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いのちのなかとそと〜グラヴィス帯ゲーションのはじまり〜あとがき①

制作したメソッド本「いのちのなかとそと」は、
わたしのなかに湧き上がってきた感覚と体験の
複合から生まれたものであり、また解説で引用
した書籍、著者、所属団体とはなんらの関係も
無く、著述者の方々には、改めて深い敬意と
謝意を申し述べたい。

その上でメソッド本文中の表記・引用は
発行者であるわたしにその文責のすべてが
あることを明記しておきたい。

そして何故、わたしがこのような自己調整法
のメソッドを創るにいたったかの経緯を
述べてみたい。

今年(2022年)で満68歳を迎える。

本文中でも述べたが、奄美大島に生まれ
大島紬の図案師として20代を島で暮らし、
30代になってから家族で東京に出て来た。
その時すでに三人の娘がいたが、
無謀な家族五人での上京は40代半ばで
限界の憂き目を何度か経験したが、
島に帰る意思は無く、ひたすら前のめりで
進む日々を送ってきた。

わたしには夢があった。

それはもちろん島を離れる動機であった
訳だが、妻や、まだ当時小学5年生・3年生・
3歳の子供たちにとっては、それぞれ過酷な
現実があったものと今更ながらに感じている。

当時は妻や子の痛みを顧みることなく、
ひたすら夢のために新たな人との出会いを
求めていた。

いつでも、どこでも、誰とでも、会う!
それしかなかった。

無論、サラリーマンでこんな生き方は望む
べくもなく、明日をもしれぬフリーの自営業。

しかしさまざまな出会いによって、
飛び込んできたものはなんでも仕事にした。

後日「お父さんの仕事は何?」他人からの
この質問にどう答えるかが一番困ったと
三人の娘は口を揃える。

後に起業して、グラフィックデザインを
中心に印刷物、看板、壁面のレリーフ制作、
商業施設の販促計画、企業経営者の個人講師、
更には商店街の街おこしイベントの
プロデュース、大規模小学校の分校に伴う
イベントのプロデュースと活動は止まることを
知らず、あらゆる業界に人脈を広げていった。

しかし全力投球を続ける40代の中頃から
50代にかけ、次第に身体の不調を抱え、
会社を畳むことを余儀なくされた。

体調が回復しつつある頃、あるボーカリスト
との再会があった。

数多くのCMソングを歌い、業界に知られた
彼女のデビューを以前プロデュースした
ことから再びご縁が繋がり、プロデュースの
依頼が舞い込んできた。

歌唱力は折り紙つきだが、何をどう展開
したらいいか?迷っていた。

ただ業界の求めに応じて歌うことに限界を
感じ、新たな歌の世界を目指したいと熱く
語る彼女に、わたしも長年の夢を語り
意気投合、まだ経験したことのない挑戦が
始まり、こうしてまた激闘の日々が
戻ってきた。

折りしも2011年3月11日末曾有の大災害は
歌う環境をも一変させた。

イベントの自粛が広がり、大津波は東北
のみならず日本国中を飲み込む勢いだった。

足元まで津波が押し寄せてきた。

居ても立ってもいられず4月の終わりに
二人で被災地に飛んだ。

三沢からレンタカーを手配して三陸海岸を
西に下っていった。

宮古、山田町、大槌町、釜石、大船渡、
隆前高田、気仙沼、南三陸、女川町、石巻、
名取町、そして仙台にたどり着いた。
悲惨な現実だった。
元気の塊のような彼女も体調を崩した。

ただ救いは「歌いに来て下さい。こんな時
だからこそあなたの歌が聴きたい!」

以前からのファンの人や出会った方々から
強い要望が寄せられた。


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