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出力最適解。

最近、自己プロデュースが上手な人が多いな、とよく感じる。
マーケティングとか、営業みたいなことを生活の中できちんとやってて、もうみんな社長だよね。何かの。このnoteも然り。
責任も気概もやりがいも、あらゆることを網羅的に分析しながら表現していて、もはやクリエイターの枠では収まらないのでは、と思う。
私はそこまで器用に自分をコーディネートできないけれど、まぁぼちぼちやっている。

人ってつくづく、表現せずにはいられない生き物だなと常々感じているけど、これは私も当てはまる。
文章自体には、そんなにこだわりはない。
なんならちょっと前まで嫌いな作業だった。文章を書くって。

国語は好きな教科だったけど、作文はまた別だった。小学生のとき、作文が宿題に出されたらどの宿題よりいちばんストレス感じてた。
いつだったか、もう書き方が分からなさ過ぎて、家族総出でネタを絞り出して書いた記憶がある。
それをグループで発表したとき、なぜかすごい評価されて焦った。
クラスの代表者を選ぶために前に出て発表しないといけなくて、え、やばいどうしよう、って。
読み上げるとき、出来るだけ抑揚をつけず、ストーリー性とかメッセージ性を殺して読んだ。そもそも自分で書いてないんだから生きてないんだけど。

そんな自分がnoteを書いてる日々が、たまにとても不思議に感じる。
音楽をやめたことで抑圧された何かが行き場を探していたのかなとも思う。
表現の行き場が書くことに向かうなんて昔は考えられなかった。

✳︎

昔から、音楽が好きだった。
歌ったり、演奏したりすることが自分の中の最適なアウトプット方法だったのだと思う。ひとりで演奏するものより、だれかと奏でる音楽が私はとくに好きだった。

そういう音楽が自分にとっての拠り所だったころ、その理由を紐解くと「宿題の多さ」ではなかったか、と今は思う。
誰かとやる音楽って、いつも宿題が発生する。
面倒な調整ごとも増える。
ひとりでももちろん宿題は何かしらあるんだけど、誰かとの約束は重い腰を上げる原動力になった。

「じゃ次ここ合わせるし、よろしく」
「次までにここ各自でさらっとこう」

とか言いながら解散してたころが懐かしい。
ああそうか、宿題って誰かとの約束でもあるんだなと思うと、あの頃の時間が大切なものに思える。

社会人になって、学生時代より練習時間がとれなくなったころ、宿題をやってきた人とやってこなかった人の差が顕著に見られた。
宿題をやってこなかった人とは、合奏中に目が合わない。楽譜から目を離すことが出来ないから。
ちゃんとやってきた人は、目が合う。負い目のない顔をしていて、指揮を見る余裕もある。
たとえ上手く吹けなくても、練習をすればするほど指が勝手に憶えてくれるから、おのずと楽譜には頼らなくなるのだ。

私はどちらでもあった。
当たり前だけど、学生時代からすると圧倒的に時間が足りなかった。
指が憶えててくれないのが、いちばんダメだと思った。今までは指が憶えるまで練習するのが当たり前だったのに。
大昔に練習したパッセージは、今でも指が勝手に動く。それくらい時間をかけて練習したという証拠だ。身体は正直だ。
仲間と目を合わせられないことや、約束を守れない自分に負い目を感じて、ちょっとずつ音楽から遠ざかっていった。

✳︎

誰かとやる音楽は、いつも自分が主役とは限らないから、主旋律やオブリガート(対旋律)を意識する必要がある。
オブリガートってただの引き立て役でもなくて、たまにメロディーより存在感出してくるから聞き逃せない。
普段水面に隠れている分、顔を出したとき、最大瞬間風速並みに心をさらっていく。
たぶんこれはみんな経験あると思う。
普段意識してないだけで、この伴奏部分がたまらない、みたいなこと。
ピアノでいうと、左手の動き。
歌でいうと、歌詞ののらない部分。

だからたまにアレンジされて、そういうお気に入りの箇所がまるっと無くなってるとき、「ちょっとまてあの対旋律どこやった?」と憤りさえ感じる。
歌詞や旋律だけじゃないのよ、好きな音楽って。
でも人には言えないんだよね、そんな細かな話。
伝わるように話すの、面倒だし。

最近音楽をまたやりたいなと思い始めた。
普段聴くことはたくさんしてるけど、アウトプット側の音楽って全然してない。
このご時勢もあって、そんな状況の人って多いと思う。

私の音楽を待ってる人なんてひとりもいなくて、でもやっぱり好き、また戻りたいって思う。
いま人生で初めて、宿題が欲しいと思ったかもしれない。

誰かと宿題を交わして、こなして、答え合わせして。
うん、いいなそういうの。



ここまで読んでいただいたこと、とても嬉しく思います。