保健室のインベーダー

こんにちは、こんばんわ。おはようございます。
音楽をやっている安藤力です。

このエッセイシリーズが始まって3回目。
文章を推敲するわけでもなく、その時に書きたいことを書くのでとても楽しく書いています。
絵文字がなくてもそこに喜怒哀楽はあるのですね。


私は視力が弱い。目が悪い。
眼鏡を推奨されたのは小学校の3,4年生だった気がする。

しかしそれから高校3年生までそれに従うことはなく、
ずっと視力検査なんて大嫌いであった。
視力検査のまるいあなは敵だった。

そもそもなんで目が悪くなったんだっけ?

理由はきっとあれだと思う。
でもあれを説明するには自分にも把握しきれていない記憶を辿ることになる。
とはいえ言い出したことは話を続けようと思います。


小学校に入学して初めて教科書をランドセルに入れて担いだ時、
体が後ろに引っ張られて隣の子と笑った記憶は鮮明にある。
ちさとちゃんかちえこちゃん。名簿的にちさとちゃんではないかなぁ。

1、2年生の頃の先生は怒鳴って殴る人だった。
大親友のカズナがボウリングの球のように教室の後ろのロッカーに投げられたこと、机に頭からゴンと叩きつけられたこと。
私の改ざんされた記憶でなければとってもわるいせんせいだった。

でもそれは当たり前のことなんだと思ってた、きっとみんなもね。

それからしばらくして私は保健室にいることが多くなった。
いや正確にはどのタイミングでそうなったかは定かではない。

学校行くのが本当にいやで、まるで幼稚園に行くたくない園児のようだった。
母が自転車で妹も乗せて校庭まで送ってくれたけれど離れるのがとてもいやだった。その校庭の映像もぼんやり覚えているのである。これも改ざんでなければだが。
勝手に学校から帰ったこともあった。
家まであと階段10段!!
というところでせんせいに確保された時は本当に悔しかった。

学校ではいなくなったと大問題になっていたようだった。

保健室のねぶ先生はとても優しかった。
だからだと思うけれども保健室にいるのは楽しくて当たり前だった。
でも保健室で毎日何をしていたんだろう?

ある日ねぶ先生が保険室のパソコンに学習用のゲームを導入してくれた。
なんだかインベーダーゲームのようだった気がする。とにかくワクワクした。

多分これに夢中になってみるみる視力が落ちていったのではないだろうか、
と思っている。

この後から視力検査のあのまるのあなが嫌いになった。
見えないことを笑われているように感じたんだと思う。


本当に時系列やその時の感情が思い出せないのですけれども
父も毎日のように学校に送ってくれた。
給食の時間に父も校庭で一緒に給食を食べている記憶がある。
それも何回か。お花見みたいにしてみんなで食べた。
お父さんも一緒に。
きっと心配してお昼に訪ねてきてくれたのだろう。
父も母もねぶ先生にとても感謝していた。
ねぶ先生がきっと色々やってくれたのであろう。

でもその時にあの担任のわるいせんせいもいた気がする。
せんせいは教室じゃなければ優しかった。
あ、それって。。。。
きっとせんせいのことは嫌いでなかったんだと思う。
子供はきっとそうなんだと思う。
悲しいなぁ。
これは改ざんされた記憶ではないはず。でも父にそう言えば聞いたことはないけれど。
40歳になったら聞こうかな。
その時まで元気でいてもらわないとだ。

保健室ばかりだったはずなのに友達はちゃんといた。遊んだ記憶もたくさん。
なんでなんだろう?
それから約20年後その友達たちに
「そう言えば、りきって低学年の頃からだ弱くて保健室にいたこと多かったよね」
と言われた。
確かに喘息持ちだったので、もしかしたらせんせいが怖くて保健室にいたのではないかもしれない。
父も喘息が出ないか心配だったのかもしれない。

うーん、タイムマシンがあったらなぁ。


視力検査は今は嫌いではない。
見えないものは見えないし、見えるようにしてもらうために検査しているのだ。
変な当てずっぽうもいらない。

もしあの時期の保健室のインベーダーが私の視力を蝕んだとして
失った視力よりもらったものの方が大きかったとこの先も思う。

いや、実はそんなことではなくて
ファミコン、ゲームボーイ、スーパーファミコン
ただ単にそれで目が悪くなったのかも。

話は美しく。

これは美談というやつだ!



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