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描く人(同一文章・有料設定)

 後藤友美は聞いた。
 はっとして、踏み出そうとしていた足を止めた。瞬間、腹に響くごおっという振動と、枕木を超えていくがたんがたんという音とともに貨物列車が友美の前を通って行った。踏切の遮断機がのろのろと上がる。
 弱い秋風が、線路沿いに生える芒をふらりと揺らす。
 友美は我に帰った。逃げるように歩き出した。明らかにサイズの合わない赤いパンプスに爪先が締め付けられて痛い。
 どうして、私は娘の靴なんて履いてきたんだろう、友美は細い腕で体を抱くようにして歩きながら、ぼんやりと思った。どうして、美咲の靴を。今の今まで、娘の靴だということすら気が付かなかった。橙色の空にむくむくと留まって動かない青い紫の雲。夜が来る。彼女は生ぬるい風に追われるように、歩調を速めた。早く家に帰ろうと思った。
 マンションに戻って、玄関の鍵を開けて中に入り、ドアを閉めた。友美は靴も脱がずにそこへへたり込んだ。大きく口を開け、何度も空気を吸い込んで肺を満たす。さっき自分がいた場所の景色と音が頭の中でぐるぐると回っている。吐き気とめまいを覚え、友美は十数分ほどぼんやり座っていた。
 それらが収まると、彼女は気だるそうに腰を上げた。娘の赤いパンプスを苦心して脱ぎ、夕飯を作ろうとキッチンへ向かう。彼女は、自分があのとき何を聞いたのかについてちらとさえ思いを及ばせることはなかった。
 飯をよそい、豆腐の味噌汁と鮭のムニエルを机に並べた。冷やしておいた頂きものの桃も大きめに切ってガラスの器に乗せた。
 友美はひとつ息をついて、一人娘の部屋の前に立つ。美咲、と声をかけた。
「美咲、ごはんできたよ。……ねぇ、一緒に食べん?」
 ドアの向こうから、表情のない顔がのぞく。
 母親に似て細面の、父親に似て大きな丸い目の、まつ毛のぱっちりとした少女。つややかさを失った、鎖骨あたりにまで伸びている黒い髪。いつもと同じ、真っ白なワンピース。指先についた、色とりどりの水彩絵の具。
「美咲」
 友美が目と目を合わせる前に、美咲はふいとキッチンに行ってしまった。食事を盆に載せて戻ってきた美咲は、部屋に入り、ドアを閉めた。
 友美はどうしようもない無気力に襲われながら、親子を仕切った板を見つめる。美咲、と彼女はもう一度呼んだ、誰にも聞こえない声で。
 私はどこで何を間違えてしまったんだろう。友美の胸にごぽりと黒いタールが噴き出して、ゆっくり広がっていった。
 美咲が外へ出なくなって、半年がたとうとしている。高校二年生の春に突然学校を休み始めて、ついにはまったくマンションの外へ出ようとしなくなったのだ。多少の風邪で学校を休みたがるような子ではなかった。高校生活にもなじんでいるようだったし、友達とけんかをしたなんて話もなかった。今まで学校を欠席したのは忌引きとインフルエンザくらいのものだ。
 友美は、そんな自分の娘が、社会で言われている「不登校」になったことにひどく戸惑い、うろたえた。
 担任の教師が訪れ、学年主任の教師が訪れ、美咲にドア越しに話しかけた。美咲は、応えなかった。それからしかるべき専門家を紹介されたが、変化はない。持たせてある携帯電話には、何人もの友人のアドレスが入っているはずだが、電話会社からの請求書を見る限り、その誰とも連絡を取っていないようだった。
 友美は依然として自問自答を繰り返していた。夫の一吉と離婚したことがよくなかったのだろうか――それとてもう十五年も前のことだが――、仕事ばかりであまりかまってやれなかったからだろうか、それとも学校でいじめられていたのだろうか。
 これから、どうすればいいのだろう、と。友美はキッチンの椅子に腰を下ろして思いを巡らす。美咲の不可解な行動も気になる。美咲は、あの子は――
 物思いは電話の音に遮られた。
「はい、もしもし」
 四回目のコールで、友美は受話器を取った。
「友美?」
 声で相手がわかった。ちょっと軽い感じの、聞き慣れた低い声。夫だった男性。一吉だ。
「昨日電話くれとったよな。なかなかかけられなくてごめん」
 ううん、気にせんで、と首を振る。
「大した用じゃないから」
 別れた夫の声を聞くと、何も心配はいらないという根拠のない安心に包まれる。昨日電話したのだって、ただ一吉の声を聞きたかったからなのだ。
 離婚の理由は仕事のことだったっけ、もしもあの時離婚していなかったら――考えかけて、友美は自嘲気味に笑う。
「美咲、どうしとる?」
 相変わらずよ、と答えるかつての妻を表情付きで想像できたにも関わらず、一吉は尋ねた。
「相変わらずよ。ずっと部屋から出てこんし、ずっと絵、描きょうるし」
「やっぱり、絵か。あいつ、どうしたんだろうなぁ」
 深い嘆息が電話口で吐き出される。友美は黙っていた。わからない、何がどうなっているのか。美咲は、もともとスポーツのほうが好きで得意だ。中学、高校とテニス部に所属し、それなりの戦績を上げてきている。
 反対に、創作めいた美術は嫌いだったし、苦手だ。今まで進んでやったことなどない。毎年夏休みに課される絵画の宿題とて、一つ上の従弟に頼んで描いてもらっていた。そんな美咲が、ひきこもり始めて突然、絵を描き始めたのである。
 友美は、娘がシャワーを浴びている間にこっそりと彼女の部屋を覗いているが、いつ見ても、床に画材が散らばっている。小学生の時に授業で使ってからは埃をかぶっていた絵の具セット、たくさん試し描きされた白い紙、この間まで新品同様だった色鉛筆やクレヨン。初めて娘の部屋でそれらを目にした時の驚きと戸惑いと言ったらなかった。
(あの美咲が、引きこもって絵を描きょうるなんて本当にどういう風の吹き回しなんだろう)
 奇妙なことはまだある。この半年ずっと同じ白いワンピースでいること。それしか服を持っていないわけではないし、いったいいつ洗っているのか、そのワンピースはいつ見ても不気味なくらいに清潔を保っているのだ。それに、耳を澄ませると話し声が聞こえるときがあるのもおかしい。電話ではない、すぐ目の前で誰かと会話しているような問答。精神を病んでいるのではないかとさえ思い心配しているのだが、促しても病院に行こうとしないため、友美は気が気ではない。
「何日か前にも福祉センターの人が来て話聞いてくれたけど、気長にやるしかないって。焦って解決するようなもんじゃないからって」
「うん」
「ねぇ、一吉」
「うん?」
「……わたし、何がいけなかったんだろう」
 一吉は、一拍おいて、お前は悪くないよと言った。
「誰が悪いとか、そういうんじゃないんじゃないか」
 いつものように繰り返しながらも、自らにも言い聞かせるような偽善者ぶった言い方に一吉は吐き気がした。
 
 
「いただきます」  
 美咲は、おかずの鮭のムニエルをつついた。一口分をほぐして口に入れた。マーガリンの味がふわりと広がり、鮭の味を引き立てる。添えてあるえのきと玉ねぎ、人参の味もした。湯気の立つ熱いご飯を続けて口に入れ、ゆっくり咀嚼する。そうしながら、美咲は瑞々しく光る桃をしげしげと眺めた。外側の少し黄色がかった色とは違い、よく熟れたそれの中心は紅色が鮮やかだ。
「ウタエ、ほっぺってこんな色じゃないかな」
――うん、近え色じゃわ――
 美咲の囁きに応じた声があった。ウタエ、と呼ばれる青年のものだ。桃の中心に近い部分を見て、懐かしむように続けた。
――そんな色だったよ、ヒメの頬は――
「じゃあ、これを目標に混ぜ合わせようかな」
――秋鮭、うまいか?――
 唐突な問いだなと思いつつも、美咲はウタエに、ちょっとだけ口角を上げて頷いた。ウタエは目を細めて笑った。
 もう秋なんだ、と美咲は見るともなく天井を見上げた。時間の感覚がおかしくなっている。学校に行かなくなってから、マンションから出なくなってから、長い時間がたったような気がする、いや、一週間くらいしか経っていないような気もする。どちらにせよ、長いことちゃんと人と話していないのは確かだ。人に嫌われること、独りぼっちになることが怖くて、それならいっそ自分から一人になろうと思った。人と会って話さない、関わらない、それは今の美咲にとってとても楽で、苦痛を伴わない生活で、それでいてとても退屈だった。
 私はこれからどうしたらいいんだろう、美咲はまた鮭の身をほぐしにかかった。いつまでもこんな生活をしていられないのは、解っている。
(いつかはこの部屋から出て、社会に戻らんとおえん。お母さんだって苦しんどるし、お父さんも怒ってる。いつかは外に)
 外に出て、また、人と。
 美咲は唾を飲み込んだ。視界が、ぐらりと揺れる。たまらず目の前のウタエを見た。ウタエは、美咲の硬い表情に気付くと、穏やかな濃い団栗色の瞳で少女をまっすぐに見つめ返した。
(……ウタエに頼まれた絵をどうにか完成できたら)
 立ち上がってみようかと、彼女は思うのだ。
 今後のことを考えて不安になるときは、絵が出来上がったらなんとかなると言い聞かせる。焦りや不安に身をよじり、毎日、毎時、この自問自答を繰り返す。もはやピリオドをどこでどう打っていいのやら自分でもわからないのが正直なところだった。今の彼女には、誰かに頼られ絵を描くという作業が支えだった。空っぽの寂しさを埋めるように、白い画用紙に色を塗り込んでいた。
 
 
 現在、美咲の部屋にどっかりと腰を下ろしているウタエ――アマブエノウタエと名乗った――は、この地で死んでからもうずいぶんとなる青年のたましいである。魂魄の魄のほう、すなわち、死後地上に残ったたましいだ。見た目は、林檎くらいの大きさの、表面に白く冷たい炎を纏う球体。火の玉に似ているかもしれない。今、ウタエがそうしているように、人の形を取ることもある。死んで、結びついていた肉体と魂魄が離れたそのとき男であった者は男に、老婆であった者は老婆にそれを取る。死ぬ前の姿を映し出す。
 ただしそれは魄が結ぶ虚像。現世を生きる者は、まず魄に触ることはできない。触れたくて手を伸ばしたとしても、空をつかむだけである。しかし、肉体をもって今を生きる人間がそうできないのとは違い、魄のほうではあらゆるものに触れることができる。物にも人にも、形のない――感情にも。触れる以上はできないし、触られている者には感覚的なものをなんらもたらさないのだが、触れている魄は確かな感触を得る。魄にしてみれば、確かに相手に触れているのにそれを分かってもらえないということであり、それがもどかしく思われることもある。
 アマブエノウタエは、およそ四世紀辺りにこの地で生き、その生を二十二年で終えた男である。芸術の才に秀でており、土器や埴輪を作ったり、残り炭で布に絵を描いたりするのが好きだった。死後も、移り変わる時代や人々の営みを、たましいとして見つめ、時を経ても変わらないものを見出しながら、大好きな芸術の変遷に添うてきた。
 ウタエは人の描いた「絵」を見ると幸せな気持ちになった。絵の具や鉛筆などの道具を用いて人が絵を描く。どんなものであろうと、そこには描き手の感情が現れ、命が宿る。魄ならなおのことそれが感じ取れるのである。それをずっと見ていたいと思ったのだ。人の手で作られる絵を。
――絵を一枚、一緒に描いて、それをおれに頂けんじゃろか――
 ウタエはこれまでも、様々な時代で様々な人に依頼してきた。ある時は僧に、ある時は武士に、子どもに、老婆に。みな、ウタエの頼みに首肯して、思い思いに絵筆を遊ばせ、ともに絵を描いてくれた。彼にとって、描き手が一枚の絵に思いを込めることが大事なのであって、その他のことはどうでもよい事柄だった。ましてや上手下手などは。
 ウタエがそうしているのには、もうひとつ理由があった。
――ヒメと約束したんじゃ、千の絵を贈ると――
 ある女性と交わした約束。長い黒髪と白桃色の肌の美しく気立ての優しい女性ヒメとウタエは同じくにに住んでいた。そのくにには船を持って船頭をする者が多く、ヒメの父親もそうだった。ウタエの父とヒメの父は、特に仕事場で仲が良く、子もよく一緒に浜で遊んだものだった。ヒメは、ウタエの作りだすものが大好きだった。機織りの稽古から抜け出してはウタエの所へ行き、土から器が出来るのや岩肌に動物の絵が彫られるのを、じぃっと眺めていた。
「ウタエの描く絵はきれいねぇ」
 ウタエは日に焼けた顔でまぶしく笑い返し、そう言う彼女を見つめていた。
 やがて、ヒメはその美しさのために都に呼び出され、天皇の妃の一人となって寵愛される。
 しかし、ある年の鮎が捕れはじめる季節に、ヒメは豪雨の中、都から吉備の実家へお供の者を連れて帰ってきた。
「皇は私を愛してくださいました。贈り物の品からも、口付けからも私に御触れになる御手からも、お優しい御気持ちが流れ入ってくるのがわかるほどに。私にしても皇はとてもお愛おしい大切な御方です」
「じゃけれども、お妃様と私は性があわなんだのでしょうね。仲ようできませんでした。そうして結局、このくにに帰ってきてしまいましたよ」
 しばらくして旧友であるウタエと再会したとき、彼女は語った。少し見ぬ間に背が伸び、顔だちも声もしっとりと落ち着いていた。彼女が隣に座って、ぽつりぽつりと語りながらさびしそうに笑った時、ウタエは喉が焼けるような思いを味わう。
 無理して笑わんでもええんよと声をかけて、やわらかな黒髪の流れる背をさすってあげたかった。いや、実際にそうすればよかったかもしれないと、ウタエは今でもちらと考える。
 故郷に帰ってきたヒメはびしょ濡れに濡れて高熱を出し、七日の間病床に就いていた。彼女が熱に浮かされて天皇の名を呼んでいたことを、彼は知っている。思いがどれだけ深かったかも、ヒメが愛しい御方の子を腹に宿していることも、その時知ったことだ。
 だから諦めたように力なく笑う彼女を前にして慰めの言葉は吐けなかった。ただそばにいた。草の上、広い空の下、ヒメの隣に座っていた。雀の遊ぶ声が空遠くに聞こえる。弱く吹いていた風が凪ぐ。
――決めた。おれ、千枚の絵を描く――
 ウタエは呟いた。不思議そうな彼女の目を見て、
――それをヒメに贈る。花や樹や海や、そう、ヒメの絵も赤子の絵も描こう――
 一枚一枚、心を込めて。ヒメが笑っていられるようにと祈りを込めて。
「ありがとう、ウタエ。約束ね」
 ヒメは、白桃色の頬をほんのりと染めて微笑んだ。両手を腹のかすかな膨らみに優しく当てて、ウタエのがっしりとした肩にゆっくり身体をもたせかけた。
 と、相手に話し聞かせたところで、ウタエは恥ずかしそうにいったん言葉を切る。
――そんな大見得を切ったんじゃけど、千枚の絵を描く前に、おれは病でぽっくり死んでしもうたんよなあ――
 じゃけん、と一転、彼は今度は真剣な面持ちで、力を貸してほしいと頼むのだ。
――ヒメも亡くなって久しい今このようなことをするんは、自分のためなんかもしれん。じゃけど、おれは約束を果たしたい。でもこの手では、絵具に触れることは適うても、持ち上げ動かして描くという動作ができんから――
――どうか、おれと絵を描いてもらえんじゃろうか――
 
 
 雨の音がした。美咲は、目を開けた。ぱた、ぱた、家の屋根に雫が当たって跳ね返る。時計は深夜二時四十分を指していた。
 いつの間に寝入ってしまっていたのだろうか。美咲はいつものように丸机に伏して眠っていた。部屋の電気は消してあった。手元の白い八つ切りの画用紙にぼんやりと絵の輪郭が浮かび上がる。だいぶ完成に近づいた絵。ウタエの昔語りを聞いていて描きたいと思ったひとつの情景が、出来上がりつつあった。
 季節は初夏。海、砂浜、にこにこと笑っている数人の人。中央に、背の高い男性と、幼い女の子を膝に乗せた女性がことさらに優しい笑顔で座る。ウタエとヒメと娘。夏の情景。 
 ウタエの話を聞いていたら、自分が美術の類を敬遠していることを承知で、形にしてみたくなった。描けるかどうかわからなかったし、自信もなかったのだが。
(ウタエは、描けんかったら別のものでもええよって言って、逃げ道をくれた。それ使わんで、ここまで描いてきた)
 なんとはなしに得意げな気持ちがこみ上げる。完成までもう少し。あとは頬の色を塗るのと多少の仕上げをするばかりになっている絵を見つめながら、美咲は薄く笑んだ。
(へたくそには違いないけどね)
 スポーツでしか味わったことのない達成感を、この分野において感じようとしていることがなんだか不思議だった。
 ぱたりぱたりという雨音が少しずつ速くなる。暗い部屋にぼぉっ、と白い光の球が空間に尾を引いて美咲の側に近づいてくる。
――よう寝ようたなぁ――
 ウタエは魄本来の姿で言った。
――ちょっと外行ってみん?――
「今二時だよ。それに、雨降ってるじゃん」
 美咲は気乗りがしなかった。無理もなかった。何か月も外に出て歩いていない。雨降りと深夜であることを理由にウタエの提案をつっぱねた。
 しかし、じゃから行くんじゃないかと、ウタエはからからと笑った。
――雨に濡れん方法あるから、大丈夫じゃって――
 怪訝そうな美咲。
――なぁ、行こ行こ――
「ほんとにちょっとだけなら」
 しぶしぶ了承した。ウタエは白い炎の球の姿のまま、間違いなく微笑した。
――ほんなら、壁に背中付けて目を閉じて――
――頭から爪先までに詰まっとる酸素を全部吐き出しながら、自分が今しゃぼんだまになっとるって想像して――
 吐き出す息に体中の意識を集中して、美咲は言われたとおりにしゃぼんだまを頭に思い描いた。丸い丸いしゃぼんだま。光を受けてきらりと光る極彩色の。
――……気分悪くは、なっとらんかいね?――
 ウタエに声をかけられて、美咲は自分の体を見下ろしていることに気付いた。
「えっ。幽体離脱!? すごい! こんなことが本当にできるなんて!」
 興奮気味に美咲は言った。
――あとは、たやすい。たましいじゃけん、なんもかんも通り抜けて、外に出られるよ――
 彼の言葉通りだった。部屋から外に出るのにはふたつ深呼吸が必要だったが、肉体を離れた美咲のたましいは、ウタエの後に続いて驚くほど簡単に壁を抜けることができた。
 マンションの壁を抜けると、もうそこは雨の降りしきる外だった。暗く赤みがかった薄紫色の雲から、細くも太くもない雨の筋が幾筋も幾筋も伸びる。
(ほんとだ、雨、体に当たらん。傘もいらんなんて、たましい様様だ)
 空中にふよふよと漂い、美咲は何か月ぶりかにマンションの外にいた。   夜中の二時ともなると、街全体はひっそりと静まり返っている。雨がかすかな音さえも吸収してしまうから余計なのかもしれない。
「……」
 ふいに抑えきれない寂しさが、美咲の胸に広がった。一人で自室にこもっている時とはまるで違う、途方もなく広い世界に誰もおらずひとりきりになってしまったような孤独感。
「ウタエ」
 暗い街に、学校帰りに友達と寄ったファミレスも見えた。父母と行った記憶のある、亀を見つけた公園も。
「……ウタエ」
 声が震えた。
 傍らに浮かんでいたウタエの魄は、すいとその距離を縮めた。
 

 早朝。日の出とともに雨は上がったようだ。
 美咲は最後の色をパレットに混ぜ合わせながら、明るく言った。 
「何回聞いても、とうとう答えてくれんかったね。どうして私なんかのとこに来たんか。絵もへたで、なにより人と会うのをやめてしまったこんな私んとこに、どうして来てくれたん」
 からかうような軽い口調だったものの、若干の真剣みも含まれていた。
 人の形を取ったウタエは、だんまりを決め込んで、美咲の手元を覗き込んでいる。しばらくして美咲は、どう?とパレットを持ち上げた。
「昨日の晩御飯の桃の色。それっぽくなったじゃろ」
 白いパレットの上に、丸く溶いた絵の具が広がる。薄くしたオレンジと、薄いピンクを混ぜ合わせ、少し朱を加えて作った。
 ウタエは顔をほころばせて、
――うん、ええ感じじゃん――
 うなずいた。
「じゃあ、最後の一塗りじゃね」
 細い絵筆を絵の具にひたした。様々に描き込まれた人が笑う画用紙にそっと絵筆を近づけて、色を落とした。
 中央の女性の頬に、男性の頬に、順に頬を桃色に染めていった。
――絵が、生きたなぁ――
 ウタエは口の中でつぶやいた。
 頬に色を塗り終えた美咲は筆を置いて、ウタエに向き直った。
 白いワンピースの裾を両の手で握りしめて、
「えーっと、上手じゃないことは始めっから自覚してる。でも、へっぽこじゃけれど、こんな絵でよかったら受け取ってもらえんかな、ウタエ」
 美咲は穏やかに微笑んだ。そうして、画用紙を差し出した。
 初夏の海辺に集まる人人、ウタエとヒメ、娘子の幸福そうな笑顔が描かれているひとつの絵。みんなが笑顔の絵。明るさと温もりが滲みあふれる。
 ウタエと美咲の合作絵。
 もちろん、とウタエは手を伸ばす。
――お受け取りさせてください――
 差し出された絵を自らに溶かすように優しく抱きこむと、画用紙は徐々に彼と同化していった。
――この絵、ヒメに確かに渡すけん――
――ありがとう――
 ウタエが笑う。
 じんとしたものが、美咲の腹に湧いた。ややあって、彼女のまなじりから透明な涙が滑った。
「……私、私ね、前の私みたいにびくびくしていつも明るく笑っていなくてもええようになりたい。外に出るとか、高校に行くとかっていうのは、まだ恐い」
――うん――
「でももっかい、今度は心から笑って人と一緒にいたいなって思う。まだまだ、この部屋でじっとしている時間は続くかもしれんけど……」
 つっかえながら美咲は言う。
――そうじゃなぁ――
 のんびりと、ウタエが応じる。
――きっと、美咲なら大丈夫だなぁ――
「ありがとう、ウタエ」
 美咲は目元を細め、微笑を浮かべた。
 
 
 朝日と、ひんやりした朝の風。だんだんに街も人も目を覚ましていく。
 友美は、朝ご飯を作ろうとキッチンに立つ。やかんの水が沸騰するのを待つ間に玄関に立った。脱ぎ捨てたままだった娘の赤いパンプスを丁寧な手つきで揃えて置いた。今朝がたに見た夢を思い出して、にっこりする。
 一吉は、仕事先からの戻りの新幹線の中で眠っている。派手にいびきをかいて。荷物棚には、京都土産の八橋の入ったビニール袋。職場に行く前に、元妻の友美と、大切な娘の美咲のマンションに、久しぶりに寄ってみるつもりだった。

 ウタエに別れを告げた美咲は、絵の具と絵筆を手に取った。それらはすんなりと手になじみ、はやるような鼓動を掌に与えた。美咲は立ち上がった。
 声をききたい、と彼女は思った。
 それから、声をきいてほしいとも、思った。


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