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からっぽ男の憂鬱・2021/03/31

 「最終的に、一番ヒドイのはニイモトさんだね」
 昔はよく言われた。
 
 俺の筆致・芸風は、今のところ「優しい」「暖かい」「柔らかい」と言われる。
 まあ、書いているものが実際そうなんだから、言われて当然なんだけど。

 今年40歳だから22年も昔の前の話になるのか。
 一番最初に書いたのは、高校3年生の文化祭の時。
 俺発案で、所属していた30人いた演劇部を2チームに分けて3~40分の芝居を競作する企画をやった。
 Aチームは、当時の高校生の妄想爆発なアングラ・シリアス系統(何しろエヴァ本放送中だったからね)の恋愛(?)もの。

 Bチームは、真逆の、笑った後には何も残さない、ナンセンス・コメディ。
 俺が書いたのはもちろん書いたのはこっち。
 「空飛ぶモンティ・パイソン」の影響丸出しの(毒は少なかったけど)ぐちゃぐちゃな、本当に笑った後に何も残さないヤツ。ギャグも借りたけど、無い頭ひねって書いた。
 どれくらいナンセンスかというと、開始3分でカーテンコール、で、本編に入る。
 本編ったって、あだ名が「ぺぺ」だった後輩が「不思議の国のアリス」もどきのストーリーに巻き込まれる「不思議の国のぺぺ」(これタイトル)。
 元原稿は感熱紙印刷だったので、もう、無い。VHSの記録動画があったはずだが、もうどこかに行ってしまった。
 まあ、思い出の彼方で良いんですけど。

 モンティ・パイソンのブラック・ユーモアをもっと理解するのは、大学1年生の秋にDVDボックスを買った後なのだけど。

 俺の本質はこっち。
 「笑った後に何も残さない喜劇」
 俺が一番やりたいことはこれだった。

 大学に入って、紀伊國屋で戯曲を漁るようになった時、出会ったのがケラリーノ・サンドロヴィッチの「ウチハソバヤジャナイ」と松尾スズキの「ゲームの達人」という、このふたりのド初期のナンセンス・ブラック・コメディ。
 笑いだけで150分持たせる「ウチソバ」と、ナンセンスな「偽日本史」な「ゲームの達人」の2つにはやられた。

 そこにあったのは、「モンティ・パイソン」「マルクス兄弟」「カート・ヴォネガット」を徹底的にふたりのセンスで濾過してre-mixされている劇世界。
 俺のやりたかったことがそこにあった。

 「俺のやりたいことが先に作られている」
 当時はそう思った。
 だけど、その後に続きがあって、
 「だけど、俺のやりたいことを、俺が書いてない」
 ということ。

 あいだ10年くらいのブランクがあるんだけど、長編台本書きを再開した2016年。
 依頼を受けて書いたものだったせいもあり、作品の印象は柔らかいものになったと思う。題材自体は「フェティシズム」だった上でシモに走らない、ファンタジックなコメディ。これは柔らかい。
 次の年に書いたのは「切ないペンギン村」を目指した群像劇。ファンタジックなものになった。
 朗読テキストも切ないものと男女の恋愛ものを書いた。
 (このnoteに載せている「文字と本とものがたりと」と「何もない」のこと)
 これもたぶん、「柔らかい」ものだろう。
 2019年に書いたのは、「詩」を題材にしたひとり芝居。
 去年やろうとしたのは…まだ内緒にしとく。

 こないだの「After CORONA Children」は役者主体ではあったけど、俺なりの「対コロナ」だった。

 次に各案のひとつはこれだ。
 原点回帰。

 大学時代に思ったこと。
 「モンティ・パイソンになりたい」
 「モンティ・パイソンみたいなことをやりたい」に近いけど、
 「やりたい」ではなく「なりたい」だ。

 今の時勢を、時事ネタとかをやる気は無い。
 今の時流に乗る気も無い。
 ただ単に「今の俺が読みたいもの・やりたいもの」を書きたいだけ。

 中高の頃思っていた「笑うドストエフスキー」をやってみたい。
 強い物語のある、黒い、ナンセンス喜劇。
 「ドストエフスキー」についてはもうちょいと勉強しないと、だけどね。

 (俺の好きな時期の)「cityboys Live!」のように「笑った後に何も残さない」ステージ。
 「モンティ・パイソン」のシリーネス(パイソネスク)な芝居。
 かつ、「黒い笑い」をやりたいんだよね。

 そして。
 「切ないペンギン村」をやりたい。
 「ロバート・アルトマンのような人間群像劇」であり、「強い物語」を。

 なんか妄想を書いているけれど、やりたいことを考えていたら、こんな感じになった。

 「最終的に、一番ヒドイのはニイモトさんだね」を、1回はやりたい。
 戯曲か小説か、わかんないけど。
 やりたいことをやってから人生終えたいしね。

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