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あの日見たのは、夜桜と二人だけの宇宙

「今夜遅くにかけて傘の出番となりそうです。お出かけの際には小さな折りたたみ傘があると安心でしょう。」
ふと垂れ流すような映像から、こんな言葉が聞こえてくる季節になってきた。優しくも冷たくもない、春の訪れを告げる「菜種梅雨」(菜の花が咲く頃に降る長雨)がそろそろ日本を包む頃。

誰しも春に対して、期待をして気付けば絶望をし、挙げ句の果てには"裏切られた"とまで言い出す人もいる。

こうした四季折々の移ろいに対して、不思議な感覚をもつのは日本人の性なのだろうか、と季節の変わり目にいつも憂いている自分がいる。"自分で自分を憂いているくらいには暇をしている"という事だ。

感傷的になるのもまた春の仕業だ。夏には暑さで感傷になんて浸っていられないし、浸るなら水一択でしかない。

春、開けていく視界、あるいはフィルムカメラで撮った桜。
そんな宝物をその当時の記憶の箱に大切に閉じ込めた事のある人は、世間には一定数いると勝手に決め付けている。
東京には色んな街や場所があって、そこには色んな自分が豊かな表情で何役も演じている。まったく自分迷子になりそうで季節も春かどうかすら危うく感じてしまう。

"春の匂いが鼻をかすめる"
"桜が散りゆく中で、期待が薄れていく"
"得る為に失って得たもの、春の夜風はその真価を教えてはくれない"

なんとなく好きな言葉たち。
春を機会に、春っぽくなくて、それでいて視点を変えると春とも捉えられるような、そんな言葉たちを今年は探していこうと思う。


"夜桜を見て、そこに宇宙を感じた"

汚れた街灯に照らされながら、月に向かって語りかけるような芽吹いた桃色。見た事もない銀河がそこにあると錯覚し、思わず宇宙を重ねてしまった。それはまるで、誰にも邪魔されない二人の世界そのものだった。
形あるものはいずれ無くなる、栄枯盛衰の理を忠実に体現した桜に当時の二人を重ねてしまうのは、自分が無知で未熟だったという紛れもない証拠でもあった。

きっと僕らは、宇宙みたいな膨大で漠然とした何かを追い続けている。


捉えようのない実体のない概念、単純に人々はそれを"春"と呼ぶ。


答えのない問いで頭を回転させながら、今日を迎えたり昨日をやったり。
あなたにとって、会いたい人に会えるような春が来てくれればとても嬉しい。
今年の"宇宙"は、例年より長く咲き誇る事を祈って。


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