとは。

僕も、『GTO』に憧れ、学校からはみ出るような子どもの隣にいられるような、かっけぇGTMになりたいと思って、活動をしていたから。

どんだけ、あの鉄板焼き屋さんにいただろうか。
周りにお客さんもおらんくなり、もうそろそろ帰ろうかって時に、Rパイセンがしんみりと、口をひらいた。

「お前はおれの分まで、苦しんどる子どもらの力になってやれよ。」

なんか分からんけど、Rパイセンがこの言葉をくれた瞬間、葛藤や不安や、うじゃうじゃした悩みが、いっきに晴れた。

しんみりと、でも強く、僕の目を真っ直ぐみて、言ってくれたRパイセンのこの言葉が、今でも僕の心の支えになっている。


僕:うん!おれ、やるわ!やります!うん、やる。Rパイセン、見守ってくださいな〜。おれはとんでもなく、でっけー漢になって、おれやRパイセンみたいに、しんどい思いをしとる子どもらの力になったる!みとって!

Rパイセン:おう!!しょうごの未来と、しょうごと出会った子どもらの未来が楽しみや〜!また、飲もうや!


そんな会話をして、いつも通り、酔ってふらふらになりながら、妹だけがいる実家に帰った。

・・・・・・・・・・

Rパイセンと飲みに行って、数週間たった頃、僕は山梨に戻った。

おかーと妹とはじっくり、3人の将来のことについて話し合い、共に頑張って生きていこうと誓い合った。

自分の人生を受け入れ、改めて、おかーと妹を守りつつ、自分の夢を諦めない覚悟をした。

それから、1,2年が経った頃、Rパイセンの悲報が知らされた。

Rパイセンが亡くなった

三重の友達から知らせがあった。

Rパイセンが亡くなったと……………

「は?……え?……は?」と、何回も何回もつぶやき、意味が分からなかった。

Rパイセンの言葉のおかげで、いろいろなものが晴れ、山梨に戻って、頑張っていた。Rパイセンにも、胸張れるように、しんどい思いをしとる子どもらの力になろうと、必死だった。

そんな、急に、亡くなった、、なんて。。

命については、母の事故以来、深く考えるようになっていた。まさか、こんなに身近で、大切な人が、亡くなるなんて。しかも、Rパイセン。そんなことがあるんかと、呆然とした。

亡くなった理由は、未だに分かっていない(知らされていない)。

Rパイセンのお通夜に行った。
お線香をたてに、棺桶でぐっすり眠っている、Rパイセンの傍に行った。

もう、無理だった。涙が止まらず、よく分からんけど、悔しい気持ちが込みあげてきたり、「なんでだよ!」と放ったり、もう、その場で動けなくなった。

「どうしてや。Rパイセン。どうしてや。なんでやねん。意味わからんわ。見守ってくれって約束したやねーか。なんでやねん。ほんま、意味わからんわ。あほ。」

もう気持ちがわやくそした。

その日で、タバコを3箱くらいは吸った。もう1点を見つめながら、タバコを吸うことしかできやんだ。

「Rパイセン。どうしてや。何があった。」

天国と僕の心の中におるRパイセンの言葉を胸に。

あれから、数年が経った今。

空を見上げて、ふとした時に、「おい!!Rパイセン!見とるか!おれはちゃんと今もあがいとるぞ!!!約束を破ってねーからな!見守っとれよ!」と心で唱えて、自分を奮い立たせている。

Rパイセンが天国に行ってから、いろいろ考え、教員にはならず(「先生(先を生きる者)」としてのGTMは今も夢)、ITベンチャー企業での武者修行、発達障害のある大人の方への就労移行支援事業しとる企業での鬼武者修行、泣き寝入りしてしまっている法的被害者への集団訴訟プラットフォーム事業での鬼鬼修行、株式会社SHIROを創っての独立、株式会社SHIROを休眠させて株式会社小さな一歩での鬼鬼鬼修行、株式会社小さな一歩をやめ一般社団法人ペアチルを創っての超鬼くそのあがく日々。

少し振り返ると、自分の中では、Rパイセンとも約束したことから何もぶれずに、三十路になった。

大学卒業後からは、「しんどい思いをしとる子どもがハッピーになるには、まずは親がハッピーにならんとあかん」思想が強くなり、自分なりにどちゃくそしてきて、今は自分の母のようなひとり親の方がハッピーになれることに貢献したくて、突っ走っている。

「お前はおれの分まで、苦しんどる子どもらの力になってやれよ。」

このRパイセンの言葉は、僕が死ぬまで忘れない言葉だ。


Rパイセン。まー見とけよ。おれはやるからな。
一人では何もできやんから、たくさんの人のお力に頼って、おれは、「泣いている時間よりも、笑える時間が増える世」にするからな。行き着いたのは、世界平和。


Rパイセンとの誓い。

社会問題×マーケティングが好き / ㍿小さな一歩(前澤ファンド出資先)で養育費の未払い問題にビジネスでトライ→㍿SHIRO創業。社会問題の発見→要因分析→ビジネス考案→実行に必要な資本整備→実行・改善のサイクルが最短で回り社会問題が解決されつづけるインフラを創る。