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さよなら行脚。

自分は今、奈落に落っこちてしまった、とわかった瞬間があった。
奈落の底に叩きつけられ、どこかの骨が折れていて、不恰好な格好のまま身動きも取れずかろうじて息だけしている。
あの時のことを、恨んでいるかというとそうでもなくて、どちらかというとそれは、私にとって大切でどこか甘美な思い出だ。

多分、本当はすごく怒っているのかも知れないけれど、
怒っているという感覚を私はまだ感じることが出来ないでいる。

それは、自分はその程度の扱いを受けることに相応しい人間だ、という感覚が染み付いているから。
そしてそんなことより今は、どこからも助けは来ない、自分の力で動かせないこの骨も痛みもやりくりして、ここからなんとか抜け出さなくてはいけなくて、
そうやって少しずつもがくうちに、あまりにも多くのことを学んでしまった、
今まで自分には到底できる訳がないと思い込んでいたことが、実は一つ一つ落ち着いて取り組めば出来るのだ、という悦びを知ってしまった、
そしたら、むしろあの奈落の底で見た初めての光景に、奈落に突き落とされた最後、見上げたその人の目の奥にあった光に、
神さまの姿を見るほどの感謝の念がいつの頃からか湧いてきて、
ますます、怒りとか恨みとか、そんな感覚とは無縁になっていってしまったからだ。


自分は今、動けないほど、もう二度と立ち直れないほど苦しい。
じゃあ、そこから抜け出せばいい。嫌なら嫌ですって言ってやめればいい。なのに、やめられない。
そのことの異常さに気づく。

周囲の誰かに責任を転嫁して、少しでも「可哀想な私」に逃げているうちは絶対に抜けられない。逃げようとする弱い自分を、自分の中から徹底的に叩き出す。
自分が自分を縛り付け、自分が自分を苦しい境遇に閉じ込めているのだ。
自らそれを選択しているのに怒っているのに、やめたいと怒鳴っているのに、理不尽だとわかっているのに、動けない。
明るい日の射す方に向かって、ただ何も考えずに歩いていけばいいだけなのに、できない。
なぜ?
自分が閉じ込められている、このカラクリは一体、なんだ。

本当に苦しい思いをすると、人は、それまで均衡を保って来た当たり前の日常が
どれほど矛盾だらけで憎しみにあふれた理不尽なものだったか、
本当は別に我慢なんてする必要のない無意味なものだったかに気がつく。
そしてもううんざりだ、もう我慢の限界だって思うのに、何度も地団駄を踏んで大声で啖呵を切って見せるのに、
身体は接着剤で留められたようにそこから動けない、ということに愕然とするのだ。

自分はもうずっと前から本当は苦しかったんだ、ということに気がつく。
幸せだと、必要だと、当たり前だと、みんなせいぜいこんなもんなんだから贅沢言うなと、思い込まされていた。
そして逃げようと思えば逃げられるはずなのに、いざ動こうとすると、「自分には無理だ」とすでに心が折られている。

本当の問題は、外側の外圧ではなくて、自分の心だ。
その気づきは、本当に誰にも与えられることのない、奇跡のような栄誉、
人生を大きく反転させる一世一代のチャンス、
それまで自分のそれなりの努力で勝ち得たと思って大切に閉じこもっていた棺桶を内から開き、新たに人生を生きなおすのようなものだ。

今、自分は耐えられないほど苦しんでいるのに、まるで何事もなかったように淡々と暮らしいている、という客観的事実
気がついてしまったらもう、今までと同じに知らん顔して生きていくことは出来ない。
そして今までの自分の在り方がどれほど異常だったか、どれほど無自覚に不自然な体勢で我慢を続けていたのか、自覚できるようになる。
身体に巻きついているを、視認できるようになる。
このままこんなことを続けたら、身体が悲鳴をあげるか、精神を病むか、どちらかだ。


神さまは、なんども私たちに棺桶を開くを送っている。
苦しかろう、もうこれ以上、さぞや苦しかろう。
それでも私たちはそれに気がつけない。まだまだ。もっともっと。
周りの人に比べたら今の私なんて、全然幸せな部類だよって
無意味な我慢を続けて、本当は別に欲しくもないもののために躍起になって、大切なものを明け渡して、時間を浪費していってしまう。

病気になって気づく人もいる。
一文無しになってハッとする人もいる。
なのに、私が落とされた奈落ときたら、どれだけ優しい奈落だったんだろう。
コロナがやって来て、分かった。
もしあの体験がなかったら、私は絶対にここを乗り越えることは出来なかった、と。
なぜあんなことが起きたのか。
あのとき、奈落の淵に立ってその人は、どんな気持ちで私をそこへ突き落としたのか。
きっと、保身であったり、冷徹さであったり、幼稚さであったり、
本当はそんな側面から見ることも出来るであろうことを、私は知っている。

それでもあれは、どう考えても神さまのギフトだ。
私はなんと恵まれた、幸運な人間なんだろう。
前世で何か、いいことして退っ引きならない徳でも積んだか。
そして、この今辿っている不思議な道を、まるで生涯の友となる本に出会ったときのように、私はとても、気に入っている。

今年の夏は、夏休みの宿題よろしく、大きな目標を掲げて始まった。

自分の運転で高速に乗れるようになること。
子供たちと車で旅行に出かけること。
もう何年も会っていなかった、義理の両親に会いに行くこと。
そして、去年の夏に亡くなった従兄弟に会いに、叔父叔母の家を訪ねること。

こうして箇条書きしてみればどれも、どうということもないことばかりだ。
それでも私にとってこれらは、何度も自分内会議を招集して、時にカウンセリングの先生に助けを求め、時間をかけて万端準備しなければ立ち向かえないほどの大事件だった。

問題は2つある。
一つは、どんなに慣れてきてもいつも感じてしまう、運転に対する、身体が縮こまるほどの強烈な恐怖とアウェイ感。それを払拭するということ。
もう一つは、
この数年、鍛錬してパンプアップした今の自分で、以前の人間関係に決着をつけるということ。

別にそんなに車で高速に乗るのが怖いなら、電車で行けばいいのだ。
親戚に会うのが不味いなら、今までのように言い訳して延期すればいい。
だけど、車を運転するだけで怖かった、自分の車を所有することすら畏れ多かった数年前の自分が、どんなことを乗り越えて今に至ったのかを、私は知っている。
高速のために受けた自動車講習は、最高得点の一発合格だった。
本当は、車の運転をするのが楽しくて、そんな自分が好きだということに、今はもう気づいている。
ここに立ち向かい乗り越えることは、きっと今回も、私にとって大きな大きな意味を持つ。

この数年、出来るところから少しずつ、友だちと、周囲の人間と、苦手だと思っていたことと、一つ一つ関係性の仕切りなおしをして来た。
正常な他者との境界線を模索し、自分にとって心地よい、私が私のままで息をして居られる距離感をそれぞれの相手に確かめて、訓練して来た。
自分にとって本当は苦しかったことから少しずつ距離を置き、到底手が届かないと思い込んでいたことにチャレンジし、
回転させ味見して吟味して、ちょうどいい角度に修正して来た。
だけど難しいのはもっと古くからの、あるいはごく身近な人間との境界線の方だ。

相手が私に何を求めているのか、私にはみんな分かっている。
プラスα何をしてあげればさらに喜ぶのか、全部、気づいている。
それを全部全部、全力でやってあげて来たのが今までだ。
時にはやりすぎてかえって失敗するほど全力でやってあげなければ、常に身を削っていなければ、怖くていられなかった。全身を常に緊張させていなければ、人と関わりを持てなかった。
だからこそ、そういう私の上にさらに分厚いマットレスを敷いて寝そべって、依存してくる心が不健全な人たちを繰り返し、当たり前に呼び寄せてしまう。
そうやって維持されて来た人間関係において、それまで大人しかった踏み台が突然反旗を翻しマットレスをひっくり返そうとすれば、快適に寝そべっていた相手が髪を振り乱して抵抗するのは当たり前のことだ。

こんなに気持ちよく昼寝してたのにマットをひっくり返すなんて、気が違ってしまったんじゃないか、
今まで一緒にニコニコ笑っていたくせにどうして急に怒り出すんだ。突然なんという恐ろしい社会の害悪になってしまったのか。何かに洗脳されてるんじゃないか。
気づかせて説得して、なんとか元に戻してあげなくては。
親切心を装って襲いかかってくる。

両親と縁を切り、電話を着信拒否にして、もう2年くらいたっただろうか。その間も、母からは絶えず、折りにいって狂ったように私を罵倒するメールが届く。
この夏も、ものすごいメールがたんまり届いた。きっと潜在的に感じるのだろう。
私がもう一歩、もう一歩と変わろうとしているタイミングを。

このやりとりをもう何度となく繰り返しているのを知っているカウンセラーの先生は、
「お母さん、相当なんだよね、なかなか強烈」
って呆れたように笑ったけど、やられている当事者にとっては笑い事ではない。
それでも、少しずつ少しずつ、一番外側の出来るところから境界線を引き直し、私は一歩一歩、自分の最深の内側へと向かって進軍して来た。

そこには依存があり、生まれてからずっと続いて来た当たり前があり、今までのお利口な私がいなければ成立し得ない世界がある。
それを、根底からぶち壊して新しいものに建て替える。
何年も自分と向き合って、カウンセリングの力を借りて、勉強して、実践して、そうやって出来た今の私で、新しい正常な境界線を引き直す。
一つ行動するたび、霰のような反撃を食らう。
こんな恐ろしいことをするくらいなら、もういっそ、今までの在り方に、
歯を食いしばって、嘘つきの、みんなが喜んでくれた嘗ての私に戻ってしまった方が楽なんじゃないか。
本当はこんなふうに戦ってる自分がわがままで、周囲の人たちの言うように何かに洗脳されていて、迷惑な害悪で、
頭がおかしくなっていて、全部間違っているんじゃないか。
生きてる意味なんてあるのか?死んじゃった方が楽なんじゃないか。
なんどもふらふらと迷い、彷徨って、その度に「諦めるな」と声が聞こえて立ち上がる。
どうしても、そうじゃない私を見てみたくて、そうじゃない私にはこの世界がどんな風に見えるのか知りたくて、そこにはどんな人が待っていてくれるのか、その人に会ってみたくてまた歯を食い縛る。

私が小さな自由を手に入れるたび、母が発狂するのは何故なのか。
私が幸せになろうとすると、母が七転八倒するのは何故なのか。
母が希望した予定調和の行動を逸脱するのが怖い。
本当は母よりも能力があって、母よりもたくさんのことが出来ることを誇示するのが怖い。
幸せになることが怖い。
自由になることが怖い。

娘が自分の思い通りの、無能で便利なお人形でなくなって、自分の手元を離れようとしている。その程度の苦しみでは、傲慢な子鹿のようにおかしな形に肥大してしまったあの母を、奈落に突き落とすことは出来ないのだろう。
いつだって今まで通り、追い回し、捕まえて、罵倒してお説教して説得して、周囲の人間に順番に娘の悪行を言いふらし、もうじき死ぬんだと自分の死をチラつかせて脅せば、きっとまた簡単に手元に戻ってくる。

電話が着拒され、メールをいくら書いても梨の礫。
となったら、打つ手がなくなり、次は一体、何をして来るだろう。
今でも、見たことのない知らない番号から電話がかかるたび、身体が硬直してしまう。家の前に、タクシーが停まって清算しているのを見ただけで怖い。
傘で顔を隠して、マンションのエレベーターホールに走る。
早く早く早く早く、ってカチカチカチカチ、エレベーターのボタンを押す。

きっと、ストーカーに追いかけられたことのない人には、この恐怖やストレスは分からない。冷静に考えれば、足だって私の方が早いのだし、マンションの管理会社の人だって事情を言えばいつでも助けてくれる。
それでも、ふっと湧き上がって来る恐怖に振り回され、その度そんな自分にイライラしてしまう。そういうストレスを与えられることに、なんで私だけって、悔しさがこみ上げる。

DV夫から逃げている女の人が、プロのアドバイスとしてこんな話をしていた。
「私が」心の病気になってしまって、治るまであなたとは一緒にいられない、ごめんなさい、という体裁にしてあげないと、永遠に追いかけられて殴られるその境遇からは逃げられない。
「あなたが」殴った、「あなたが」おかしい、「あなたが」悪い、「あなたのせい」で心の病気になった。
その結論だけは、彼らには受け入れられない。
確かに殴ったことはちょっと悪かった、でもそもそもは、そんなことをさせたお前が悪い。お前のためにやってやったんだ。
だから、被害者側が「私が」悪いんです、あなたの本当の親切や優しさを理解できないなんて頭がおかしいんです、迷惑かけてごめんなさい、というストーリーにしてあげて、まずは身の安全を確保するのが定石なのだ、と。

だけど、そんなの理不尽だ。
いつまでもそれを甘んじて受け入れてあげるのなんて、不自然だ。
私が行動する。
それが母の意には沿わない。
例えば、自分を蔑ろにして、自分の許可なく自由に私が親戚に会って楽しい時間を過ごすことは許せない。
その怒りをピシピシと感じてしまうから、いつも行動しようとすると足がすくむ。
でも、そこに甘んじていたらいつまでたっても同じ場所から動けない。

家族や親戚に、私のいないところで悪口を言いふらされることなんて、
私の日常の人間関係に土足で踏み込んで来て全てをお釈迦にされることなんて、
母の言説を信じたみんなから頭がおかしいと思われることなんて、
もうとうの昔に手放したことだと思っていた。
別に滅多に会わない人が遠くから、「あの人頭おかしいんだって」って私を忌み避けていたとて、私の日常生活はどってことないし痛くも痒くもない。

それよりも、この夏のある日、一緒に楽しい時間を過ごして、一緒に美味しいものを食べて話して、そこでその瞬間、それなりに出来上がった関係性があったのに、
お互いの琴線に触れる瞬間があったのに、
それでも、もしもまたその話を聞きつけた母が出張ってきて私の悪口を言いふらして、そうやってちょっとした悪意が入り込むだけでいとも簡単にそれが捻じ曲げられてしまうんだとしたら、本当に悲しいことだな、と思う。
でも、本当にそんなことで私への信頼や印象が揺らぐ程度の人たちならば、この先も関係性を無理に結んでいたって、私にとって百害あって一利なしだ。

これでいい。
だってこの夏の目的は、もう十分に果たしたのだから。
私よりも若いのに、新しい時代の足音がいよいよ高らかになって来たこのタイミングでどうしていなくなってしまったのか、そのことを従兄弟に手を合わせて確認したかった。
そして、いつまでも私が、いつか自分たちと同じだったあの頃に戻ると期待させて宙ぶらりんにしたままの関係性に、「え、この人、実はこんな変な人だったんだ」って認識を改めてもらって、新しい健全な境界線を引き直す。
その新たな位置を確認したかった。

元気にしているのか心配だった人たちとも、みんなと笑って話せた。
これは、これまでの世界との、さよなら行脚だ。
私は夏休みの宿題を全て無事に、やり遂げた。
結構、自信作の自由研究に仕上がったけど、成績は何点、つけてもらえるだろう。


そう言い聞かせても、また脳みそが熱くなってしまってどうしても眠れなくなる。
一人でなんとかするしかないのは分かってる。
でも、私が寝落ちしてしまうまで誰かに背中をなでていてほしいと思う夜は、一体どうしたらいいんだろう。


世の中が、どんどん変容していく。
頭をひねりたくなるような、おかしなニュースが積み上がっていく。

バイデンが大統領選から撤退を表明し、何の権限があって後を引き継いだのかよくわからないカマラハリスが出馬を表面した。その途端、なぜか熱狂的な支持を集める。もともと副大統領としてもまるで評価などなかった、まして、民主党の選挙で選ばれた候補者でもないのに一体誰に「選ばれ」たのか。
ハリス躍進のニュースを懐疑的に見る声は以前として根強い。

パリオリンピックは前説通り、弱者に配慮満載の開会式で始まった。いつもなら、これに異を唱えれば差別主義者のレッテルを貼られ攻撃されるのが常だ。
テレビではこれを好意的に報道したというが、世論はもう、この偽善に気づいている。

世間では大騒ぎになったらしい令和のコメ不足。世情に疎い私は気づかなかった。
しかし目の前で米が買えないと言う現実に直面しても、消費者は冷静に疑いの目を向け、国内に大量の備蓄米なるものがあるのにマスコミが煽っていただけだったことがバレてしまった。


マスコミへの不信はとうとう天気予報にまで。
テレビが台風で大騒ぎしている最中、#台風消えた、がXでトレンド入りしてしまう。

このスピード感に乗って、世の中全体が、今までどうやったって伝わらなかった人たちまでもが変わっていく。鉄壁に思えた集団意識が、社会の観念が、ぐんぐん変わっていくのを私は毎日、不思議な気持ちで見ている。

8月28日、NHKがワクチン被害について突然手のひらを返すように報道し始め、一部騒ぎになった。
今までこれらの言説を、散々陰謀論だと笑い者にして封殺してきたNHKが、ワクチンの恐ろしい被害の実態についていきなり報道を始める。
もともと陰謀論者と批判されてきた人たちから見れば、もう少し突っ込んで現状を伝えるべきだと言う不満、そして何より、今までの報道姿勢に対する謝罪が先では?と言う疑問が噴出する内容だったようだ。
しかし、今まで先陣切ってマスク警察をして、ワクチン接種に皆勤で参加していたような人から見れば、耳を塞ぎたくなるようなショッキングな内容だったという。


アサシンクリードシャドウズというゲームの発売をきっかけに、信長に仕えた弥助という黒人を使って、日大准教授トーマスロックリー氏という人物が日本の歴史改竄を海外で水面下に行なっていたことがバレた。それを擁護する東大准教授が現れ、ネット上で海外、国内、にわたって紛糾。
11月のゲーム発売に向け、日本では発売中止署名が集まり、現在もこの問題は、このまま沈静化とはいかない様相を見せている。


どうしても新しい世の中の潮流に引っかかって止まってしまう人が、まるで水と油が分離して浮き上がるように、はっきりと見えてくる。
そしてあぶり出された人たちは、判で押したように同じ動きをする。

自ら悪目立ちして、批判の的になる。でも論点をそらして絶対に謝らない。
反論するつもりで、他の悪行まで告白してさらに燃料を投下する。
論破されると、(確かに自分が悪い部分はちょっとはあったかも知れないけど)ここまで酷い反撃をされるなんてあんまりだ!訴えるぞ!って被害者の側面を強調する。

怖いくらい見事に、神さまによって綺麗に篩にかけられ、仕分けされていく。
そのことに、おそらく仕分けされた方は全く、気がついていない。
ここまで論破されて、今後、一体誰が弥助侍説なんて真剣に取り合ってくれると言うのだろう。いくら喚いたって、権威を振りかざしてマウント取ったってもう、世界中、鼻で笑われて終わりだ。
万博で弥助を取り上げて盛り上げたいからなのか、それとも中国の一帯一路にかき回され疎かになった日本とアフリカ諸国との、友好を取り戻すシンボルに利用したいのか。意図はよく分からないけれど、それをまた、NHKが出てきて擁護しようとする。

しかし、天下のNHKさまに擁護なんかされたって、その本丸のNHKさまが日に日におかしなことになっているのだからもうどうしようもない。

NHKやマスコミの最近の報道は、民意を誘導するどころか逆撫でし、自らへの不信感を増長させるものばかりだ。

数年前、電通は潰れる、NHKも潰れる、といったとき、私は完全に頭おかしい扱いだった。
でも今、本当にそれがリアルになって来ているのを感じる。
むしろわざとやってるんじゃないかと疑いたくなるようなそれらの話題を見るたび、身体が軽くなる。
事態は深刻さを増していくのに、この笑い出してしまいそうな開放感がこみ上げてくるのはなんだろう。

絶対に怒らないと言われた日本人が、集団で怒り始め、反撃を始めている。
社会の常識が変わり、観念が崩れていく。
それに乗って、無自覚のまま社会全体が変わっていく。
怒って当然だ、と思えるようになることは、自分を取り戻すことだ。
もしも相手が、
「こいつ頭おかしい、引きずり倒してもこの性格を直してやらなきゃ」
って掴みかかってくるのなら、
「はあ?なんだこいつ頭おかしい、足払いかけて引きずり倒して、二度とこんな図々しい態度を私に取らないように思い知らせてやる」
って思えなきゃ、ダメなのだ。
相手を赦すだの、自分を癒す、手放すだのというのはその後の話だ。
「私はマリア、怒ってなどいません、全て許します、私の心はいつでも穏やかです」なんていくら取り繕ったって、心の中のどす黒い血の塊はなくならない。


別に戦う必要なんてなかった。
プラカード持ってデモをして、なんとかそれをマスコミに取り上げてもらって…
なんてそんな遠回りをする必要はなかった。
どんなに悪質なことをしても、絶対にちゃんと謝らない。
謝れない。何がいけないのか、分からない。
それでいい。
そのまま、貫けばいい。
要領よく逃げ果せるなんてことに、ならない方がいい。
誤魔化して、被害者ムーブかましててもらった方がいい。
こうやって、新時代にそぐわない人たちが、自然と神様の篩にかけられていく。


なぜか次々手を上げる、混戦の総裁選。
これをおかしいと思わない方が、どうかしてる。

今はもう、全ての人が逃げられないのだ、という安心感に満ちている。
大丈夫。悪いことをしてきた連中が、表舞台から消えてしまわないように注視してさえいれば、彼ら自身が自然に悪手を重ねて、こちらが予想してなかったことまで全て自供して、勝手に自滅していく。
人間によって裁かれ、仕分けられる。
知りたくても知り得なかった、気持ちの悪い、陰謀論と揶揄された問題の答えが一つずつ、ついに明らかになり、
そして今からは、新しい観念で新しい文化を、文明を、公平なシステムを、人間の知恵と力でもう一度作り直していく。
ありがたいことだ。



従兄弟の家から帰宅してからも楽しく続いていた、久しぶりに会った叔父とのメールのラリーは案の定、不自然な箇所でぷっつりと途絶えた。
いつものことだ。
何もないところに、問題の種を持ち込んで分断を計る。そうやって人を苦しめてでも、自分の利益を吸い取ろうとする人がいる。
そういう種類の人間が、この世には存在する。

今までは、世界の警察なんて呼ばれ、綺麗事を並べたハリボテの後ろに隠れていたアメリカも、今じゃあすっかり化けの皮が剥がれ、世界中で起こる戦争のニュースには「戦争屋」「もうやめろ」という批判コメントばかりが並ぶようになった。
カラクリはもう、バレてしまった。
でも、自分が悪かった、なんて認めることはできない。
彼らには、自分に逆らい、生意気な態度で自分たちの利益を奪おうとした不届きものを成敗する、という正義しか見えていない。
今更、引き返せない。だからどこまでも正義を貫く。


DSなんてかっこいい名前で呼ばれて、グローバリスト、なんて存在も不確かな謎の団体でいられたうちは、陰謀論でしょって鼻で笑ってごまかすことも出来た。
でも今は、上から順にその存在が淘汰され、そのグローバリストとは、シオニストとはもっと狭義では誰のことを指すのか、ついに私たちのすぐ近所の、どこどこの誰それさんがそのグローバリストだったんだと、いよいよ分かるようになってしまった。

本人たちも気づかないまま、いつの間にかそこに属している。
ある日突然、名指しされる。
恐ろしいことだ。
本当にこの世は悪魔の仕組みで成り立っていたのだなと、そこから抜ける決意を固め実行して来たものにはハッキリと見える。
でも、悪魔に取り憑かれてしまった人たちにはわからない。
自分が非難される順番が回って来ても、なぜ非難されるのかその理由が本気でわからない。

それでも、神さまの篩は、末端の一人まで見逃すことはない。

最後に両親に会ったころ、私は自分が今、カウンセリングに通っているのだと話した。
先日届いた母からのメールには、相変わらず、自分が社会的に大したものになれないからといっておかしなカウンセラーに唆され洗脳され、陰謀論になんかハマって、これ以上、私に向かってひねくれた態度を取るのをやめなさい、と、
数年前から全く変わらない、私を侮辱し、会ったこともない私のカウンセラーを揶揄する言葉が並んでいた。
だけど、私はもうそのカウンセラーにはお世話になっていない。
そこを卒業して、別のカウンセラーにお世話になり始めて、もう1年経った。
何年も私に関する正確な最新情報を間接的にしか入手できない母は、過去の私の情報を漁って、そこからなんとか妄想を膨らませ、私の悪行を暴き出す以外に出来る事がないのだ。

もう連絡も取っていないかつてのカウンセラーについて罵倒されても、今の私には何も響かない。知りもしない私の現状について、よくああして上から目線で延々文句が言えるものだと感心してしまう。
距離を置いて、メンタルが回復してくるにつけ、今まで自分が放り込まれ煮込まれていた酷い鍋の中身が鮮明に見えるようになってくる。
むしろ、今までこんな汚い鍋の中に絡め取られコントロールされていたんだなと、その愛情という名のインチキに、気持ちがスーッと冷めていく。

振り回される側の目が覚めてしまえば、今まで力を持っているように見えたものはただ、その場で支持を失って力を失って、いつの間にか消えていくだけだ。
そこに、賛成も反対もエネルギーを注がれなくなったものはただ、砂城のように崩れ、誰にも気づかれないまま消えていくのだ。

以前、私は両親に言ったのだ。
今、気がつかなければ、最後は壁に向かって一人で「私は悪くない!」って喚くことになっちゃうよ、その時には、もう誰も話を聞いてくれる人なんかいないよ、今がもう、最後のチャンスだよ、と。
私の最後の言葉は、父にも母にも、届かなかった。


「何なのこの台風、、、その他」
 マドモワゼル愛先生

金や権威にしがみつく人には分かれない。
これまでの世で、これがなければ生きられない、あれがなければ生きている意味がない、と握りしめていたものを手放せない人には気づけない。
これまで栄華を誇ったものが、この先、「満開に咲いたまま枯れていく」と表現したのはマドモワゼル愛先生だった。私の知る限りもう3年や4年も前からはっきりと、ことの成り行きをイメージされていた。
私には当時、どういうことなのかはっきりとピントを合わせることが出来なかったけれど、今となったらそれがはっきり分かる。
何という慧眼だろう。


怒涛の夏が過ぎ、8月の終わりに、私の誕生日がやって来た。
母から毎年送られて来る、気持ちの悪いおめでとうメールは今年はとうとう来なかった。懲罰のつもりなのか、何なのかは知らない。
もう、私にメールを送らないでほしい。私の家族に、私に隠れて頭越しに連絡を取るのをやめてほしい。
その私の希望は、今まで何度も蹂躙されてきた。

やっと一つ、私の希望が叶った。
今年の誕生日が、私にどれほど深い安堵をもたらしたか。
きっと両親には永遠に分からない。

渦の中心を失った台風の残骸が、新しい何かになって東京を襲った夜。
私の部屋の窓に、小さな羽アリが風に吹き飛ばされてきた。
雨で濡れた柔らかい羽がガラスにぴったんこくっついてしまってもがいている。
その姿が、私にはまるで今、最後の断末魔をあげてもがくグローバリストたちのように見える。
助けない、と決めていた。
だって、人間が下手に触れば、確実に羽が千切れる。
運命は本人が決めるしかない。

翌朝になって、台風一過のような晴れがやってきて羽が乾いても、完全にくっついてしまった羽は微動だにせず、アリはもはや力を失ってもがくのもやめてしまった。
もしかしたら、水をもう一度かけたら少しは接着が緩むかもしれない。
私は手のひらに水を含ませて、羽アリに言った。
「私はあなたの羽には触れないから助けてあげられない。水をかけてあげるから、あとは自分でなんとかするんだよ」と。
ガラスと羽の間に3滴、指先の水をつっと垂らすと、その水を飲んだのかアリは息を吹き返した。そして、真空状態を抜けた薄い羽を、針よりも細い足をガラスにむーん!と踏ん張って、引き剥がし始めた。
気になってもう一度見に行ったら、もう羽アリは自力で飛び立ったあとだった。


私たちに絶望の鍵をくれるのは、いつだって、神さまだけだ。
私たち人間ごときが、いくら正確なエビデンスを集めて論破しにかかっても、たった一人の人間とて誰かの心を意のままに変えさせることは出来ない。
ただ自分のために、滞った流れを変えるための行動を起こすこと。
水を運ぶこと。

あとはその不思議な水の波紋の力と、その波紋を受けた、相手を信じてあげることしかない。



私たち人間に出来ることは、ただどこかに確かに在る、神さまを信じることだけだ。




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