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バスケ部入部

 中学に進学してから最初に記憶に残り始めるとすれば、部活動である。

 小学校で特設サッカークラブに所属していたが、最終的にはバスケ部に入部した。兄がバスケ部だったことの影響が強い。

 兄とは3つ違いなので、私が入部した時には、兄は既に高校に進学し、そこでバスケを続けていた。

 当時私が住んでいた地元には、地元のサッカークラブはいくつもあったが、男子がバスケをやるという環境は全くと言っていいほどなかった。

 男子は中学で初めてバスケに触れる、それが当時の常識だった。
 
 小学生の時にサッカーに触れたのは、明らかに「キャプテン翼」のお陰だった。

 もし「スラムダンク」が中1の時に放映を開始していたら、かなりモチベーションも上がっただろうと思う。

 私が高校3年生の時に、「スラムダンク」の放映は開始され、既にバスケから遠く離れていた。

 バスケ部に入部した時には、バスケの右も左も分からない状態だった。

 兄がバスケ部だったので、家にバスケのゴムボールがあったから、親和性はある程度で、ドリブルの仕方から、パス、シュートに至る基本の知識はゼロだった。

 私は、団塊ジュニア世代に分類されるのだが、この時期に体育会系の部活に所属していた人なら、サッカー部、バスケ部、野球部の顧問は大抵怖いというイメージを持っているのではないかと思う。

 兄からは、顧問は優しくてバスケも上手くいい先生だと聞かされて入部した。

 しかし、兄が評価していたような様子はなく、私の代に対しては、一律厳しく、教えられたことよりも怒られたことしか記憶に残っていない。

 褒められたことがないというなら分かるのだが、「教えられたという経験がない」と言える部活の3年間は地獄に近い。

 「教えて貰えなかった」と一口に言ってしまうと、顧問の先生に対してフェアではないので、しっかりと詳細を述べておく。

 まず、私の中学では、強い代が1年ごとにやってきた。私の代が弱小だったため、一つ上の代と一つ下の代は、強いチームだった。

 同様に私が1年の時の3年生の代は弱いチームだった。

 と言うより、殆ど辞めてしまって、部員は数名しかいなかったので、2年生の補強なしには試合に出ることすらできなかった。

 入部当時の2年生が強かったのは、3年生の練習試合、公式試合にスタメンで出場しているからであって、それが故にフォーメーション等もみっちり教えられていた。

 3年生の試合には、2年生のキャプテンでありフォワード、次にセンター、そしてポイントガードが毎試合出場していた。

 その為、2年生の代では、この3名が実力を増してきて、3年生の引退後、2年生が主体になったチームでは、ほぼ負けなしの戦績だった。

 2年生は、最初幽霊部員もいたが、強くなるにつれて、部活に顔を出してなかった先輩方も練習に参加するようになった。

 交代要員も十分にいる2年生の時代は、1年の私の代が試合に出させてもらうということはほぼなかった。

 それよりも、練習の時点で顧問に直接組織的な手解きを頂いたこともなく、また実践する機会も貰えず、やってきたことと言えば、「筋トレ」と「声だし」だ。

 ボールを持たせてもらえることも少なく、外練の時は、校舎の外周を5周しておく。

 屋内練習の時は、走りも含めて、全てのウォームアップを完成させておくことが決められていたので、そこをこなし続けた。

 基本練習なので体力や持久力は確かについた。

 しかし、それだけでは試合には勝てない。仮に先輩のフォーメーションを見ていたとしても、自分がコートの外で見ている景色と、コートの中で見る景色は違う。

 ずっと声出しと筋トレの毎日で、他の部員は幽霊部員になっていった。

 私は、「部活は休んではいけないもの」という固定概念があり、現状が嫌だったけれども部活は休まなかった。

 今では考えられない事かもしれないが、当時は、練習中に顧問が許可を出すまでは、練習中に水を飲むことも許されなかった。

 意外ときついウォームアップの後、先輩たちの試合形式の練習に対して「声出し」で一日の部活は終わる。

 夏は暑いし、冬は寒い。せめて動かせてくれれば寒さもごまかせるだろうに、寒い外連の中で、終始立ちっぱなし。

 手の指と指の間はアカギレになり、気が付けば血だらけになっている。

 屋内練習の際は、上向きに上げられているバスケのリングの鎖をガラガラと引っ張ってゆっくりと降ろしていく作業をこなし、練習後にまた鎖を引っ張ってリングを元通りに上に引っ張り上げる。

 この引っ張り上げる時の鎖が非常に重く、腕の力だけでは一苦労。体重をかけてジャンプしながら、鎖を何度も何度も引っ張っていく。

 一人では重労働なので交代しながら行うのだが、同期は遊んでしまってリングを戻すことから逃げてしまっている。ごくたまに、見かねた女子の上級生が手伝ってくれることもある。

 そんなバスケ部での生活を2年続けた。

 なぜ2年間とも下働きだったかというと、一つ上の先輩が強かったため、私の代が試合の場数を踏む機会が全くと言っていいほどなかったからだ。

 ことあるごとに怒られていた私の代は、「試合に出させてください」とも言い出せず、まるで言いなりのように声出ししかしていなかった。

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