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ミステリーの杜 事件を吸い込むサイキスト 最初の事件(第一回)

扇風機は生暖かく湿った空気をかき回しているだけだった。

 ぼくが住む名ばかりのマンションの骨董品的クーラーは騒音と電気代ばかりで全然涼しくなかった。それで、扇風機を使っていたけれど、この暑さと湿気には全く効き目が無かった。
体の穴という穴から汗が吹きだしていた。
眠れそうになかった。枕元の携帯を取って時間を見た。あと数分で日付が変わるところだった。
 コンビニで何か冷たいものでも買って、E海岸へドライブに行こうと思った。ぼくには明日の朝、出かけなければならない職場も学校も無いので時間を気にする必要がなかった。

 数年前、自慢じゃないけれどそれなりの偏差値の高校の最後の夏休みが終わろうとしていたある日、赤信号で止まっていた親父とお袋が乗っていた車は酔っ払いが運転していたトラックに追突され、交差点に押し出された。そこに猛スピードで走ってきた大型トラックに跳ね飛ばされ、信号柱に激突した。
 車はペチャンコに潰れ、ほとんど原形をとどめていなかった。
K署の交通課長は言つた。「見ない方が良い。元気なお父さん、お母さんの姿をしっかり覚えておいてください」
そう言う交通課長の顔はゆがんでいた。

 親父は小さな町工場を経営していたが最近は自転車操業だった。倒産は間近に迫っていた。高校生のぼくにも、それが分かっていた。ぼくが小さかった頃は「お坊ちゃん」と言われていたのだけれど、それは遠い昔の話になっていた。ぼくはひとりっ子で親父もお袋にも兄弟・姉妹は無かった。葬式にはどういう関係なのか分からない遠い親戚が出席したけれど、関係はそれっきりになった。借金と高校生の息子しかない、つまり、金にならないぼくには興味がないと言うことだ
 ぼくは弁護士さんと相談して工場をやめることにした。事故の賠償金や親父・お袋の生命保険(二人とも結構、高額な保険に入っていて、その支払いに四苦八苦していた。)、工場敷地の売買代金で借金を返して工場の従業員三人にそれなりの退職金を数ヶ月遅れで支払った。
「社長さんと奥さんがあんな事になって残念だけれど、こんな大金の退職金が貰えるなんて思ってもいなかった」と、三人の従業員が、同じように言った。
 それでも、ぼくの手元には数百万円残った。

 高校卒業後は学校の紹介でK事務機に就職した。そこは、ブラック企業だった。ノルマがあって達成できなければ課長にガミガミ言われた。課長は浮気がバレて奥さんと高額の慰謝料を払わされ別れていた。別れたのはぼくが就職する直前だったけれど、世の中には親切な人がいるもので、入社の翌日にはぼくはその事実を知った。ぼくは課長のいい憂さ晴らしにされた、ということだ。
 でも、誰もぼくの味方になてくれる者はいなかった。
 残業代は出ず、先輩にはいじめられた。社長は知らんぷりだった。半年で辞めた。辞めて三週間後、K市役所の担当課長への贈収賄容疑で社長と課長が逮捕され会社は倒産した。
 K事務機の後はU土木に就職した。ここでもいじめにあった。ぼくの卒業した高校はR県下でもそれなりに名の通った進学校だ。進学校卒で大学も行かずに肉体労働者になったぼくはいじめの対象になった。就職後三週間で全国的なニュースにもなる死亡事故が起きた。ぼくももう少しで土砂の下になるところだったが、既のところで助かった。
 ぼくを積極的に虐めた三人が死んだ。
「ざまぁ見ろ」と、ぼくは呟いた。

 社長は蛇を見る目でぼくを見て、不幸を持ち込んだクズと言うことでクビにした。勿論、退職金なんて、洒落たものは出なかった。三週間分の賃金の支払いでさえ、惜しそうだった。クビになってから二週間後に社長は自殺した。会社経営は火の車だった。糞社長の未来にはいい加減な安全管理の代償の賠償金と刑罰、倒産しかなかったのだ。
 もう一度、ぼくは呟いた。「ざまぁ見ろ」

 その後は就職しようとしても、履歴書を見ただけで何処の会社にもパスされた。ぼくが社長でもパスするけれど……。
 ぼくは気分転換も兼ねて高校三年の時の担任の先生に保証人になって貰って、県内の全く別の地区に引っ越した。
 でも、引っ越ししただけで運が変わるはずが無かった。少しも良い事は起きなかった。あい変わらずまともな仕事には恵まれなかった。
 ただ、ぼくは仕事が欲しいのだ。普通に生活できる仕事が欲しい。
 ぼくの資格と言えば、車の運転免許しかない。パソコンも得意ではない。自分でも言うのはおかしいけれど決して“イケメン”でないし、背は165センチしかない。これと言った資格も無いし、特技も、人に自慢するできることなんて、何一つ無い。
 でも、贅沢は言わない。“仕事”が欲しい。
 普通に生活できる仕事が欲しい。

 ぼくは高い塀の上を危うい足取りで歩いている。
 右に落ちたら高い塀の向こう、つまり刑務所の中。左側は自死、E海岸の海に浮かび魚の餌になるしかなかった。
 何時かは右か左に落ちるだろう。ぼくは運動音痴で不器用な生き方しか出来ない男なのだ。

 絶望しか見えない。

 どうせ眠れない。E海岸まで出て海岸沿いをドライブすることにした。
 パジャマだけ着替えて、外に出た。
 外は明るかった。空を見上げると満月が一面に曇った天空で明るく輝いていた。丁度、奇跡的に月のあるあたりだけ雲が欠けていたのだ。
 日中は真夏の太陽が照りつけ最高気温が35度を超えた。ところが、太陽が沈む頃になると空を厚い雲が覆うようになった。
 「鍋蓋効果」で蒸し暑い夜になっていたのだ。
 駐車場を出て国道4百☓☓号に向かった。国道との交差点にあるコンビニで何か買ってからE海岸に行こうと思った。車の時計は真夜中を僅かに過ぎていた。

 左手は長い板べいが続く屋敷だった。N市でも有名な資産家の老人が独りで暮らしていた。爺さんは近くのボロアパートに住む住人を、特に若いぼくを蛇でも見るような目で何時も見た。
 でも、しょうがない。爺さんは人生の勝者で、ぼくは敗者なのだ。
 突然、屋敷の門から車が飛び出してきた。軽の乗用車だった。運転席に男が座っているのが見えた。軽乗用車には不似合いな大柄な男だった。
 ぼくは、一瞬、ナンバーの下二けただけを読むことが出来た。
“11” 数字が単純で良かった。
 でも、上二けたは読み取ることが出来なかった。

 新車の軽乗用車は猛スピードだった。何かから逃げる。そんな感じだった。
 ぼくは直感した。
“何かある! 犯罪!! 金になる”
 ぼくは必死でアクセルを踏みその軽乗用車を追った。でも、中古のボロ軽乗用車に新車を追えるわけが無かった。車間距離は次第に広がっていった。車は交差点を黄色で進入し通り過ぎて行ったけれど、ぼくの前では赤信号になり、後を追えなくなった。
 しょうがなくぼくは角のコンビニに入った。
 店内には誰もいなかった。レジにすら、人影は無かった。
 カップのアイス珈琲とチョコバーを持ってレジの前に立った。
「すみません! 」と、声をかけた。それでも、誰も出てこない。
「すみません! 」と、もう一度呼んだ。
 控室から七十前後の男が現れた。客を相手ならもう少し身ぎれいにした方がいいと思った。夜遅くに、時々、見る爺さんだ。
 この、爺さんも人生の敗者だ。
 ぼくがレジの上に置いたものと服装を見て、爺さんは言った。
「おや、こんな夜中に何処かお出かけですか? 明日の朝、出かけなければならない学校も職場もない人間にもメリットはあるものだ」
 爺さんは、ぼくがボロアパートの住人で、仕事が無いことを知っていた。

 人生の敗者は、同じような人生の敗者を見抜くものなのだ。で、自分より惨めな敗者の足を引っ張るものなのだ……。
「……」 ぼくは、無言で金を支払いコンビニを出た。

                         つづく

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