見出し画像

満月

 電車がゆっくり減速して止まりました。車掌さんが駅名を告げると同時にドアが開いて生ぬるい空気が車内に入ってきます。
 妹尾りえは、リュックサックを背負い直して、ホームに降りました。
一年ぶりの地元です。今年はお正月もゴールデンウィークも帰省できなかったので、ちょっと遅めの夏休みを利用して、実家に帰ってきました。たった一年とはいえ、帰省するたび、つよいなつかしさでいっぱいになります。
駅のそばに立つ大銀杏の葉は、若若しい緑色から、少しずつ秋の装いになっているようです。
 実家までは歩いて二十分ほど。前に帰ってきたときより、新しい家が増えている、と、りえは思いました。少しの間に、新しい家族がたくさん越してきたのでしょう。
 きょろきょろとしているうちに、我が家に着きました。
「ただいまー」


 りえは、もともと地元で事務のお仕事をしていました。同じ系列の会社で事務員が不足しているということで、近畿地方に異動を命じられました。
今はお仕事の契約期間の関係上、そこに引っ越して一人暮らしをしています。引っ越し先はやたらビルが多くてひっきりなしに車が走る、いわば都会ですから、地元に帰ってくると、がちゃがちゃしていないまったりした空気が、りえにはうれしいことのひとつです。
「おつかれさん。こっちはまだ夏の暑さが残っとるじゃろ。麦茶でいいか」
 出迎えたお父さんのシャツと半ズボンだけという出で立ちに、りえはため息をつきます。
(かっこよく言えばラフじゃけど、どうもいただけないな)
 麦茶くれる、とたのんで、リビングにしいたござの上にぱたんと足を投げ出しました。汗にまじって、い草のにおいが鼻を刺激します。
「りえ」
 お父さんがうさぎ柄のコップに冷たい麦茶をついで渡してくれます。お礼を言って、一気に飲み干しました。
「ありがとう。のど、かわいていたんだ」
「へっへっへ、気が利くだろ、父さんは」
 にやにやと笑われ、りえもつられて笑いました。


 その日の夕方、職場から電話がかかってきました。内容は、りえの担当した案件にまちがいがあって、お客さんからクレームが来ているというものです。
 用件を聞いたりえはあわてて、なんとか新幹線の都合をつけてこれから会社に向かうと言ったのですが、課長はいつもの温和な声で、対応はもうすんで、お客さんも納得したと言って電話を切りました。温和な声には疲れが混じっていました。
(どうしよう)
 すんでしまったことなのに、りえの頭の中は、「どうしよう」という気持ちでいっぱいです。
 太陽が山の端に落ちるように沈んでいきます。夜のとばりが下ります。
暦では、数字の下に「中秋の名月」と小さく印字されているのにもかかわらず、満月をおがめるほど澄み切った夜空ではありませんでした。
うさ晴らしのようなやけのような気持ちで、りえはコンビニに行ってお酒を三本買いました。一本を、コンビニを出てすぐに開けてぐいっと飲み干します。一気に飲んだせいか、視界がくらくらゆれました。残りは帰って飲もうと、りえは買い物の白いビニル袋を手に提げて、家までの道をたどりはじめました。
 秋の夜の、さらりとしたぬるい空気と風を頬に感じるうちに、目がうるんできました。失敗をしてしまった事が悔やまれてしかたありません。涙はあっという間にあふれて、頬を伝って流れます。
 ごしごし拭って、ずずっと鼻をすすりあげた時、「もしかして、りえ?」という男の人の声がしました。
 えっ、とぬれた顔を上げて声のした方を見ると、つい今しがたまで運動をしていたのだと分かる姿の男の人が、街灯のもとにいる自分を、目をこらして見つめているのが分かりました。
「どなたですか」
 涙は素早くぬぐって、それでもかすれた声になりながら、りえは尋ねます。
 驚くことに、変質者だ逃げなければと、頭をかすめた恐怖よりも、この人をわたしはよく知っているという確信が勝っています。そして、
(この人もわたしをよく知っている)
 男の人の意外そうな表情が落ち着いてゆき、「ああやっぱり、りえだ」とつぶやくや、りえのほうに向かってきました。
「泣き顔、変わんねぇんだな」
 さもおかしそうに言う男の人を見つめていると、りえの中にひらめくものがありました。
「トオルくんの弟の、ちぃ坊?」
 ちぃ坊、こと、ハルキは、分からんかったんか、と息を吐きます。その表情はもはや、おかしくてたまらないというものになっています。
「変わらんなぁ。年下のおれにいたずらされて、びいびい泣いとった時のりえの顔と」
「いつの話しとるんよ」
 りえは、思いがけない相手との再会に、一時、涙を忘れました。
「何年ぶりかな。いつからだったか、おれら、つるんで遊ばなくなったもんなぁ」
 からかいとおどけを混ぜたように腕を組み、うんうんとうなずくハルキ。
ハルキは、二つ年下で、りえの同級生のトオルの弟です。りえとトオルが仲良かったのは男女問わず遊べる小学生くらいの時で、放課後にクラスメートとするドッジボールやサッカーに、ハルキもよくついて来ていました。
 中学校に入って、お互いが同性の友だちと遊ぶようになってからは、自然と三人が会う時間はなくなりました。けれどもそれまでハルキは、りえにいたずらやいじわるを言っては、楽しんでいました。うわぐつにとかげのおもちゃを入れたり、かなづちりえと言いふらしたり、他にもたくさん。年下のハルキによく泣かされていたものです。
 そのハルキが、ずいぶんと成長して、りえの前で笑っているのでした。
「じろじろ見ないでよ。子どもの頃とは違うんじゃけん。あんたはこんな時間までなにしとったんよ、そんな格好で」
 りえは、目が赤くなるほど強く涙をぬぐって、とがった声で訊きました。
「見たまんま。もうすぐ秋の大会が近いからな」
「大会?」
「もう、見たまんまだって。中学のサッカー部のコーチやっとるんよ」
「ふうん。こんな遅くまで」
「そう、おれもそれが心配なんだ。練習とは言えこんな遅い時間まで、生徒を残しといていいのかって。田舎だからっても、不審者とか、怖いのにな」
 ついさっきまで軽軽しく笑っていたハルキがまじめな調子で言うので、りえはちょっと言葉に詰まりました。
 どちらともなく、秋の風に促されるような形で街灯のあるまっすぐな道を歩きはじめます。
「トオルくんはどうしてんの」
「兄貴は、どっかの県で水質調査に行っているよ。ゴールデンウィークにこっち帰ってきたと思ったら、わけのわからん資料の推敲みたいなやつ頼まれてめんどうくさかった」
「わけのわからん資料って、そんな言い方。水質調査って難しそう。トオルくんすごいね」
「すごいかなぁ」
 後ろ頭をかいて、今度はハルキが、りえに尋ねます。
「りえは? 転勤がどうのとか、どっかでだれかから聞いたけど」
「まあそんなもんかな。ここよりずっと都会。今はどこも人手不足じゃから、労力が足りなかったらあちこちからかき集められるのよね」
「で、今日は?」
「明後日まで休みなんよ。うちの会社はみんないっせいに休みを取れんから、ずらして休暇をもらうの。秋の今頃、わたしは遅めの夏休み」
「……仕事、きついの」
「きつくない仕事なんてあるの」
「そういう意味じゃない」
 涙もかわいて笑いも出るようになったのに、またハルキはまじめな調子になりました。
「じゃあ、どういう意味よ、ちぃ坊」
 ハルキは答えずに、りえの持つビニル袋を指差します。ついで、りえを強調するように、りえの顔を指差しました。三番目に人差し指を空に向けて、「付き合えよ」と、強引な口調で言うや、りえの手をつかんで引っ張り出しました。
 瞬時に不可解と恐ろしさにおそわれて、えっなに、と、手を振りほどこうとしましたが、サッカーのコーチをしているというハルキの強い力にはかないません。
 団地の中を抜け、引っ張られ、近所の氏神さまの神社に向かっていきます。怖い、と、りえは思いました。なぜって、ハルキが向かっているのは、神社ではないようなのです。ふっ、と酔いが醒めました。
 がさっ、と坂道をそれて、林に立ち入ろうとするのでさらに恐ろしくなり、悲しみではなく恐怖の涙があふれてきました。
「落ち着けって。連れていきたいところがあるだけだから」
 怯えるりえに、ハルキは安心させるように、大丈夫と繰返します。
 それでも、手を強く握られ振り切ることができないとなっては、恐怖はつのるばかりです。金切り声を上げることも、やろうと思えばできたのでしょうが、怖くて声は出ず、りえは林の木木を避けて自分の手を引くハルキに従うしかありませんでした。
「あのさ、こんだけ行っても、思い出さない?」
 そう言われ、針葉樹や広葉樹などの枯れ葉が混じり合って積もったふかふかの地面を踏んでいると、半分だけまだ酔いが残っている脳から、ふうっと思い出されるなにかがありました。
 いきなり開けた場所に出て、ハルキはずんずん歩くのをやめました。
山を三分の一ほど登ったようです。
 りえは目を見張りました。
 自分の立っている場所から、町が見えます。屋根や街灯や、お店のネオン。
 見上げたら、灰色の短い雲が西へ流れ、白い光を発する大きくてまるい月が、手を伸ばしたら包めこめそうなくらいにぽっかりと、秋の夜空に浮かんでいます。
「ここ、三人で来たよね」
 りえがつぶやくと、ハルキは微笑みました。
 小学校の時、この、氏神さまを祀る神社のある山を少し分け入って進んだ先の、開けた丘で、りえと、トオルとハルキで、お月さまをつかまえようとした事がありました。
 お月さまをつかまえて、トオルはあらゆる事を研究したいと言い、ハルキは一緒にサッカーをしたいと言い、りえは月のうさぎと友だちになりたいと言いました。
 かなわなかったけれど、小さなむしとり網を持って、三人で、この場所で満月を待った事がありました。
「中秋の名月か。昔のひとはうまい事言ったもんやね」
 雲間から清らかな光を地球へとそそぐ満月。
 おもむろにハルキはショルダーバッグから取り出した小さなものを、りえに渡しました。
「やるよ」
 かわいいおにの絵が描かれたきびだんごがひとつ、りえの手に。
 昔からあってよく見かける有名な和菓子屋さんのおだんごです。ここいらの小学校では給食にも時時出ていました。
「いただきます」
「今晩は、十五夜だかんな」
 包み紙を破って、白いおだんごをつまみます。もちもちしたおだんごを口に入れて、そぼくな甘さをかみしめます。
「久しぶりに食べた」
「おれも。もう一個いる?」
「ちょっと、なんでそんなに持っとるの」
「りえに会わんかったら、一人で月見をしようと思っていたから」
 むぐむぐと自分もおだんごを食べながら、かばんからさらに三つほどきびだんごを取り出してりえの手に放ります。
 ありがとう、とまだ戸惑いつつも、りえは受け取り、包みをといてやわらかなおだんごを口にします。
「ちぃ坊、こんな粋な事できるようになったんだ」
「まあな」
「しかも、昔むちゃくちゃいたずらしょうたわたしに」
 かすかにこめられた皮肉を知ってか知らずか、ハルキは近くの切り株に腰を預けて言いました。
「りえの困った顔がおもしろかったかんな、小さい頃は」
 くしゃくしゃと包み紙をまるめて、
「久しぶりに会って、久しぶりにりえの困った顔を見たら、心配しかなかったけど」
 えっ、と口を開けたりえは、月明かりに浮かぶ年下のいたずらっ子の表情に驚きました。町の灯を見つめるハルキのおとなびたまなざしには、じょうだんの気配は少しもありません。
 仕事さ、と、りえはぽつりと言いました。
「きついわけじゃないよ」
「ほんとうに?」
「あっちで友だちもできたし、色色教えてくれる上司もいるし。でも、やっぱり失敗はしちゃうんだよね」
「かんぺきはむりだよ」
「うん。でも、相手の人生に関わる事だったら?」
「どういう事?」
「今日ね、課長から電話があって。わたしの書類作成と計算間違いで、ぬいぐるみがお客さんの手元に依頼日に届かんかった。依頼日は、昨日」
「ぬいぐるみが昨日届かんかったのがどうしていけんの」
「お客さんのお母さんが、最期に、わたしたちに依頼した大切なものだったの」
「最期に?」
「ぬいぐるみを縫ったお母さん、重病だったんよ。生死の境をさまよっているっていう状態だった」
 課長の語った話を思い出し、
「依頼主の娘さん、まだちっちゃな女の子。泣きながら言ったんだって。赤ちゃんの頃に両親は離婚して、自分は父親に引き取られた。女の子の誕生日は昨日で、本来は、お母さんが送ったぬいぐるみは、誕生日に届くはずだった」
「でも、贈り物は一日遅れて女の子の手に渡った?」
「そう。女の子はぬいぐるみを受け取って、嬉しくて、だからすぐお礼を言おうと電話をかけたんだって。けどね、離れて暮らしとって、病気で入院しとったその子のお母さんは、女の子の誕生日に、息を引き取ったって、看護師さんから聞いたって」
 再び涙があふれてきて、声が震えます。
――お母さんはあたしの誕生日に間に合うようにぬいぐるみを送ってくれた。でもお母さんはあたしの誕生日に死んじゃって、贈り物はお母さんが死んでから届いた。依頼の通りにお誕生日に届いていたら、お母さんに、ありがとうの言葉を伝えられたのに――。
 女の子の悲痛な叫びが、直接聞いてはいないはずのりえの耳を刺してやまなかったのです。
「その子が母親にお礼を言えなかったのが、自分のせいだって?」
 りえはうなずきました。
(日程をもっときっちり見ていればよかった。あの子のもとにあのぬいぐるみが依頼日通りに届いていれば)
 ハルキは、落ち込むりえの目から大粒の涙がぽろぽろとあふれていくのを見て取ると、きびだんごを呑み込んでから、「遅いし送る」とだけ言いました。自分より低い位置にあるりえの頭をぽんっとたたき、背中を押しました。
 食べなかった残りのきびだんごとやけになって買ったお酒の入ったビニル袋を左手ににぎり、りえは唇をかんでハルキに続きます。
「くだりじゃけん、足下、確認しね」
 ずんずん登ってきた道も、いざ下るとなると足場が分かりづらくて、怖くなって「待って」と言うと、ハルキは振り返っては、急かさず待ってくれました。
 満月は、雲に隠れたり現れたり。
 家の前まで来ると、りえはハルキにお礼を言いました。
「ありがとう」
 だまって首を振ったハルキは、「もう、泣き顔は見たくないな」と少し笑いました。
「なんでじゃろな。笑っとってほしいな」
「誘ってくれて、ありがとう、お月見」
「おれこそ。また話せたらええな」
 ハルキが口角をやわらかく持ち上げたので、りえもうなずきます。
 手を振って別れて、りえはもう一度、夜空を見上げました。
 秋の満月の光はとろりとした声で子守歌を歌っているようでした。

 車掌さんの声とともに電車の出入り口が開きます。
 りえはリュックサックを軽く背負い直すと、ホームのアスファルトを蹴って電車に乗り込みます。
 秋に染まる山、県を代表する河川、スーパーの看板。それらを目の端に映して、りえは一定のリズムを刻む電車に揺られます。トンネルに入ったと同時に、目を閉じました。
 白い月とやわらかいきびだんごだけではなく、いたずらっ子だったちぃ坊のハルキの声もまるくて、それから優しかったという発見。
 次にこちらに帰ったら、またハルキに会いに行こうと、りえは思いました。

――――――――――――――――――――――――――――――

あとがき
こんにちは。新作は久しぶりです。またも苦手な「ですます調」のお話です。この文体にする時は、ほぼといっていいほど、童話の創作をする時です。今回もそう。でも、やっぱり、いつも「だ・である」を使っているわたしとしては、非常に書きにくい部門でした。「ですます調」を語尾に使うと、より響きを気にするように思います。何回も「でした」が続くのは響きの観点から言ってぞわぞわするなぁといったように。

調子がよかったのか数日でおおかたできあがりました。起承転結を詳細まで取り決めなかったわりには、誰・何がこんなふうに思ってこんなふうに動いて、と、まるで見たように描写できました。大きな出来事を書こうとは思いませんでした。特別な事もできれば書かず(書いてしもうたかも)、ただ「おもい」が入ったらいいなぁとは思いました。

方言を入れたがるくせは本作でも同じですね。むりやりな感じがしないでもない鍵物が、「きびだんご」。岡山県では有名な和菓子のひとつです。お土産で有名です。もとは「黍団子」と書くようですが、「吉備津彦命の鬼退治」の伝説(ご存じ桃太郎伝説)にちなんでか、「吉備団子」とも書くようです。余談ながら作中で、きびだんごが給食に出ていたというのは体験談です。小学校の給食で、デザートという扱いで、○○のきびだんごが出ていました。あまり味はないんですが食べてみると、懐しかさがあります、不思議と。わたしのおすすめは、マスカットきびだんご。中にとろっとしたマスカット味の餡のようなものが入っていて、一口でマスカットを感じられるような味わいです。機会があればぜひ。

読んでくださってありがとうございました。さいはいがあなたに降りますように。

二〇二〇年三月十一日 この日も月の光はすべてをてらすと信じて
生ヵ縫 凜


もしも、もしも、もしも、わたくしめの物語であなたの心が動いたら、サポート頂けるとうれしいです. いただいたサポートは、より深くより大きな作品(完結作品)を紙媒体で出版するために使わせていただきます.